日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

フォーク・クルセダーズはやはりすごかったんだなぁと今になって思う

 

今よりもはるかにのどかな時代の京都駅。そのすぐ近くに、きたやまおさむ(北山修)さんが住む開業医の実家があった。

医科大学生であったきたやまさんはある日、妹の自転車に乗って自宅から15分の距離にある初めてのお宅を訪れた。ものすごく背の高い大学生が出てきた。加藤和彦さんである。
加藤さんは184センチだった。180センチと長身のきたやまさんよりも背が高い。

この数年、カーラジオ、テレビ、新聞で、偶然に きたやまさんのロングインタビューを視聴したり読む機会が続いて、とても気になっていた。

50年近く前、当時大学生の加藤和彦さんが雑誌『MEN'S CLUB』の投稿欄で呼びかけたことが発端で、ノッポの大学生2人が出会い、“フォーク・クルセダーズ”という不思議なバンドがスタートをした。

プロとしての実質活動はわずか1年。潔い解散だと思っていたが、はしだのりひこさんも加わったメンバー3人のドラマはなかなかおもしろい。

 

 

3年前のエントリ『同時代を背景にした二つの映画』にて触れたが、『青春デンデケデケデケ』という映画がある。

1960年代の四国・観音寺市を舞台にして、ベンチャーズの影響を受けた少年が高校入学後ロックバンドを結成し、ロックに明け暮れるメンバーたちを描いた映画である。

この映画とフォーク・クルセダーズの活動が、とても似ているような気がしてならない。
フォークル(略称)の結成舞台は京都であり、プロとしても大成功をおさめているのであるが、映画のような“音楽小僧”の気骨がオーバーラップしてしまう。

 

 

フォークルは加藤さんの雑誌での呼びかけに応じたメンバー5人で始まった。
<世界中の民謡を紹介する>というコンセプトから、「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と名乗る。きたやまさんと加藤さん以外のメンバーは、学業のため人数の変動はあったが、関西アンダーグラウンドシーンで活動していた。

そのフォークルも解散の時期がやってきた。きたやまさんは医者への道があり、加藤さんも就職が決まっていた。1967年の解散を記念して、製作費23万円で自主制作盤のアルバム『ハレンチ』を制作。それまでみんなが歌った歌を収録し、そして1曲だけオリジナルを入れようということで生まれたのが『帰って来たヨッパライ』である。

帰って来たヨッパライ』はまず最初に、松山猛さんと加藤和彦さんの2人で作り、加藤和彦さんがきたやまさんの家でレコーディングし始めた。吹き込みに使用された録音機は、きたやまさんの妹の英会話のテープレコーダーである。

それは、きたやまさんが初めて聴いた瞬間であり、きたやまさんがテープレコーダーを回して、加藤さんが歌い始めた。そして、あれこれとふたりで修正をしていった、
ちなみに、曲中の効果音である木魚は、北山家の仏壇から借用、メトロノームはきたやまさんの妹がピアノで使用していたものなのだ。

 

 

自主制作盤300枚が出来上がった。きたやまさんの部屋に搬入されて置かれた。
蛍光塗料とにおいが部屋にたまって、まぶしくて、結膜炎を起こした。印刷の塗料が目にしみる。 焦ったきたやまさんは、 知り合いのディレクターを通じてラジオ局への営業活動に奔走する。それが大ヒットのきっかけにつながった。

ラジオ関西の女性ディレクターが『帰って来たヨッパライ』を番組でご紹介してくれた。
そこから火がついて、ニッポン放送で始まったばかりの“オールナイトニッポン”という深夜放送の番組を使って(レコードを)かけ始められた。
きたやまさんは、300枚のレコードの(父親から借りた)費用が回収できて良かったと喜んだ。

 

 

<ザ・フォーク・クルセダーズは10月に京都市内で解散コンサートを行っていた。ところが予想外のヒットにより、メジャーデビューの話が転がり始める>。

反響を呼んだことを非常に面白がったから、きたやまさんは「バンドをまた作ろう」とか「再結成しよう」と加藤和彦さんに言った。彼は最初は乗らなかったが、交渉はきたやまさんが当たった。

それまでの素人のヒット曲はほとんど買い取り契約だった。ところが、きたやまさんは印税という、今では当たり前だが、当時は初めてのものに出会う。
きたやまさんは「100万円現金でもらうよりも印税だよね」と交渉した。

印税なんてよく分からないから。たとえ5万でも、面白いじゃない。そんな発想だった。
これを印税化した。ここが本当に大きな分かれ道だった。それから、シンガー・ソングライターは自分で印税を要求するようになった。これが買い取りだったら最低だったと思う。
(売り上げが)300万枚だったのだから、と。

 

 

イムジン河』は、テレビなどでよく聴いた記憶があるし、ギターの弾き語りで好んで歌っていたこともある。ただ、この曲は発売中止になっている。自分にとってはあまりにも身近な曲だったため、中止のショックみたいなものはなかった。
しかし、当事者のフォークルにとっては、悔いの残るできごとであった。

<元々は政治的プロパガンダの曲だったのを知らないで、東西の統一を願う歌にするなんてむちゃくちゃをやってしまった。僕らは、原詞者がいる、作者がいるというのは知らなかったんです。インターネットの時代であれば検索すればすぐ出てきたでしょうけれども。僕たちは朝鮮民謡だとばかり思っていた>。きたやまさんはこのように述懐する。

プロパガンダ”の意味を検索してみると、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った、宣伝行為」と出てきた。たしかに、私の知ってる『イムジン河』とは異質である。「誰が祖国をふたつに分けてしまったの?」とあの曲の一節に心を打たれていたのであるが、元歌は極端に真逆だったようだ。

<2曲目の『イムジン河』が発売中止になったことは、非常に悔しい挫折体験になりますよね。何よりも悔しいのは、それをまた面白おかしく書くマスコミのあり方にがっかりしています>。きたやまさんは、<その後の34年間、何度も再発を掛け合い、いろんな方が交渉してくれたけれども、実現しなかった>と続けて言った。

 

 

『悲しくてやりきれない』は『イムジン河』の発売中止を受けて、急きょ発売された。
この曲は『イムジン河』を逆回転して作った歌ではないか、といううわさがあった。
加藤和彦さん本人が、亡くなる少し前のラジオで語っていたのを思い出す。

音楽出版の会長室に3時間缶詰にされたときに作ったもので、最初はいろいろとウイスキーだとかを物色していたが、残りわずかという時間になって、『イムジン河』のメロディを逆に辿っているうちに、 新たなメロディがひらめいた。実質的には15分ほどでできたそうだ。

その出来立ての曲を持って、そのままサトウハチローさん宅へタクシーで向かった。
1週間ほどで詞が自宅へ送られてきた。

『悲しくてやりきれない』という題名の歌詞。こんな詞で、いいのだろうかと思ったが、
歌ってみると、曲に語句がぴたっと合っていて驚いた、と。

 

 

解散の要因について、きたやまさんがはしだのりひこさんと話しているとき、<本当にわれわれにとって打撃だったのは、大島渚さんとの出会いだった>と言われた。

大島渚さんが『帰って来たヨッパライ』という映画を撮った。大島渚さんにしてくれといったのは、大島渚さんなら面白いことをやってくれるだろうと。
そして、最低の作品ができ上がる。

きたやまさん曰く、「大島渚さんは一生懸命遊んでいるんだよね。そのつもりで。でも、大島渚さんが遊んだってちっとも面白くないんだよ。あの人は怒っていたりカッカしているほうが面白い」。

そして大島さんは、きたやまさんたちの目の前で加藤和彦さんとケンカする。
加藤和彦さんはファッションにうるさかったので、ロケ先のところで着ろと言われていたミリタリールックの、軍服調の上着の袖が短いと言う。あれだけの手足の人間だから、注文じゃないと十分な長さにならない。なのに既製品を買っていた。加藤和彦さんは「短い、短い」と言って怒り始める。

大島渚さんの方は「おまえみたいなチャラチャラしたやつがそんなこと言い始めるから日本は駄目になったんだよ」とか言う。
「早く撮って早く帰ろう」というのに、そんなことでもめ始めて、加藤和彦さんが「僕は帰る」とか言って帰り始めて。

こんな袖の長さのことでもめて、こんなことでイライラしたり悲しんだり、傷つけ合ったりするのはやめようと。それが最後の打撃だった。
あえて言うなら、大島渚さんの最大の駄作ですよ、と きたやまさん。

<向こうは、その映画がフォークルを台無しにしてしまったって思わないだろうけれど、あれは強力だったな。強力な出会いだった>。

私もその映画を観ている。抽象的すぎてまったく意味がわからず、途中から同じシーンの繰り返しになるため、映写フィルムのトラブルかと不快になったのを、今でも忘れられない。