日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

薄幸系とラブコメの軍配は?

 

かつて、恋愛ドラマの“王道”といえば、薄幸系であった。不治の病にかかったヒロインとそれを支える恋人などの図式は、映画でもよく使われた。

赤い疑惑』や『赤い運命』などの“赤シリーズ”は、1974~80年にかけて放送されたTBS系作品で、山口百恵さんが薄幸ヒロインを演じていた。私の記憶では、父親役が宇津井健さんで、恋人役が三浦友和さんであった。

不治の病や出生に秘密があるヒロインが、運命に翻弄されながらも健気に生きていく姿がウケて、高視聴率を記録した。

90年代になると、『高校教師』などの路線で、野島伸司さんの脚本による一連のドラマが脚光を浴びることになる。

 

2177

 

「同情するなら金をくれ!」の決めゼリフで有名な『家なき子』(1994年)あたりから、“薄幸ど真ん中"ドラマの流れが変わり始めたらしい。

安達祐実さん演じる少女は、薄幸ではあるが“健気"ではない。この作品では、しぶとくてたくましく生き抜く少女の姿が徹底的に描かれ、リアリティが評価されて高視聴率を獲得した。

今は“暗い結末"が予想できるドラマを10~12回も視聴し続けるのは、難しくなっているという。視聴率を上げるために、1話完結形式のドラマが多い中で、最初から最後まで不幸なヒロインが主人公というドラマは作りにくいのだ。

視聴者も同情の涙を流す前に、リアリティのなさがコメディっぽく映ってしまう可能性もある。逆に『逃げ恥』のような現代の恋愛の形を体現するラブコメものが高視聴率を上げている。

 

2178

 

1960年代からはじまるNHKの朝の連続テレビ小説では、戦争や貧困に絡んだ女性の物語が多く、薄幸系ドラマは“定番"だった。そこが苦手で、私はほとんど観ていない。

先月のことであった。配信番組で何気なく見つけた朝ドラにハマった。主人公を取り巻く人たちはすべていい人ばかり。それなのに、おもしろくてたまらない。<悪人の出ないドラマはおもしろくない>との定評を見事に覆してくれた。

『てっぱん』というドラマである。2010年9月27日から2011年4月2日まで合計151回にわたり、NHKで放送されていた連続テレビ小説

おもしろすぎて次が観たくてたまらない。全編を何日間かで一気に観た。観終えて完全に“『てっぱん』ロス”状態に陥った。

ヒロインの瀧本美織さんを取り巻く役者さんたちすべてがすばらしい。富司純子さん、安田成美さん、遠藤憲一さん、竜雷太さん・・・など名優ぞろいである。

富司純子さんの大阪弁で温かみのある毒舌がたまらない。なんて演技の上手い人なのだろう。毎回、毎回 この女優さんから目が離せなくて、私にとってはこの方が主役であった。

そして、長田成哉さん。デビューされて一年後くらいの出演らしいが、楽しませてもらった。長田さんを知ったのは『科捜研の女』の再放送であった。大好きな石川遼さんに似ているというのが第一印象。ヒロインににプロポーズをする長距離ランナーを演じて、なかなかカッコよかった。

 

身をさらすか隠すかのゲーム

 

NHKの朝ドラや数々のドラマの主題歌を作り歌い、自身もドラマ・映画に出演。あの『逃げ恥』ではドラマと主題歌『恋』が大ヒットを記録した。“自由な遊び心”を持つ星野源さんは、コメディアンとしての一面ものぞかせる。

テレビの草創期にも、音楽・演技・笑いと多彩な才能を持つマルチタレントが大活躍した。その元祖のクレージーキャッツは、音楽バラエティー『シャボン玉ホリデー』を始め、メディアのジャンルの垣根を超えて縦横無尽に駆け回った。

かつては、自由奔放な遊び心がテレビの活力であった。マルチな活躍をする星野源さんも、クレージーキャッツを敬愛するという。

 

2175

 

今は誰もがSNSを通じて、遊び心を発揮できる時代になった。スマートフォンで写真を撮ると<一般公開で投稿します>と画面表示され驚くこともある。

うっかり同意すれば写真と共に、撮影者や位置情報を世界中と共有することになる。

インスタグラムで目を引く写真が“インスタ映え”と持てはやされ、自分の“楽しい今”を共有するのが今風らしい。買う気もないのに写真だけ撮って店を出たり、投稿のためだけに食べきれないほどの食事を注文する人もいる。

リア充アピール代行」という新しいサービスも現れているようだ。たとえば、友達を装ったスタッフが一緒に写真を撮って、日々の充実ぶりを演出してくれるのだ。

リアルでなくてもいい。ネットの世界での自己実現を重視する人たちにとって、写真を共有することが生きがいなのだから。

ただ、自分の個人情報を世界中と共有することの危うさもある。ピースサインを作った指から指紋まで盗まれるらしいので。

 

2176

 

個人情報を隠しながら、才能を競う粋なゲームを楽しむ方たちもおられる。俳人には句会好きが多いという。句会に出るから句を作ると言う人もいるとのこと。

参加条件はまず自作の句を提出すること。次に手分けして、集まった句を書き写して筆跡から作者が判ってしまうのを防ぐのだ。そのことで、先生もベテランも初心者と同じ土俵に上がる。

参加者は良いと思う句を選んで発表し、批評し合う。その後で作者が名乗り出るルールなのだ。句会にはスポーツのようなゲーム性があり、その醍醐味が忘れられず、俳人は句会の虜になっていくらしい。

私もそのゲーム感覚がよくわかる。一年間であったが、シナリオの勉強を真剣にした。毎週、1篇の10分ドラマ程度の短いオリジナル作品を書き、みんなで批評をし合う。100mダッシュの如く書きまくった。発表するのも、批評するのも“ひとり一票”である。

いつしか毎週書けず、遅れをとる(批評のみの)人たちが出てくる。人の批判をする度、自作のクオリティを高めなければならず、ますます書けない。書いていないと腕は落ちる一方。矛盾の落とし穴で書けなくなる方は多い。

ブログでも、“読み” “書き”で、同期のお仲間たちが多くいたが、今はほとんどお見かけできない。

 

断られた時から始まるはずが

 

1964年に初版の『販売は断られた時から始まる』(E.G.レターマンさん)という書籍は、営業マンのバイブルといわれベスト&ロングセラーになった。私も熟読している。

飛び込み営業の経験がある。何度も何度も声をかけても断られる。その度に話しかけるタイミングやトークを変えたり、工夫を重ねる。

まずは声をかけてみなければ始まらない。下手な鉄砲は数撃たなければ当たらないからだ。<私を待ってる人がいる・・♪>。かつてのヒット曲のフレーズをこころの中でハミングしながら、新たな出会いを楽しむ。確率は低くとも、実際に待ってくれている人はいる。

丁寧な言葉遣いや声かけはサービスの基本とされているが、最近は“おもてなし”の形が少しずつ変わってきているらしい。「話しかけない接客」が広がるという。

  

2174

 

以前、京都のタクシー会社が“話しかけない接客”を試みている、と書いたことがある。同様の接客を取り入れる衣料品店や美容院なども登場している。

衣料品を買う時、もっぱらネット通販を利用する消費者の中には、店員に話しかけられるのが嫌だ、という方もいるようだ。

<服を買う時、そっとしておいてほしいと感じたことがある?>。

一昨年、あるニュースサイトで全国の男女1500人を対象に行ったアンケートで、「はい」と答えた人は8割を超えたという。

また、予約の際に“楽しく話したい”か“静かに過ごしたい”が選べる美容院の検索予約サイトで、8年前に「静かに過ごしたい」を選択した人は約15%だったが、現在40%を超えている。

 

2173

 

時代の変化として、コンビニやファストファッション店の利用が日常化し、店員とほぼ話さず買い物するスタイルが定着している。たしかに、仕事を通じての接客で挨拶など声をかけても、声をかけてほしくないようなオーラを感じさせる人は増えている。それも若者とかではなく、それぞれの年代においてである。

従来は話をしていた分野にもそれが広がりつつあるようだ。スマホで商品情報の収集が容易になり、店員の助言を必要としない人は多い。

タクシー運転手や美容師と会話を楽しんでいた“手持ちぶさた”の時間も、今はスマホを操作しながらの「自分の大切な時間」になっている。

そういうことでも、接客の形は多様化している。目的に応じてサービスを使い分け、接客には、声をかけるかどうかの見極めも含まれる。

「おはようございます」、「こんにちは」などと声をかけられて、いやな気分になる人はいない、と信じていたが、(今は)迷惑がる人がたしかに存在する。最近、そういう人には挨拶も省くように試してはいるが。

「話しかけない接客」とは、(きめ細かなサービスが得手の)日本ならではの現象でもあるということなのだろうか。

 

ネット漬けにアナログ癒やし

 

ポケットの中で熱くなったり、使わなくても電池が勝手に減っていく。私のスマートフォンのことである。スマホとの付き合いは、(iPhone発売後の)アンドロイド初代機からなのであるが、いまだに馴染めないでいる。

できればスマホよりタブレット、それよりもパソコンが一番使いやすくて落ち着く。しかし、スマホがないと困ることは案外多い。

“歩きスマホ”のことを英語では「スマートフォン・ゾンビ」というらしい。人間の姿をしているても、人間らしい感情や思考がないこと。うつろな目をして集団で動き回る。ゾンビ映画のこわいところである。

読書しながら歩く人は少ないが、歩きスマホはとても多い。自転車や車の運転中もスマホを見ていて事故を起こす。

歩いているとき人間は、周囲の状況に目を配り、さまざまな思いや考えを頭の中でめぐらす。二足歩行を始めて以来の、そんなあり方が変わってしまったのか。

 

2171

 

中国のインターネット人口が昨年末に7億7千万人を突破したという。約4億6千万人とされるインドに大差をつけて、世界最大のネット人口国の地位である。スマートフォンを使ったネット接続の広がりを追い風に、ネット普及率は54.6%に達した。

当然、ネットでお金を支払うネット決済やネット通販人口も多く、5億人前後と推測される。こうした分野は中国のサービスが世界的にも進んでいるようで、ネットで料理の出前を頼む人の数も急速に人気を集めているようだ。

自分でもネットはもちろん、デジタル機器に囲まれる環境で生活しているが、その反動でアナログ感覚に癒やされることもよくある。たとえば、新聞読者の投稿による時事川柳などには、目を通して思わずうなずいている。

 

2172

 

<ロボカーが できれば譲る 免許証>(西村雅志さん)。
<他に頼る 政党なしを 悔やむ民>(川村雄一さん)。

2017年8月6日の「よみうり熟年川柳」に掲載された作品であるが、1年たってもまったく色あせない。

こういう例もある。

<出て悔やみ 休んで悔やむ 稀勢の里>。
<番付が 関係なかった 名古屋場所>。

どちらも、秋葉鴻山さんの作品で、相撲にお詳しい方だと勝手に想像させていただいている。

「よみうり時事川柳」に掲載されたが、その日付は上の作品 2017年8月7日、下が2018年8月6日。1日ちがいとはいえ、同じ方が偶然に重なったことを、選者の先生も気付かれていないのでは。

シンガー・ソングライター宇多田ヒカルさんは、近年「言葉」を大切にした作品作りに邁進しているという。

<私は音で聞こえてくるんですよ。最初にメロディとか、コードとかを書き上げて、歌詞は最後じゃないと書けないんです>と語っていた。

歌詞作りに関して、「一番、とりかかるのが億劫になる作業ですね」とも。言葉と向き合う。その中で生まれた歌詞には、アナログ感があふれる。メロディだけでなく、言葉でも(その想いが)人の心を紡いでいるのである。

 

短夜の如く移りゆくモノたち

 

明けやすい夏の夜を「短夜(みじかよ)」という。今も、夏はひえひえの麦酒が一番なのか。<昨日は今日の古(いにし)へ 今日は明日の昔>。室町時代の歌謡集『閑吟集』の一編だ。時の歩みは速い。

<もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを、私は本当にやりたいだろうか>。米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズさんは33年間、毎朝、鏡に映る自分にこう問いかけた。

「違う」という答えが何日も続けば、何かを変える必要がある。ジョブズさんは、「ハングリーであれ、愚か者であれ」とも説いた。

ニューヨーク株式市場で、米アップルの株式時価総額が米国企業で初めて1兆ドル(約112兆円)突破。世界の投資資金を引きつけ続ける象徴がアップルだ。ただし、ジョブズさん抜きではあり得ない。

 

2169

 

仕事で使う事務用品が無料で支給されたのは昔話だとか。自費で調達を、という会社が増えているらしい。その様変わりにおどろく。

国産鉛筆の生産量は1966年がピークで、昨年はその7分の1になり、1.8億本余りにまで減っている。シャープペン、ボールペンが身近になって久しいが、スマホタブレットにメモを残す人が増えている。

購買層の小学生もピーク時から半分以下の約645万人のため、商品価値としては頑張っている方かもしれない。私もなにかの折には鉛筆を使っている。

毛筆と和紙に代わり、鉛筆と洋紙、消しゴムが授業に用いられてほぼ100年だという。鉛筆とノートが学校を変えたともいわれる。

「読む、聞く」の受動的な授業が、鉛筆類の普及で「書く、描く」へ変わっていくからだ。そして、やり直しの容易さこそが、子どもの学習にとって無二の用具条件になる。

 

2170

 

今の暮らしにテレビ(放送)が必要か? などの記事をよく見かける。テレビの魅力が鉛筆の価値より低く思えてきそうなのである。

2017年の総務省の調査で、40代もネット世代であったという。40歳代の人がインターネットを利用する割合は平日利用83.5%での、テレビを視聴する割合を上回ったという。

数年前のコラムで、作家・藤原智美さんがテレビについて書かれていた。“テレビって本当に必要なのか”ということだ。

まえぶれもなくテレビの液晶画面がプツリと消えた。修理には多額の費用がかかるため、買い替えが一般的。

4Kは高画質だが、本放送の普及には時間がかかりそう。まずは、テレビなしの生活を1か月ほど続けた。

モニター専用機(ブラウン管)で、15年近くも愛用したアナログ時代の機器は、処分の際に惜別感すら覚えたが、液晶画面のテレビには、それがまるでない。映らないテレビを前にして、うっとうしいだけ。

そのちがいはなにか?

受像器への愛着は、放送された中身への愛着だったのではないか。液晶画面では、熱中して見た番組があまりない。理由が番組内容にあるのではないか・・・ということに気づいたという。

 

 

今週のお題「インターネットと共に」

 

やることはバンカラなNHK

 

下駄を鳴らして奴がくる 腰に手ぬぐいぶら下げて・・・♪

43年前にかまやつひろしさんが歌ったヒット曲『我が良き友よ』である。作詞・作曲は吉田拓郎さん。歌詞の中にもあるが、往年のバンカラ学生を描いている。ただし、歌われた時代には、そういう学生を見かけることはほとんどなかった、と記憶している。

デカンショ節』は学生歌としても親しまれた盆踊り歌で、バンカラによく似合う。囃(はや)し言葉のデカンショは、デカルト、カント、ショーペンハウアーなる3人の哲学者の名前を縮めたという説がある。

バンカラ(蛮殻、蛮カラ)の言葉は、ハイカラ(西洋風の身なりや生活様式)のもじり言語らしく、(明治期に)粗野や野蛮をハイカラに対するアンチテーゼとして創られた。

 

2168

 

バンカラな学生はそれなりにカッコいいが、こちらのバンカラは“野蛮な発想”としかいいようがない。

NHKが、テレビ番組を放送と同時に、そのままインターネットで流す「同時配信」の準備をしているとか。

自らの収入の確保を優先させる姿勢で、ネット利用者にもテレビ受信料と同程度の負担を求める腹積もりのようだ。同時配信を急ぐ背景には、スマートフォンで動画を楽しむ若い世代のテレビ離れ現象も要因らしい。

一昨年開局したインターネット放送局「アベマTV」は、スマートフォンアプリのダウンロード数が今年の5月で累計3000万を突破したという。収支の現状は赤字が続いているようだが、必要な先行投資と考えているという。

スマホに最適化したテレビ放送を提供し、ニュース、ドラマ、スポーツなど20チャンネル以上ある。画面を横にスワイプして、チャンネルをサクサク切り替える。番組表の確認もワンタッチで使い勝手がよい。

私は小さなスマホ画面が苦手なので、アマゾンの“Fire TV Stick”をテレビに挿して、大画面で配信ドラマや映画、ネット動画サイトなどを楽しんでいる。

 

2167

 

デジタル化はテレビ新時代の幕開けのはずだった。皮肉にも、デジタル化完了の年にテレビの退潮が始まり、デジアナ変換終了の1年後にネット配信のサービスが支持を広げた。

1日あたりのメディア接触時間比率で、ハイティーン、20代、30代の若者は、携帯電話がテレビを上回り、テレビの接触時間比率が急減した。

NHKがテレビ番組を放送と同時にインターネット配信することを、(NHKとは一蓮托生の)総務省は容認する方向だとか。視聴環境の変化に対応することを理由にしているが、テレビが無いのにインターネットの環境さえあれば、支払いの義務が発生するかもしれないのだ。

今や、テレビが無くても生活は成り立つが、インターネットが無いと生活が成り立たない人が増えている。勝手に配信しておいて「金を払え」となれば、横暴としか言いようがない。

視聴者の要望を、(送り手である)国営...もとい、公共放送局は、なにも理解していないようなのである。

 

面白いのは人間のエピソード

 

知らない人たちがそばにいると、人間の本能は彼らに対して“友好的か、それとも敵対的に”振る舞うべきかを決めるため、その人たちを調べにかかるという。

そのように、人が人を見出すのも人類の歴史であるようだ。

噺(はなし)家の仲間どうしでは「きんちゃん」という隠語があるらしい。寄席にお金を運んでくれる客である。反応がにぶい客は「せこきん」と呼ばれ、つまらないことにも大笑いするのは「あまきん」なのだ。

「ようこそお越し下さいました」と謝意を示しつつ、高座にいながらにしてお客を選別して、じっと反応をうかがう。

 

2165

 

なにかで読んだ記憶がある。あるメーカーの採用担当者も、わざとらしい知ったかぶりを「あまきん」、勉強不足は「せこきん」と(応募者のことを)呼んでいるとか。その中で、実業界のプロの目がさがすのはただひとつ。<一緒に働きたくなる若者>なのだという。

ヤクルト、日本ハムの強打者として活躍した稲葉篤紀さんは、大学(法政大)時代で6本しか本塁打がない。その中、明大戦で放った2試合連続アーチを、当時ヤクルト監督の野村克也さんが偶然に見ていた。野村さんは息子の克則さんがいる明大側の応援にきていた。

プロでは無理、と強く反対するスカウトを押し切り、野村さんが稲葉さんをドラフトで指名した。その選手が2000本安打の名選手に育つことになるからおもしろい。

えにしの糸とは不思議なものである。

劇作家・菊田一夫さんは帰京する飛行機を待つ時間つぶしで、3分間にも満たぬ観劇をした。下積み暮らしの森光子さんが大阪の劇場で脇役を演じていた。菊田さんの目に留まった森光子さんは、女優として世に出るきっかけとなった。

 

2166

 

時代に見出され、混乱期に突出する人物も登場する。

吉田茂さんが東久邇内閣で外相のとき、GHQ(連合国軍総司令部)へ陳情に出向いた。何百万トンもの食料を緊急に輸入してもらわないと、この冬に餓死者が続出することになる。政府の統計数字をもとに訴えた。

春になったが、餓死者などは出なかった。マッカーサーは吉田さんに「数字がデタラメだ」と怒った。<いやァ、わが国の統計がそんなに正確なら、あんな戦争は始めてませんし、始めたとしても負けていませんよ>。何食わぬ顔で吉田さんは言った。

現在、口をへの字に曲げて国会ではいつも居眠りしているあの大臣が、こんなにすばらしい人物の孫とは、いまだに信じ難い。

 

わかりやすい言葉と表現上手

 

<掃除の下手な大工は仕事もあかん>。数寄屋大工・中村外二(そとじ)さんの言葉だという。大阪万博の日本庭園をはじめ、生涯で120余りの茶室を手がけた。

駆け出しの職人は木の削り屑に肌で触れ、仕事の段取りや道具の使い方などを先輩大工から盗む。掃除が下手であることは基本の学習を怠ってきた証しで、いい家が造れるはずもない・・・と。

そして、どの木をどんな用途で、どんな場所に使うか。<大工は木を知らなあかん>とも。体の五感を全て賢く使い、未知の環境でも自分で考えて解決する。体は賢く、頭は丈夫でなければならないようだ。

 

2163

 

この暑さでは、他の季節以上に木陰のありがたさが身にしみる。身近な街路樹のプラタナスが減っているという。大きくなるので剪定や落ち葉の処理に手間取るのが理由らしい。

夏の真昼で暑さにあえぐ旅人がプラタナスの木を見つけ、その陰で身を休めながら「実がなっていない」、「役立たずな木だ」などと散々なことを言う。人に親切を施してもわかってもらえないことは多い。“恩知らずめ”と木が怒ったのも無理はない。イソップの寓話である。

報道では、“災害級の猛暑”や“酷暑”などの言葉が連日飛び交う。熱中症の危険さを訴え、エアコンを推奨する地域も多い。

室内が冷えれば冷えるほど、外気に(エアコンから)吐き出される熱風が充満する。身を守るためには、“温暖化の悪循環”もやむを得ず・・なのだろうか。

 

2164

 

雨がたくさん降れば地面を冷やし気温も下がる。とはいえ、降れば降ったで大雨の影響による大災害が懸念される。例年にない極寒だった冬から数ヶ月後にはこの酷暑。振り幅がどんどん大きくなるようだ。

黒澤明監督の映画『天国と地獄』でのラストシーンを思い出す。

誘拐と共犯者殺害で死刑が確定した犯人の元へ、三船敏郎さん演じる被害者の会社常務が面会に行く。

貧しい環境に暮らす犯人が、(下宿の窓から高台に見える)豪邸で裕福な暮らしをしている一家への妬みが、誘拐の動機になった・・・と語り始める。

そこへ、貧富の差を感じさせるシーンがオーバーラップする。耐えきれぬ真夏の暑さの中、憎悪の眼差しで涼しげな豪邸を見つめる犯人のアップである。

 

老人年齢には認識の誤差あり


東京・国鉄蒲田駅の操車場で身元不明の他殺体が見つかった。殺害されたのは誰か。名作『砂の器』(松本清張さん)のオープニングシーンだ。

この作品は、1960年5月から1961年4月にかけて「読売新聞」夕刊の連載小説として人気を博した。昭和でいえば30年代半ばである。

被害者はやがて、51歳の元巡査と判明した。そして、<すでに50を過ぎた老人>と書かれていた。

岡本綺堂さんが描く江戸時代の捕物帳の主人公“三河町の半七”は46歳で十手を返上し、隠居した。綺堂さんは江戸の世を知る人のなかで育った人なので、真実味がある。

 

2161

 

源氏物語(平安時代)には、<今年ぞ、(光源氏が)四十になり給(たま)ひければ、御賀の事・・・>とある。“賀の祝い”とは長寿の祝いを指し、40歳から10年ごとに祝い、四十の賀を「初老」というようだ。

昔むかし・・・の竹取物語には、かぐや姫が月に帰る場面で<翁(おきな)、今年五十ばかり>とのフレーズがある。

地上で姫は20年を過ごしたので、光る竹に姫を見つけた“たけとりの翁”は30歳ぐらいだったはずだ。

恒例の平均寿命が先日発表された。平成29年の日本人の平均寿命は男性が81.09歳(前年80.98歳)、女性が87.26歳(同87.14歳)で、ともに過去最高を更新したという。過去最高の更新は男性が6年連続、女性が5年連続とのこと。

主な国・地域の平均寿命では、男女とも1位が香港。日本の男性は前年2位から順位を下げ3位で、女性は2位を維持している。

 

2162

 

厚労省では毎年、各年齢の人が平均何年生きられるかを表す「平均余命」の見込みを計算している。平成29年生まれの日本人では、75歳まで生きる人の割合は男性75.3%、女性88.1%。90歳まで生きる人の割合は男性25.8%、女性50.2%で、いずれも過去最高なのだという。

平均寿命の算出は、年齢別の推計人口と死亡率のデータを使い、各年齢ごとの死亡率を割り出す。そして、そのデータを基にして平均的に何歳までに寿命を迎えるかを出す。

平均寿命とは0歳の平均余命のことであり、平均余命は年齢によって異なるという。ちなみに、2017年に80歳まで生きた場合の平均余命はおよそ10年らしい。

なんだか計算がむずかしそうだが、余命算出に時間を費やしても、余命の時間がもったいない。楽しい時間を見つける方が無難なようである。

 

人の振り見てわかる鏡の自分

 

避暑地といえども同じ暑さなのが近年の夏である。<軽井沢も暑いと聞いて満足す>(丸谷才一さん)。海や山にも遠い身なのでとりあえず、丸谷さんの一句を思い浮かべ湯上がりの冷酒やビールに満足する。

希少価値の高い食材も、無理して食べる必要はない。松茸もいいけど椎茸もおいしい。うなぎの数が少なければ、穴子の蒲焼もおいしい。

幼い頃、漁師町に育った人が言っていた。脂身のトロは捨てるか、猫の餌にしていたと。思えば、子どもの頃の刺し身は赤身ばかりだった。

「ウナギのかば焼きは低級な食道楽だ」と言ったのは、陶芸家・北大路魯山人さん。と言いつつも愛用の手帳に走り書きがあった。

上野駅前の某店主は通人の食べ方をしている・・・と。四枚重ねて片方から食べていったのを見て感心したそうな。その通人、よほどおいしそうにかば焼きをほおばっていたのだろう。鏡のようにそれを眺める魯山人さんを想像するとおもしろい。

 

2159

 

南こうせつさんは、大分県竹中村(現大分市)にある南陽山勝光寺の、4人きょうだいの末っ子である。子どものころから歌が好きだった。要因は、お寺での生活にあるらしい。

当時の田舎の寺は公民館でもあり、草刈りの時期やお祭りのことを決めるときにはみんなで寺に集まり話し合う。敬老会も本堂で行われた。

婦人会の作る料理が振る舞われ、お酒が入り興に乗ると、だれかが歌い出す。それぞれに得意の歌があり、当時の流行歌で大いににぎわった。

田植えの時期には、農家は総出で協力し合い、仕事が終わると打ち上げが本堂である。

中には、芸達者の人もいたようだ。頭に手ぬぐいをかぶり、女形になって踊るおじさんは、ストリッパーになって脱ぎ始める。

こうせつ少年は、おじさんたちが歌う歌が全部好きだった。のちの音楽活動にも、この体験が鏡になったことは言うまでもない。

 

2160

 

日本文学研究者のドナルド・キーンさんがある日、ニューヨークの友人宅を訪ねたとき、往年の大女優グレタ・ガルボさんと一緒になったらしい。伝説の美貌はすでに面影もなく、口紅が唇からはみ出して塗られていた。

その頃女優は、衰えた容姿の自分を見ることに耐えられず、鏡を身辺から遠ざけていたという。ありのままに映し出されると不愉快になり、遠ざければ遠ざけたで結果はもっと悪くなる。ときに、鏡は厄介なものである。

周りにいる人間で、挨拶のできないもの、すぐに癇癪を起こす者がいるとき、鏡を想定したリアクションをすることがある。お客さん相手では難しいかもしれないが、さりげなくならやることもできる。

クレーム処理のときなどは、相手の言うことをこちらで繰り返して確認をするはず。考えようによれば、これも一種の鏡ということなのだろう。