日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

おカネの重量感はどう変わる

 

茨木のり子さんの詩『笑う能力』のこのフレーズは、何度読んでも楽しめる。教授の元に教え子から便りが届いたそうな。

<先生 お元気ですか 我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました>。

艶っぽい話のようだがそうでもない。<手紙を受けとった教授は 柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか>と続く。

うっかりと間違えた漢字も文章の脈絡へ絶妙に嵌るからおもしろい。

さて、この漢字はどうだろう。“測、図、謀、量、計、諮・・・”。「はかる」の読みを持つ漢字であるが、何かをはかる行為の多さに驚いてしまう。

お金の重さを量ったことはないが、工場から出荷される百円玉は4千枚ずつ袋に入り、ひとつ約20キロもあるという。新札で1億円は約10キロらしい。

運ぶ手間もたいへんだろう。銀行も低金利や人口減での経営は厳しい。メガバンクのATMの相互開放も、そのひとつなのだという。少しでも負担を軽くしようという動きが出て当然だ。

  

 

ATMは1台約300万円というから新車なみ。(試算では)維持や管理にかかる費用は全体で7600億円とのこと。そして重たいお金を運ぶ必要もある。どう考えても、キャッシュレスの方がよさそうである。

私はガラケーの電話の時代から、コンビニや電車利用で現金を使わなかった。買い物や飲食店ではカードで済ませていたので、財布からお金が出ていかず貯まる方が多かった。当然、引き落としで引かれるが、赤字にしないようにチェックは欠かさない。

あれから、今のキャッシュレス時代になっても変化を感じない。各企業が自分のところへ囲い込む企みで、〇〇ペイ、△△ペイと分散してまとまりがないため、店舗も客もちぐはぐなのである。

中国では銀行口座とひも付けされたスマホの支払い用アプリなしに、生活は立ち行かない。欧州では路上の芸人さんへのおひねりも電子決済だとか。きっと、日本みたいに乱立していないからこそ為せる技だ。

  

 

人工知能(AI)を活用した無人店舗にも興味が強い。構築サービスを手掛けるアメリカのある企業では、入店して商品を手に取り、店を出るだけで決済が完了する。

店舗内に設置したカメラの画像解析技術とAIを組み合わせ、来店客の一人ひとりを「カート」として認識するのである。

来店客が商品を手に取ると、カートに商品が入ったと判断、商品を棚に戻すとカートから商品が取り除かれたと認識する。まるで、ネットでの買い物みたいだ。

店内の商品は、AIが形状やパターンを学習。決済との連係は専用のスマートフォン向けアプリを通じて行う。そして来店者がアプリを起動すると、画面全体が一瞬赤く光る。これを店内に設置したカメラが捉えると、連係が完了。

商品を手に取り、退店するだけで、アプリに登録しているクレジットカードで決済が完了する。新バージョンでは、スマホを取り出す必要すらなくなるという。もう、現金が介入する余地はまったくなさそうだ。

 

よいよいみたいな「まずまず」

 

元号が昭和から平成へと変わる頃だったか、“殿様改革”なるものが進んだという。近寄りにくい感じの“◯◯殿”がほんわりとした“◯◯様”へ・・・と。役所の文書の宛名である。

当時の新聞によれば、“様”は“殿”より敬意をあらわすレベルが上らしい。ふだんの使い方では、“様”が書き言葉、話し言葉では“さん”がよく使われるようであるが。

学校以外で、“◯◯君”がふつうに使われるのは国会や地方議会で、吉田松陰が幕末に松下村塾で使ったのが(明治以来の伝統で)受け継がれたという。

「未曽有(みぞう)」を「みぞうゆう」、「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」、「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」等・・・。国会答弁などで誤った言葉遣いを連発したのは、麻生元首相であった。

 

 

その昔、ある人気俳優にNHKが密着して、素顔と芸を特集した。その番組のなかで俳優が「作者のイズは・・・」と3回語ったそうな。意図(イト)のことである。NHKの用語委員会は放映後に会議がもめた。「再放送ではテロップで“イト”と流すべき」、「いや、俳優が気の毒だ」といった具合にだ。

議論を収拾させたのは、委員長の国文学者・池田弥三郎さんであった。<単純なイト・イズ・ミステークということで・・・>との一言。これでテロップなしが決着。

麻生元首相の読み違いでも、当時の新聞コラム記事に書かれていた。<いずれも慌てるあまりの単純な読み間違い、言い間違いだろう。「意図・イズ・ミステーク」の香りが濃厚である>と。

2019年10月13日、令和元年台風第19号による自民党の被害対策役員会の冒頭挨拶で「色々言われていたことから比べると、“まずまず”で収まった」と発言したのが自民党の二階幹事長。

 

 

その後の被害の拡大をテレビ等で見るたびに、“まずまず”が浮かび腹が立ってくる。この人の言動は人としてどうなのか。議員はそれほど偉いのだろうか。

千曲川、夏井川、多摩川が決壊、または氾濫し、多数の死傷者、行方不明者、避難者、断水や停電被災者が出ている中の発言は批判を受け、形だけの謝罪はしたがその際も質問者に食って掛かるような言動であった。

“よいよい”という言葉がある。俗に、アルコール中毒、中風その他の原因で手足がしびれて、正常な歩行もできない病気の人。私も酒好きで人のことは言えないが、よいよいのような人とも酒席でお会いしている。

あの幹事長の言動をテレビで見ると、いつも素面には思えないのである。あの人の漢字力はどうなのかわからぬが、何を言っても自分は偉いから「良い良い」と思っているのではあるまいか。

 

「気の持ちよう」にも因果あり

 

花が色美しく生まれるのは、偶然ではなく理由があるらしい。花粉を運んでもらえるようにと虫を引き寄せるためであり、花の中で生まれてくる種子(子供)を紫外線の害から守るため、花びらに色素が多く含まれる。子孫を絶やすことがないための美しさともいえそうだ。

人の普段からの表情にも、なにかの関連性があるという。アメリカの心理学者が卒業アルバムを使い、ある研究をした。何百枚もの写真からその笑顔を分析するのだ。

まずは、笑っているかどうか。そしてそれは満面の笑みなのか。分析結果で、写真の人物の笑顔の度合いと、その後の結婚生活を検証してみると、それほど笑っていなかった人の離婚率は満面の笑みの人の5倍になったとか。

とはいえ、この統計は日本人に当てはまらないだろう。日本人が卒業写真などを撮る際、歯を見せて笑うことがないからだ。

 

 

親しい人から高価な好物をいただいたとき、自然と満面の笑みがこぼれる。

作家の内田百閒さんに師事したドイツ文学者・高橋義孝さんは、百間さんに蔵出しの名酒を一升贈ったことがある。のちに百間さんに会ったとき、ひどく怒られたという。

<ふだん飲んでいるお酒が、ああいうおいしいお酒を頂戴したあとでは飲めなくなる。「迷惑します」>と、苦情を言われた。“満面の笑み”との大きな落差が、偏屈で知られた作家らしいエピソードである。とはいえ、その言葉の裏に百間さんの嬉しさを感じ取れるが。

思えば、人生を飾る成功も、到来物の“おいしいお酒”に似ているような気がする。人と人はなんらかの“恩恵”でつながり合うのかも知れない。そして、安心する性質が日本人にある・・・との説もあるらしい。

 

 

一字では安心できないのか、熟語には上と下の漢字で同様な意味を持つものがある。道路、表現、価値、会合・・・などと。“連語”の仲間として、平らかで、和(やわ)らかな「平和」もあり、そして景気も“気”からだという。

景気の浮き沈み、株価の動きなどもその社会の人々の心持ちと何らかの相関関係があるそうだ。経済学のかなりの部分は心理学と重なるらしい。

こうした観点で、証券系の研究所が度々おもしろい分析をしている。10年ほど前には、大和総研が「落とし物と株価の関係」を論じていた。

警視庁に届いた拾得物の統計から、現金の額をグラフにすると、中長期的な株価の浮き沈みとおおむね一致する、というから興味深い。

人々の心理的余裕があればこそ、拾ったお金をきちんと届ける。そうした余裕を生む社会環境では株価も上昇する、との分析結果だった。

 

AIでベテランになれる新人

 

1989年(平成元年)に、日本の小中学校は計3万6115校あったという。小学校や中学校が統廃合で減り続けているため、昨年は計3万162校になった。

生まれてくる子どもが減り続けていることもあるが、学校減少の要因の一つに不登校の増加もあるようだ。文部科学省の調査では、2017年度に年間30日以上欠席した“不登校”の児童・生徒(高校生を含む)は、前年度比6.3%増の19万3674人で過去最多。

少子化のみならず、社会との関わりが薄れる生活体系がこの先増えていくことだろう。

車販売の業界にも影響が出ることは避けられないらしい。人口減による将来的な新車販売台数の落ち込み。特定の車を所有することへのこだわりが薄れる時代に合わせ、多様な使い方を提供していかなければならない。

 

 

自分が愛し大切にしている生きものを“愛犬”などと呼ぶが、物や道具に対しても“愛”の字を使用する「愛車」がかつてはあった。大切に磨き、傷がついたらもうたいへん。手放さねばならぬときは感傷的にもなった。

今の人は車にそこまでの思い入れがないかもしれない。トヨタ自動車は好きな車を自由に選び利用できる定額制サービスや一台の車を複数の人が利用するカーシェアリング事業をスタートさせたらしい。時代の変化なのだろう。

これから先の若者たちはもっと車を買わなくなり、長年マイカーを持ち続けた年輩者のドライバーは、車を手放し免許も返上するのか。

車を持つ経費は馬鹿にならない。自分もほとんど乗らなくなっている。手放しても電車やバスがある。荷物などを運ぶときは近所のカーシェアリングがある。足の弱まった年輩者だとタクシーの利用が便利か。

多くの高齢者のニーズとして、タクシーの必要度が高まりそうだ。

 

 

タクシーの客が増えると、ドライバーの確保や育成が必要になってくるだろう。その分野でもAI(人工知能)が役に立つようだ。1350台でAIタクシーを実稼働している無線協同組合によると、新人でもベテランに近い仕事がこなせる・・・との威力を実感しているそうな。

NTTドコモが開発した「AIタクシー」の乗車台数予測を使った新人と、使わなかった9年目の中堅の乗車回数の比較で、新人ドライバー15回、中堅ドライバーは10回と、新人運転手が中堅に勝利したという。

AIもまだ、長い距離を走るお客さんを見つけるまでは対応できないようなので、ベテランの経験で回数より売上では上回るかもしれないが。

AIタクシーの使い方としては、新人とベテランでは違うらしい。AIタクシーのタブレットに表示されている、乗車台数が多いところに新人は向かうが、ベテランドライバーだとこれまでの経験で得意な地域がありAIタクシーは使わないこともある。

ただ、ベテランも不得意な地域を走る場合に頼り、AIタクシーで乗車回数を増やす。いずれにしてもAIの存在は頼もしい。とくに、新人がベテランの“感”を手に入れられるのがいいようだ。

 

「~しただけなのに」で始まる

 

映画やドラマはストーリーだけでなく、“事件・事情・事実”という3大要素の絡み合いも見どころである。とくに、事実なのかと感じさせられるリアリティに興味が深い。

2018年11月公開の映画『スマホを落としただけなのに』は淡々と始まった。発端は、ヒロイン稲葉麻美の恋人がタクシー内にスマートフォンを落としたことだけなのである。

そのスマホを拾ったタクシー客の男から後日に着信があり、麻美はスマホをなくした恋人の代わりにスマホを返してもらう。待ち合わせ場所に男は現れず、預かっていた飲食店員がスマホを渡した。

そして事件が起き、物語のテンポはどんどん早くなる。拾った男は待ち受け画像の麻美に興味を持ち、(恋人の)スマホ内の情報もすべて吸い取っていたからだ。そして、狂気に満ちた惨劇へと発展していく。

今のスマホへの依存度から、絵空事のドラマとは思えず、落とすことの怖さを感じてしまう。

 

  

運転中のセールスマンがゆっくりと走る大型トレーラーを、“追い抜いただけで”とんでもない恐怖に巻き込まれる作品もある。1973年1月に日本で公開された米国映画『激突!』だ。

若き日のスティーヴン・スピルバーグ監督の出世作で、低予算ながら大ヒットした。トレーラーから執拗に追跡される恐怖は凄まじく、真に迫ってきた。

物語では一貫して大型トレーラーの運転手の顔が見えない。たしか、セールスマンが食事で立ち寄っているレストランを見つけ、トレーラーを降りる時にブーツのアップシーンがあったと思うが、それ以外ではハンドルを握る手が見えるだけ。

大型トレーラーは巨大な生き物みたいで、いつまでもセールスマンを執拗に追いかけるシーンが続く。スピルバーグ監督も“怪獣の様に考えた”とのことで、その演出は大成功である。

 

 

“仕事がないだけに”始まる名作もある。フランス映画『恐怖の報酬』(1953年公開) の舞台はベネズエラの場末の街。食い詰めた移民達が日々何もすることもなく暮らしている。

主人公のマリオ(イヴ・モンタン)に仕事が入る。街から500km先の油田で火事が起きたため、火を消し止めるためにニトログリセリンを現場までトラックで運ぶ、という石油会社からの依頼である。

安全装置のないトラックでニトロを運ぶのは命がけ。街の食い詰め者に2000ドルの報酬で運ばせることになった。4人が選ばれ2台のトラックに分かれ、500km先の目的地に向かう。

悪路が続く道中には、落石や狭路などとあらゆる障害が待ち受ける。演出として、事前に挿入されたニトログリセリンの爆破威力のシーンが活きて、観客もハラハラ・ドキドキの恐怖を味わう。

マリオの相方ジョー(シャルル・ヴァネル)は、弱腰で何かあるとすぐに逃げ出す。<そしてこの2000ドルは運転の報酬だけでなく、恐怖への報酬なのだ>と言い訳をする。見どころは(短時間で描かれる)、大金を手にして浮かれた帰路シーンにあった。

 

おでんの具はなにが好きかな


<夕有風立秋>。風流な知人宅を訪ねた客が、床の間の掛け軸に関心を寄せた。“秋、風の立つ夕べ有り"・・・か? 「いい句ですな」と感心すれば、主人がニヤリとして言った。
「ユーアルフーリッシュ。おばかさんね、と読むのです」。国語学者金田一春彦さんの随筆にあった笑い話だ。

コンビニでビールや酒を買う時、いつもこの言葉を発したくてしかたがない。<私が未成年に見えますかね>と。どう見ても未成年に見える年齢や面相ではない。

年齢確認のタッチパネルに触れることに、毎回 違和感を覚える。

店側が客の手を煩わせるわけは、“青少年を守ることにある"とのことはよくわかる。ただ、杓子定規な対応が理解できず、無意味にも不公平にも思えてしまう。

 

 

今も商店などでは、ひやかしの客などと使われていることだろう。“素見(すけん)"という言葉があり、それを“ひやかし"とも読むらしい。元々のひやかしは、遊女を見て歩くだけで登楼しないことだとか。

かつて、江戸の色街といえば吉原。そのそばに紙漉き場があり、職人が紙を水に浸して冷やかす。そして待ち時間に遊女を見て歩いたので“ひやかし"という言葉ができたという。

さて、おでんが食べたくなる季節である。おでんの具の人気トップテンなどを見ても楽しい。私の好きな具は(上位にならないだろうが)、「はんぺん」と「ちくわぶ」がダントツである。

冬の屋台の定番と言えば、昔から「おでん」だろう。おでん種をつまみながら、日本酒が温まるのを待つ。ただ、そんな楽しみ方は昔話になるかもしれない・・・らしい。

“ひやかし"といっては語弊があるが、 最近はお酒を注文せず、おでんだけ食べて帰る人が目立つという。店主としては、おでんをほぼ原価で販売している。もちろん酒を飲みながら屋台を楽しむ人はいるが、“酒離れ"が言われる若い層だけでなく、年配者も頼まないケースがあるという。

 

 

おでんだけ注文して15分くらいで帰ったり、おでんとジュースを頼む女性の2人連れだったりと。ノンアルコールビールを飲む人もいるらしい。

この話で久しぶりに行ったカラオケスナックを思い出す。店が混んでいたので流行っているのかと思ったが、お酒を頼まず歌だけを歌う客が増えているとのこと。カラオケ代だけではお店もたいへんなようだ。

さて、おでん屋台は珍しいとのこので、雰囲気だけ味わって帰ろうとする人もいる。屋台ではお金を使いたくないと考えているそうな。

また、コンビニのおでんの影響もあるという。酒の肴ではなく、おでんそのものでお腹を満たすという若者が多いとか。

居酒屋でも同じ事が起きていて、あるおでん老舗店でも、おでんだけ注文して食べて帰るお客はいるとのこと。こちらも屋台同様、お酒の注文が無ければ採算的に合わない。

お酒が飲めない。車で来ている。おでんだけが目当てなどと、飲食店の用途も様変わりをしているのである。

 

「ドーデモイイ」という解決法

 

“言葉”は二義ということがよくある。たとえば、「何とも変わらない生来の性質」と「物事をやり通すたくましい精神」。“根性”のことである。後者の方ではものすごいヤツがいる。カタツムリの角(触覚部分)に入り込み、催眠術のように操る寄生虫がいるという。

ロイコクロリディウムという名前らしいが、湿った日陰で暮らすカタツムリが感染すると、正気を失ったように葉の表に出てくる。取り憑いたカタツムリが鳥に食べられるのが目的で、その鳥に寄生して腸内で繁殖する。

人間も、根性を試されたり鍛えられることがある。日清食品ホールディングスでは、新任管理職の“サバイバル研修”があるとか。無人島で2泊3日の野宿に臨み、電気も水道もない島でどう生きていくか・・・課題解決の力が問われる。

電力各社は配電部門に配属される新入社員に、高さ10メートルを超える電柱を登らせる。高所作業に慣れるために欠かせない訓練だという。

 

 

この研修は今も行われているのか、JR西日本山陽新幹線のトンネル内で走行車両の風圧を体感させる研修があった、という。最高時速が300キロに及ぶ車両が、作業用通路にしゃがんだ社員のそばを通過していくというから恐ろしい。

何とも変わらない生来の性質、という意味での“根性”は、マスコミ報道でネタの尽きることがない。

さて、ブランデーの「ナポレオン」は銘柄ではなく熟成度合いを示す符号だとか。名前の由来のひとつに、皇帝ナポレオンがラベルに自分の肖像の使用を許すほど、この酒を愛したそうな。

ラベルの不思議さで、群馬で見つかった酒も大きな話題になった。「政治とカネ」の問題で経済産業相を2014年に辞任した自民党小渕優子衆院議員の事務所が、地元男性にワインを贈ったという事件である。

白のボトルには笑みをたたえた顔写真、赤には全身を映す写真があしらわれたもの。ナポレオンの如く、議員自身が許しを与えていたはずだ。

 

 

この25日に辞任した菅原一秀経済産業相は、選挙区で香典などを渡していたとする公職選挙法違反疑惑が報じられた。何年たっても“変わらない生来の性質”である。

物理学者・寺田寅彦さんいわく<ある問題に対してドーデモイイという解決法のある事に気の付かぬ人がある。 何事でもただ一つしか正しい道がないと思っているから>と。

麻生さんが首相の頃、毎晩ホテルの“高級バー”に通っていることが庶民感覚にそぐわないと、問題にされた。これも解決法「ドーデモイイ」である。要は国民本位の政策が立案、実行できるかが問題。麻生氏は国民に支持されず、まもなく党も野党へ陥落。

庶民感覚という言葉もあやふやだ。当時、衆院選自民党から当選した新人議員が、「給料は2500万円、議員宿舎は3LDKですよ」とはしゃいでひんしゅくを買った。

所得と住居で庶民感覚に合致した国会議員など一人もいないのに、ドーデモイイところを気にするのが、庶民なのか。

 

子どもの写真を撮る機器は何

 

カレンダーの残り枚数が少なくなると、時のたつ早さをしみじみと感じる。当たり前のことだが、子どものときより格段の早さだ。

生涯の時期により、時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するという。つまり、年齢に反比例するものらしい。それを「ジャネーの法則」というそうな。

60歳の人間にとって1年の長さは人生の60分の1であるが、6歳の人間には6分の1に相当。つまり、60歳の人間の10年間は、6歳の人間にとっての1年間に当たり、6歳の人間の1日が60歳の人間の10日に当たることになる。

理論上の話だけで現実的かどうかわからぬが、(いい歳になっている)自分の今は、その説にうなずけなくもない。

 

 

子どもの頃はなにかと写真を撮られることも多いだろう。年輩になると自撮り以外はなかなか撮ってもらえない。

昨年、写真プリントサービス・アプリの運営会社が、0~9歳の子どもを持つ男女1000人にウェブアンケートを行った。9割以上の人がスマートフォンで、子どもの写真を撮影しているという。

スマホ内蔵カメラの性能向上で、写真を気軽に撮れるようになった。そして、気軽な分だけ大量のデータの管理に苦労しているそうだ。フィルム写真の時代は、撮ってもらうと現像・焼付で写真になって見るのが楽しみであったが、今は撮るだけ撮って子どもたちは自分の写真を見ないこともあるらしい。

子どもの写真を撮る機器(複数回答)では、スマホが92%、続いてコンパクトデジタルカメラが49%、デジタル一眼レフが20%だという。上述のとおり、写真の保存方法は、95%がデータで保存し、自宅でプリントするのが28%、店などでプリントするのは26%だ。

 

 

当然のことながら“アルバムを持たない”と答えた人は60%である。そして、写真データの管理を面倒、不便と感じる人は80%にもなる。

今は“◯◯映え”などと、(SNS等の)ネット上がアルバム代わりなのかもしれない。とくに自撮りに慣れた人は、自分をよく見せるあらゆるポーズを熟知していたりもする。

かつて、写真撮影といえば、人さし指と中指を掲げる“Vサイン”が多かった。日本では、“ピースサイン”としてなじみが深い。今はそれをやったら、ダサいといわれそうだが。

Vサインにも歴史があるという。1941年、第2次大戦中のベルギー向けイギリス放送協会(BBC)の放送で、反ナチスの地下運動を奮いたたせるために広まったとのこと。

勝利を意味するフランス語などの頭文字としてVサインが提案され、英国当局が繰り返し宣伝した。あのチャーチル(当時の英国首相)も、Vサインのポーズで盛んに写真を撮らせた。

そして歴史のおもしろいところは、戦後では戦意高揚と真逆の“反戦平和”を意味する「ピースサイン」として使われたということである。いずれにしても、笑顔で写真を残せればなによりである。

 

そこにあるかも知れぬヒント

 

<笑う門には福来たる>。このことわざは、理にかなっているらしい。プレッシャーに押しつぶされてしまいそうなときなども、笑いは効果的で気分を和らげ、心身をリラックスさせてくれる。笑いには、免疫を高め不安を抑える不思議な力が備わっているからだ。

お笑いの文化といえば、大阪とのイメージが強い。明治7年に大阪~神戸の官設鉄道で、大阪駅がつくられた梅田は、大阪の外れだったという。

当初の予定地は中心部の堂島付近だったようだが、“汽車は火を吐くので火事になる”と住民からの猛反対で変更を余儀なくされた。(低湿地を埋めた)田んぼだった一帯は「埋め田」と称され、後からめでたい「梅」の字に変わったようだ。

芸事の中で笑わせる芸は、泣かせるものよりはるかにむずかしい。それが大阪の魅力とパワーのひとつにも感じる。

 

 

千利休の利休七則には、気遣いする大切さが説かれている。そこにある<相客(あいきゃく)に心せよ>は、今風に言うと「上座にいる人も末席にいる人も含めて、同席者には気を配りなさい」なのだろう。

利休が弟子から「茶の湯とは」と聞かれたときの答えである。「それくらいならよく知っている」と弟子が応じると、利休はすかさず「もしそれができたら私はあなたの弟子になりましょう」と。

茶道や舞踊、華道など稽古事をたしなむ人には、6歳で始めた人が多いそうだ。数え7歳で稽古を始めるのがよい、と世阿弥の『風姿花伝』にもある。

子供の習い事といえば、かつてのピアノに代わり水泳や英会話もあるが、今は将棋や囲碁が選択肢に入るかもしれない。羽生善治九段もちょうどそのころ将棋を始めた。

 

 

7歳から囲碁を始めたのは坂井秀至(ひでゆき)八段。高校時代は(将棋や囲碁を学ぶ)棋道部だった。そこで先輩からアドバイスを受けた。<社会人になって接待に使えるのは絶対、囲碁やで>と。

その先輩の理論によると、「将棋は王将を取られるので負けると屈辱的。囲碁なら何目か負けた程度の勝ち負けだから、それほど悔しくない」のだと。

“布石を打つ”という言葉もある。囲碁は打ち、将棋は指す。言葉尻ではあるが、囲碁はなんとなく戦力的でもある。

さて坂井八段であるが2019年8月に、医師への転身のためと、所属の関西棋院より同年9月1日より全棋戦を休場すると発表して話題になった。京都大学医学部卒業で医師免許保持者としても有名であったが、この46歳での決断は興味深い。

囲碁で学んだ体験が、医師の技術にもきっと受け継がれることと期待する。

 

なまいきに親しみ込めた時代

 

木の上に小屋を作ったのは映画『スタンド・バイ・ミー』の少年たち。『トム・ソーヤーの冒険』が洞窟の中。“秘密基地”は世界の共通語かもしれない。

こちらもある意味で当時の若者の“秘密基地”だった。あの新宿西口地下広場のフォークゲリラにも似た風景でステージの周りは騒然。ジーンズと長髪、ギターの若者たちの聖地だ。

1969年~1971年の毎年8月に岐阜県中津川市で開かれたフォークジャンボリーは、大規模な野外コンサートだった。

最後の年には、吉田拓郎さんが『人間なんて』を2時間にわたり延々と熱唱。当時、粗削りな歌もあったがそれがまた盛り上がる。世間へのプロテストや胸の中のモヤモヤが曲にこめられていた。

ボブ・ディランビートルズに影響を受けたアーティストも多かったが、後に陽水さん、みゆきさん、ユーミン達が登場すると、“フォーク”の括りからシンガー・ソング・ライターと呼ばれるようになる。

 

 

<年の熟さない者が、年うえのものの口つきや動作やなんかのまねをして、しかしまだ何となく幼くて、いくらかちぐはぐな・・・>。“なまいき”とはそういう感じを表す言葉のようだ、と言ったのはノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎博士らしい。

まだ20歳代で自分の思うままに作る名曲を世に送り、自分でも歌うがアイドルやベテラン歌手にも楽曲を提供。当時流行だった歌謡曲の作曲家、作詞家先生たちの仕事も減り始めることになる。先生たちには、若者たちの才能が“なまいき”に感じたのではないだろうか。

あの20歳代だったアーティストたちの楽曲は、今聴いて歌っても(若者が)なんでここまで深みのある楽曲を書いたのか不思議でならない。偉大な“なまいき”としか言いようがないのである。

 

 

フォークジャンボリーが行われた時代、角界の若手力士といえば初代貴ノ花と輪島である。人気もさることながら、憎めない“なまいき”さが魅力だった。貴ノ花は親方として息子ふたりを横綱に育て上げたが、輪島は現役時代からの私生活での豪遊ぶりが仇となり、親方の仕事は短命に終わった。それでも、なぜか憎めない。

輪島はその後、プロレスラーとしてデビュー。しかし、大相撲の力士が他の格闘技に転じてもあまり成功しないらしい。打撃技や関節技への防御が下手なことと、相撲では相手に身体的ダメージを与えるのを目的とする攻撃的な技は用いられないためだ。輪島は“体が倒れると負け”という相撲のせいで、相手を倒しても寝技に持ち込めない。

1980年、テレビのこのCMが大好きだった。髷(まげ)をやめたばかりの貴ノ花と輪島が橋の上でばったり出くわす。貴ノ花はきれいに整えた輪島のパーマをしげしげと眺め、「それ、鬢(びん)付け油?」と尋ねる。輪島いわく「ノー、アウスレーゼ」。← 資生堂の微香性化粧品名である。