ラジオ放送90回目の誕生日
<JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります…>。
この第一声で日本のラジオ放送が始まった。1925年(大正14年)の3月22日のことである。本日で満90年になる。
カナダ出身の英文学者、文明批評家のマクルーハンは、ラジオや活字がホットなメディア、テレビや電話などをクールなメディアだといった。たしかに、同じ内容の報道でも、テレビよりラジオの方が熱く伝わってくる。
文化放送の野村邦丸さんはかつて、テレビとラジオの持ち味の違いを“先生と生徒の対話”になぞらえた。朝礼台から全校生徒に向かって話すのがテレビの司会者ならば、職員室で生徒に「どうだ、最近」と尋ねるのがラジオのパーソナリティーであると。「ひとり」の心に語りかける声は、たしかにテレビよりも聴取者に深く分け入る。
聴取率が低迷し、広告収入でもインターネットに抜かれて、苦戦のつづくラジオだが、その原点だけは変わらない。
新放送サービスも増えている。ワンセグとは別に、スマホ向けの有料テレビ「NOTTV」というサービスがある。地デジ以前のアナログテレビの電波帯を使っている。
アナログ跡地の有効活用で、そこをデジタルで高層化して、チャンネルを増やす。そして、スマホという通信機にテレビ放送を届ける。通信と放送の融合なのだ。その会社はNTTドコモが筆頭株主で、通信の資本で放送が行われている。
アナログの跡地には余裕があり、「マルチメディア放送」の計画もある。スマホやパソコン、デジタルサイネージ(電子看板)など、新種の放送を届けるプランで、テレビやラジオとはちがう番組のアイデアが練られている。
企画のFMラジオ局では、番組の文字起こしでSNSと連動させたり、新聞や雑誌の誌面をそのまま届けることもできるという。日本で、放送電波を使い通信のようなサービスを行うという(海外でできないことができる)制度が改められ、そのことが実現するのだ。
ラジオが“取り持つ縁”も捨てがたい。
1971年、吉田拓郎さんは、DJを務めるTBSの深夜番組で、フォーク・シンガーのドノバンに触れて「彼の弾いてるギターって、本当にいい音してる」と発言した。
1週間後、加藤和彦さんが訪ねて、ドノヴァンのギターと同じ<1967年製のGibsonのJ-45>を拓郎さんに譲った。特に親しくはなかった。なのに大事なギターを持って現れたことで拓郎さんは感激した。
初めて一緒に仕事をしたのは1972年秋。アルバム『人間なんて』のレコーディングだった。拓郎さんがブレイクきっかけの『結婚しようよ』で加藤さんがプロデューサーを務め、アレンジとスタジオ・ワークの全てを仕切った。
拓郎さんは「目からウロコで、音楽観が広がった」と語った。加藤さんの音作りを目の当たりにした拓郎さんはノウハウやハウトゥーを生まれて初めて知った。そして加藤和彦さんは吉田拓郎さんから<ただ一人の音楽の師匠>と呼ばれた。
2014年11月21日放送のラジオで、高倉健さんと交流のあった岡村隆史さんは、40分間 健さんとのエピソードを振り返った。
2000年「第23回日本アカデミー賞」授賞式で、健さんと初めて会った。
健さんは『鉄道員(ぽっぽや)』で最優秀主演男優賞を受賞。岡村さんは『無問題(モウマンタイ)』で話題賞。華やぐ役者陣の中「場違い」と感じていた。
「高倉さんみたいな俳優になりたいです」とコメント。周囲は失笑のみ。健さんが立ちあがり拍手してくれ、雰囲気が明るくなった。
「いつか一緒にお仕事しましょう。社交辞令でもなんでもないからね」と声もかけてくれた。
2012年の遺作映画『あなたへ』で、健さんと共演を果たした。
岡村さんが2010年に療養入院中、健さんは1冊の本を贈ってくれた。本には「このページを読みなさい」とマークがあり「僕自身も迷ったときや心を落ち着かせようとするときに、ここの一文を読むんだ」と説明してくれた。
今から10年前<ニッポン放送を巡るライブドアとフジテレビジョンの株式争奪戦>が世間を騒がせた。
<マスコミ各社がライブドアによるニッポン放送の経営権取得に懸念を示しているのは、「芸能エンタメ(娯楽)」の強化や、放送とインターネットの融合などを唱えるだけで、社会的使命と責任の自覚が明確でないから>。
このようなやりとりであったと思うが、今現在の“放送とインターネットの融合”(に限って)の意識はどう変わっているのだろうか。当時は仕事中のカーラジオで朝から夕方までニッポン放送を聴いていた。今はといえば、車に乗る機会が減っている分、たまにいくつかの端末からインターネットで聴いている。
アナログで聴取しているときは、買収など絶対にされないでほしいと願っていたが、今なら<どういう形でも手軽に聴ければいいな>と思うようになっている。ただし、番組の質はいたってアナログのままで、古き良き時代の熱く聴き入れられる番組に執着心はあるが。