日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

笑いは“緊張の緩和”で起きる

 

この人を初めて生(なま)で見たのは、2003年に渋谷のシアターコクーンにての『さあ、殺せ!』という演劇であった。

当時、久世光彦さんの演出で、沢田研二さん主演のお芝居が定期的に行われていたと記憶する。そして、そのときの演劇でゲストとして共演したのが志村けんさんであった。

沢田さんと志村さんの息が合う名コントは、それ以前もテレビ等でたくさん観ていた。もちろん、あのお芝居でもたっぷりと楽しませていただいた。

観客席には作曲家・小林亜星さんもいて、開演前のトイレで偶然お目にかかった。亜星さんといえば、1974年のテレビドラマ『寺内貫太郎一家』に主演して大ヒットを飛ばした。向田邦子さんの脚本、プロデュースが久世光彦さんというご縁で、当時もつながりがあったようだ。

 

f:id:tomii23:20181020102730j:plain

 

さて、“テレビっ子”とは物心がついた頃にテレビがあり、その影響を受けて育った子を言うらしい。ネット配信が全盛の今ではその言葉も死語になったようであるが。

テレビっ子の第1世代はクレイジーキャッツ世代でもあるのか、私だと下ネタの入るコミックバンドのドリフターズには距離感が少しあった。とはいえ、同じ渡辺プロの弟分として親近感はあった。

そして、“低俗”とやり玉に挙がりつつも、ドリフターズお笑い番組8時だヨ!全員集合』は、70年代には視聴率50%を超えるお化け番組になった。

メンバーの荒井注さんが抜けたあとに、付き人だった志村けんさんが登場。当初はなかなか受けずに苦労したが、ギャグが大当たりして中心メンバーへと成長。そして、ネタ作りでもその才能を開花していくことになる。

 

f:id:tomii23:20181002144347j:plain

 

志村さんのネタ作りは独特だったようだ。スタッフと一言も口をきかず何時間も黙考。ネタができたらかんたんに指示をするだけ。そして、「お疲れさん」と去っていく。作り込んでいるのにシナリオがないように見えるのが特徴だったともいわれる。

大人からは下品な悪ふざけに過ぎず、子供の教育上よろしくない・・・と。志村けんさんの芸はそんな風にみられてきたが、とても研究熱心で丁寧に笑いを作っていた。

志村さんは、学究肌で知られる二代目桂枝雀さんの落語を好んで聴いた。おそらく、相通じる部分があったのだろう。

時間があれば朝から晩までネタを考え続け、寝入って見た夢も枕元のメモ帳に書き込んだ。また、自宅にある数千本の映画やドラマのビデオも、音楽の使い方からカメラ割りまで、コントの参考にする絶好の教材となった。

枝雀さんによれば、笑いは“緊張の緩和”で起きるそうな。

古典落語の下げは、聞き手がそんなアホなと突っ込みたくなる「ドンデン」「へん」。また、なるほどとうなってしまう「謎解き」「合わせ」の計4つに分類できるとのことだ。

その奥には、綿密なネタ作りが潜んでいるからこそ楽しくなってくる。