日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

なまいきに親しみ込めた時代

 

木の上に小屋を作ったのは映画『スタンド・バイ・ミー』の少年たち。『トム・ソーヤーの冒険』が洞窟の中。“秘密基地”は世界の共通語かもしれない。

こちらもある意味で当時の若者の“秘密基地”だった。あの新宿西口地下広場のフォークゲリラにも似た風景でステージの周りは騒然。ジーンズと長髪、ギターの若者たちの聖地だ。

1969年~1971年の毎年8月に岐阜県中津川市で開かれたフォークジャンボリーは、大規模な野外コンサートだった。

最後の年には、吉田拓郎さんが『人間なんて』を2時間にわたり延々と熱唱。当時、粗削りな歌もあったがそれがまた盛り上がる。世間へのプロテストや胸の中のモヤモヤが曲にこめられていた。

ボブ・ディランビートルズに影響を受けたアーティストも多かったが、後に陽水さん、みゆきさん、ユーミン達が登場すると、“フォーク”の括りからシンガー・ソング・ライターと呼ばれるようになる。

 

 

<年の熟さない者が、年うえのものの口つきや動作やなんかのまねをして、しかしまだ何となく幼くて、いくらかちぐはぐな・・・>。“なまいき”とはそういう感じを表す言葉のようだ、と言ったのはノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎博士らしい。

まだ20歳代で自分の思うままに作る名曲を世に送り、自分でも歌うがアイドルやベテラン歌手にも楽曲を提供。当時流行だった歌謡曲の作曲家、作詞家先生たちの仕事も減り始めることになる。先生たちには、若者たちの才能が“なまいき”に感じたのではないだろうか。

あの20歳代だったアーティストたちの楽曲は、今聴いて歌っても(若者が)なんでここまで深みのある楽曲を書いたのか不思議でならない。偉大な“なまいき”としか言いようがないのである。

 

 

フォークジャンボリーが行われた時代、角界の若手力士といえば初代貴ノ花と輪島である。人気もさることながら、憎めない“なまいき”さが魅力だった。貴ノ花は親方として息子ふたりを横綱に育て上げたが、輪島は現役時代からの私生活での豪遊ぶりが仇となり、親方の仕事は短命に終わった。それでも、なぜか憎めない。

輪島はその後、プロレスラーとしてデビュー。しかし、大相撲の力士が他の格闘技に転じてもあまり成功しないらしい。打撃技や関節技への防御が下手なことと、相撲では相手に身体的ダメージを与えるのを目的とする攻撃的な技は用いられないためだ。輪島は“体が倒れると負け”という相撲のせいで、相手を倒しても寝技に持ち込めない。

1980年、テレビのこのCMが大好きだった。髷(まげ)をやめたばかりの貴ノ花と輪島が橋の上でばったり出くわす。貴ノ花はきれいに整えた輪島のパーマをしげしげと眺め、「それ、鬢(びん)付け油?」と尋ねる。輪島いわく「ノー、アウスレーゼ」。← 資生堂の微香性化粧品名である。