日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

インターネットが近づく瞬間

 

『七つの子』や『赤い靴』を作曲した本居長世さんは、「道を歩いていると、電線が五線紙に見える」と語った。電線に関連した技術畑のアイデアとは異質なアイデアが浮かぶからおもしろい。

iモード編集者と称された松永真理さんも、本居さんと同タイプの方なのか。1977年に明治大学文学部仏文科卒でリクルート入社。雑誌の編集長を経て、97年7月にNTTドコモへ転職した。

97年1月にドコモ社内では、携帯電話でインターネットに接続する新事業をやるよう社長から指示があり、松永さんも参加することになった。この年は、携帯で短いメールをやり取りするサービスも始まった。

あの頃は携帯が伸び盛りで、儲かってしょうがなかったという。このまま無限に売れ続ける、とほとんどの社員が思っていた。しかし、社長は違った。いずれ誰もが携帯を持ち、マーケットは飽和する・・・と。

 

2029

 

余裕があるうちに次の新事業を探そうと、ドコモの社長は携帯電話からインターネットにつなぐ新ビジネスを始めようとしていた。それを聞いた松永さん。これはあたるな、と感じたそうだ。

しかし、ネットにつないでどんなサービスを提供するのか。技術分野の人間たちにはその先のアイデアがなかなか浮かばなかった。

1995年、宇都宮市内のポケベルが“話し中"でつながらなくなった。時間帯は決まって午前7時頃、お昼、午後4時過ぎから深夜、に限られた。そして、交換機がダウンしそうなほどの通信量になった。

宇都宮市の女子高校生はポケベル好きで、支店売り上げが全国一になったこともある。いわゆる「ベル友」なのである。

当時、駅前に緑色の公衆電話が10台ぐらいあり、朝は女子高生が並び、ずっと張り付いてテレホンカードを入れ、「0840(おはよう)」などと語呂合わせの数字を入れるたびに、友達のポケベルを呼び出した。いったん切り、また別の友達のポケベルを呼び出す繰り返しであった。

 

2030

 

会社員と違い、1日に数十回、あいさつ代わりにメッセージをやり取りする。それが「話し中」の原因だった。彼女たちが教室にいて電話ができない時は、普通につながった。
緊急連絡用に使っている大人たちからは、「つながらないポケベルを売るのか」と栃木支店に抗議が殺到した。

その女子高生のポケベルも、携帯電話の発達で止まることになる。松永真理さんは気が付いた。ポケベルにしろ携帯にしろ、業務での利用を考えていたが、一般の消費者、特に若い世代のコミュニケーション手段として、有力な新市場があることを。

1999年2月、携帯電話でインターネットに接続する「iモード」がスタートして、スマートフォンブームの先駆けとなった。この日を境に「もしもし」の携帯電話は、インターネットをつなぐ道具に変わった。親指でメールを打ったり、電車の時刻を調べたり、銀行の手続きもできる。パソコンやPDA(携帯端末)がなくても手軽にインターネットを使えるのである。