日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

ただでは起きないお一人さま

 

サザエさんの父は波平さん。この方は某学会の発表資料に登場したことがあるらしい。今では70歳くらいのイメージだが、実は54歳という設定なのだという。

漫画連載の始まった昭和20年代の54歳は、あのような雰囲気だったのだろうか。一昔前までの定年退職が55歳だったというのもうなずける。

フライドチキンのカーネル・サンダースさんは、65歳で一文無しになった。保険セールス、車掌、機関士、などの転職も長続きせず、カフェは焼失し給油所も倒産したのだ。

65歳を過ぎ、チキン調理法を教える商売を始めて大当たりした。心身の衰えるスピードは人によって違いがある。しかし、60代半ばからの黄金の10年を“現役世代の続き”と思えたら楽しそうだ。

  

2005

 

少子高齢化による人口減少や価格競争などと、国内の食品市場は先行きに希望がないと思われがちだ。高齢化が進むことで1人当たりの食事量が減っている。人手不足によるトラック物流費の高騰や、小売り店頭での低価格競争の影響もあり、総需要が縮んでいることは確かだろう。

<輸入した帽子を買えば帽子は国内にとどまるが、お金は出ていく。国産の帽子を買えば帽子もお金も国内にとどまり、得である>。昔の経済学の設問である。帽子を国内で作ったほうが安くつくのか。それとも、帽子の生産にかける人手(労働)と元手(資本)を
別の商品づくりに回し、帽子は輸入したほうが安くつくのか。

両者の比較検討の結果なのであろうか、昨年あたりから大手食品メーカーによる食品工場の国内新設が増えているという。

山崎製パンの工場新設が26年ぶり、キユーピーは45年ぶりなのだという。日清食品の即席めん工場も国内の新工場建設は20年ぶりで、投資額が575億円だという。今の国内事情で工場投資が活発化しているというのは興味深い。

 

2006

 

食品市場では負の要素が目につくが、視点を変えればまったく別の構図が浮かび上がるのだという。なんと、そのターゲットは「お一人さま」なのである。

高齢化や少子化では、簡単に調理できる需要の高まりや1人世帯の増加につながる。1人分の米飯をたくのは面倒でも、パックごはんや調理パンを買えばいい。即席カップめんでも同じこと。

コンビニやスーパーでは、一人前のカップサラダや総菜の売り上げが伸びており、女性や高齢者を狙った即席カップめんも好調だという。冷凍食品業界では、チャーハンやギョーザなどが売り上げを伸ばしている。そして、食品容器の差別化も、潜在的な需要を掘り起こす。

食の視点を変え、成熟から成長市場へ転換するためにメーカー各社は「商機あり」と見て、新工場やラインの増設に動いている。食品大手は、国内生産の増強を急いでいるのである。

昨今は、AIがらみの商品ばかりがちやほやされているようだが、“成熟した”と思われていた国内食品市場も、工夫や着想次第でもっともっと伸びが見込めそうなのだ。

 

正月ならではの よもやま話

 

今年こそはと、元旦に誓いをたてた方もおられよう。私の場合は、“3日坊主”で終わるため、とくには考えないことにしているが。

昔から「3」は最小を表す数であり、最大を表す数を「8」とされてきたらしい。「桃栗3年、柿8年」は有名だ。舟の船頭の格言にも「櫓(ろ)3年に棹(さお)8年」がある。櫓は3年の修業で使いこなせるが、棹をあやつるには8年かかるとのことだ。

年末年始で注意すべきは暴飲暴食。腹8分目を心がけ、よくかんで食べ、脂っこいものや甘いものは控えめに。と、わかっていてもついつい食べ過ぎる。また、お酒には食欲を増進させる効果があると言われ、飲酒をしながらの食事は注意が必要とのこと。

ちなみに夕食は、就寝の3時間以上前に済ませるのがよさそうだ。

 

2003

 

<犬も歩けば棒に当たる>で始まるのが「江戸いろはかるた」。“棒に当たる”ことが幸運と解釈されるようになったのは幕末あたりとのこと。それ以前には災いと受け止められたそうだ。うろつかなければ犬も棒に打たれまい、が初めの意味だったようだ。

一昨年12月のこと、国土交通省がおもしろい統計を発表した。外を出歩く人の数がめっきり減り、1987年の調査開始以来、最低の記録だった。休日で59.9%とのことで20代の若者の減少が著しく、70代の高齢者より出歩く頻度が少ない数字のようだ。

<“悟り世代”の特徴であり、遊びより貯蓄にお金を回す傾向にあるため>などの理由付けをされていたが、私も用事がなければ家で好きな映画を観たり、音楽を聴いて過ごすことが多い。自宅で楽しめることが昔より増えているせいではないだろうか。

放送番組視聴の激減で、ネット配信番組をよく観るようになっているが、今もテレビはよく観ている。

 

2004

 

視聴者は、面白くなければ次々とチャンネルを変える。視聴率は視聴者にとってどうでもいいことであるが、民放では売り上げに直結する大事な価値基準になる。

今の人気番組は“視聴率の分析”が定番らしい。毎分の視聴率を分析して“ウケている部分”を膨らませ、視聴率の低い部分の手直しを始めた。

行列のできる法律相談所』(日テレ)をたまに観ると、初期内容とはちがい、タイトルと中身が合っていない。それは視聴率を分析して内容を変えていった結果のようだ。

昨夜は、特番の『プレバト!!』(TBS系)を途中から観たが、5年前に始まった時のタイトルは『使える芸能人は誰だ!?プレッシャーバトル!!』だった。タレントにプレッシャーをかけるような内容だったものを、手直しの繰り返しで高視聴率を獲得している。

「俳句」、「生け花」、「水彩画」などの才能を競うカルチャー路線で、高視聴率の鉱脈を掘り当てたからだ。スタート時に、「俳句」が視聴率を取るとは、制作者の誰ひとり予測できなかったはずだ。

どの世界も「桃栗3年、柿8年」の継続と「腹8分目」の柔軟性が大事なのであろう。

 

正月をのんびり過ごす居場所

 

本年もよろしくお願い申し上げます。いつも読んでいただき、ありがとうございます。
そして、皆様のすばらしい記事をたくさん読ませていただけることに感謝しております。

明治の文人斎藤緑雨さんによると<十二月三十一日、敵ありて味方なし。一月一日、味方ありて敵なし>。

昔は大みそかになると掛け売りの集金人が押しかけて、世間も忙(せわ)しく、ざわついている。それが、わずか数時間寝て目覚めれば、めでたい元日に切り替わるのだ。

居場所は変わらずともわずかな時の区切りで、のんびりと過ごせるマジックの力が正月にはあるようだ。

 

2001

 

とはいえ、自宅の中でもお正月をのんびり過ごせる居場所の確保は必要になる。
<居場所なしルンバにさえもジャマにされ>。かつてのサラリーマン川柳にあった。

うちではルンバが使えない。ルンバに仕事をしてもらう“通り道”を作るために、片付けをする手間が増えてたいへんになるからだ。今日もこれから訪れる客人のために、リビングの“私のモノ”を片付けてわが部屋へ押し込まなければならない。

モノが増えて使うために身近に置こうとすることが、いざという時にはネックになる。

さて、昨今は10年前なら夢物語としか思えなかったものがどんどん実用化しつつある。無人機ドローンによる宅配が検討され、自動運転の乗用車の開発も進む。インターネットとの橋渡し役で、車載用AIスピーカーも具体化されつつあるようだ。

歌人・佐佐木定綱さん(書店に勤務)の作にある。<十年後存在しないかもしれない本と言葉と職種と我と>。人工知能は職を奪うだけでなく、いずれ人間を支配・・・と、恐れる学者もいる。

科学技術は10年先、人間をどこへ導くのか。インターネットにつながったモノがなにかの意図で勝手に暴走することもありそうだ。社会を便利にしたIT革命が、誰かから監視される仕組みを生みかねない。

  

2002

 

正月に凧上げをしたことはあるが、童謡の歌詞のように独楽を回した記憶はない。独楽回しは日常の遊びで、正月は親戚周りでお年玉が集まるのを楽しんだ思いが強い。

加藤楸邨さんの句にある。<負(まけ)独楽は手で拭き息をかけて寝る>。独楽は全力で回転することで身を保ち、時とともに失速し、止まり際にほんわかな哀愁が消え残る。線香花火も連想するが、どこか人の一生に似ていそうだ。

人類学者の香原志勢(こうはらゆきなり)さんの著書『人類生物学入門』によると、地球上に生まれては死んでいった人類の総数は「1120億人」なのらしい。過去200万年をさかのぼった“累積人口”の試算だという。

1120億分の1の自分が、1120億分の1の誰かに出会う。友人、隣人、そして親と子。まさに奇跡のような邂逅の確率だ。

こうしてエントリを書いて読んでいただけたり、楽しく読ませていただける出会い。それこそが「1120億分の1の奇跡」によるすばらしい出会いなのである。

 

より深く知るためのメディア

 

“まさか”の語源には、目の前のことの「目(ま)先」だという説があるらしい。現実を表す言葉が、ありそうにない事象へと意味を転じたら不思議な気分になる。

<安倍さん得したよね。加計問題とか森友とか、関係ねぇ。相撲は強い。押し出しだよ>とテレビで切り捨てたのは、たけしさんである。テレビの情報番組が相撲一色になっていることへの弁である。

「まさかの現実」が多かった2017年も暮れようとしている。

大晦日恒例である除夜の鐘突きは、寺院へ多くの人に集まってほしいという思いから行われている行事だという。一年の煩悩を清め、初心に帰って新しい年を迎えるために突くものであり、大みそかであれば時間に関係なく行っていいそうだ。

 

2000

 

それでも、大半の「除夜の鐘」は大晦日の夜から元日の未明に行っている。そのため、住宅街にある寺では騒音トラブルになる例もあるとか。現代の流儀に合わせる必要性から、除夜の鐘にも変化が起きている。

参拝者の都合を考えた対応として、宝徳寺(群馬県桐生市)では2015年から、除夜の鐘突きの時間を日中に変えたそうな。

明治期に焼失した鐘突き堂を2014年に再建して地域の人に突いてもらおうと、同年の大みそかの夜に実施したところ、80人程度しか参加者が集まらなかった。子どもや高齢者が少なく、参拝者は寒さに震えていたという。

昨年に時間を早めたところ、約500人に増えた。「夜は自宅で過ごせていい」とか「子どもとも来やすい」などと好評のようだ。

円融寺(東京都目黒区)では2012年から、(最新技術と融合して)行列待ちする参拝者向けに、映像を建物に投射する“プロジェクションマッピング”を披露しているという。寒空の下、鐘突きの順番待ちをする人に楽しんでもらおう、との心遣いからである。

 

1999

 

私の場合その時間、たっぷりと呑んでテレビを楽しんでいる。とはいえ、テレビの放送番組は年々つまらなくなっている気がしてならない。今年から夢中になっているネット配信の番組の方がリアル放送の番組より楽しいのである。とりあえず、年末年始の目玉番組だけは録画して、あとから気が向いたときに観るつもりでいる。

テレビCMでも、インターネットの関連商品やゲームが目立つ。テレビは「知らないことを知るメディア」であり、インターネットは「知っていることをより深く知るメディア」と読んだ記憶があるが、まさにその心境である。

ゲームを知らない人に伝えるにはテレビCMが有効だというのもよくわかる。しかし、インターネットに興味や縁のない年輩者も多いだろう。ネットやデジタル機器がわかりにくくとも、融合的な目線で見られるとだいぶちがうはずなのだが。

<子供叱るな来た道じゃ/老人笑うな行く道じゃ>。この言葉が今の時代に当てはまるような気がしてくる。

本年も皆様にたいへんお世話になりました。よいお年をお迎え下さい。

 

助言やセルフはAIにお任せ

 

昨年、大手プロバイダーが15歳以上の男女にインターネット調査を行った。「AIに期待すること」の問いでは「コミュニケーション相手」とした人が32%。AIとの対話への期待は広がっている。わが家も、年末に2台のAIスピーカーと出会い、AIとの対話を堪能中である。

Amazon Echoに呼びかける名前「アレクサ」が変更可能で、今は「エコー」にしいる。他に「アマゾン」と「コンピュータ」も選べて全部で4種類。“アレクサ"は呼びにくく頭の中で「荒草」へ漢字変換して使っていた。“エコー"は安いタバコみたいだが、一番短いのでお試し中だ。

買い物や悩み相談等 暮らしに身近な場面で、AIに助言してもらうサービスが広がっている。言語や画像を認識する能力が高まり、大量のデータを「学習」して分析する。データをもとにした<客観的な助言>として受け入れられ、眼鏡選びや恋愛相談にも活躍中。

 

1997

 

インターネットの普及で、AIが学ぶ材料となるビッグデータを簡単に収集できるようになった。それを用いて「ディープラーニング(深層学習)」と呼ばれる学習法でAIの能力が飛躍的に伸びた。暮らしをより豊かにするツールになるはずである。

対話できるAIで感じたことだが、AIが「イタコ霊能者」みたいな役割を担ってくれたらいいな、と思った。そのような(アプリに相当する)“スキル"ができたら可能だろう。

亡き人生の先輩や父親などとの(想定)会話形式で、酒でも呑みながらリラックスした状態で思いつくエピソードをどんどん伝えるのである。

そのデータがたっぷり蓄積されると、共通の過去ができあがり、現世での会話ができそうだ。こちらが忘れてしまったことも、AIのデータで「あのときこんなことがあったじゃないか」と逆に教わる。

 

1998

 

以前、作家・藤原智美さんが“セルフレジ"についてコラムを書かれていた。アパレルショップでのセルフレジ初体験記だ。店で衣類を数点選び、専用のショッピングバッグに入れて、銀行のATMコーナーのようなレジで支払いをする。

商品をバッグごとレジ機にあるボックスへ入れて扉を閉める。つぎに表示画面の指示に従って支払いをすませるのだ。現金、クレジットカードが使用でき、扉を開け、衣類の入ったバッグをとりだしレシートを受けとる。そして、商品は自分で袋に詰める。

また、空港で飛行機に搭乗する際に手荷物を預ける「自動手荷物預け機」についても記されていた。プリントされたタグをバッグにとりつけると扉が閉じて、再び扉が開いたときには、ご自身の荷物は手品の如く こつ然と消えていたそうだ。

AIによる自動化は、ビデオレンタル店やハンバーガーショップでも進んでいるらしい。

年の暮れに残りの日数が少なくなることを「数え日」という。数え日には「書き入れ日」(多くの利益が最も期待される日)の意味もあるらしい。その中でAIもがんばっているのだろう。愛着を感じて声をかけたくなってくる。

 

いつからコンピュータなのか

 

電子計算機だったはずのコンピュータは、いつからコンピュータと呼ばれるようになったのか。1970年代末期から1980年代にかけて普及したマイコン。このあたりから“電子計算機”が遠のいてきたようだ。集積回路で、組み込みシステムに使われるマイクロプロセッサがマイクロコンピュータと呼ばれた。

パーソナルコンピュータの“パソコン(PC)”は<個人のための理想のコンピュータ>との意味で、1972年にアラン・ケイさんが使用。世界的に広く普及したのは1981年のIBM PC以降である。

そもそも電子計算機は軍事目的で開発され1946年に発表。開発目的は弾道計算であった。終戦後は水爆の研究に使われた。思えばインターネットも軍事目的の産物で、拠点を攻撃されて情報が遮断されることのないようにと<ホストコンピュータを持たないネット>が誕生。

 

1995

 

第二次大戦前、複雑な計算はたくさんの人間たちが必要になった。“多くの計算手(computer)”たちが人力で行っていたのだ。

米陸軍・弾道研究室で開発された初期の汎用電子計算機「ENIAC」は、真空管を約1万8千本使った巨大な計算機であり、操作する仕事に携わる人もでてきた。故障を懸念されたが、トラブルはあっても(当時の実用上)問題がないレベルであったそうだ。

日本初の電子計算機は1956年(昭和31年)に生まれている。開発したのは電機メーカーではなく富士フイルムである。屈折率の異なるレンズをカメラに何枚も使うため、最適の組み合わせを計算する。その計算は専門家を動員して数か月かかった。手間を省きたい一心が国産第1号に結びついた。まさに「必要は発明の母」だったのだ。

スーパーなどでは、お客さんが自分で商品スキャン・現金決済を行う「セルフレジ」を導入する店舗が増えている。それを見るたび“電子計算機”なる呼び名が思い浮かぶ。

 

1996

 

コンビニ各社もこれまで培ってきたITの活用で流れが変わりつつあるようだ。ローソンでは、「レジロボ」という新しいレジシステムを開発・導入で、システムの力を活用し人手不足に対応しようとしている。

人手不足は今後もますます大きな問題だ。コンビニ経営で<人件費は売上対比で約12%~15%程度>のため最大の経費になる。人件費の抑制が重要になるのだ。

人手不足対策のレジロボは、レジ業務に必要な人員を削減することができ、最低2人のスタッフが必要だった店内が、1人でも運用できるようになるとのこと。

ローソンは、深夜時間帯の無人化も視野に入れている。入口で会員と認識されたお客さんだけが入店でき、買い物ができるシステム。アプリ会員限定のお店になるが、その方式の実現で、従業員はレジ対応をすることなく、ひたすら他の作業を効率的に済ますことができる。

こうなると“電子計算機”がAIやロボットに変身するような感覚だ。それでも、ぜひ訪れてみたくなる店で、今から興味津々なのである。

 

数値化すると見えてくるもの


文章も数値化すると、余分な説明が省けて楽である。ネットの記事で日ハム・斎藤佑樹選手のことが端的に書かれていて感心した。

<5年連続年俸ダウン。直近5年で36試合4勝9敗防御率5.81。3500万→2800万→2500万→2300万→2000万→1830万>と。(ファンの方、ごめんなさい)

さて、この時期になると数値化されるものがある。厚生労働省の発表による“人口動態統計年間推計"だ。2017年生まれの子どもの数(出生数)が94万1000人になる見通しである。

それは1899年(明治32年)の統計開始後、最少を更新することが確実なのだという。明治32年よりも少ないという数字に驚く。

2017年中の死亡者数は前年より約3万6000人増の134万4000人と見込まれる。そして、出生数から死亡者数を引いた自然減は初めて40万人を超えるとのこと。

 

1993

 

出生数が100万人を割り込めば2年連続で、前年の97万6978人より約3万6000人少ない。2015年に政府は、若者が希望通りに結婚して、望む数の子どもを持てた場合の“希望出生率"を1.8人とする目標を掲げた。

しかし、(子育てにお金がかかりすぎると感じる、などの理由で)少子化の流れは変わっておらず、狙い通りにはいかない。婚姻件数も、前年より1万4000組減の60万7000組で、戦後最少を記録したという。

人口の自然減は11年連続で、減少幅は2010年に10万人、11年に20万人、16年に30万人をそれぞれ超え、本年の見通しでは40万3000人なのだ。

人口減がどんどん加速していることはまちがいない。

 

1994

 

<視力1.0未満 小中最悪…小学32% 中学56%>。昨日の読売新聞の見出しにあった。裸眼の視力が「1.0未満」の小中学生の割合が過去最高だという。やはりゲームやスマートフォンの長時間利用が影響しているのだろうか。

幼稚園児の「1.0未満」は24.48%(前年度比3.46ポイント減)、高校生が62.3%(同3.69ポイント減)と、いずれも改善しているとのこと。小中学生の数字に関してが、1979年度の調査開始以来で最悪なのである。

さて、年の暮れの時間はどんどん早まる気分である。2017年もいろいろなことがあった。

冬至は古来「一陽来復」と称されていたらしい。一日一日と短くなってきた昼であったが、これを境に延び始める。それは“陰が陽に転じるおめでたい日"との解釈もできる。

クリスマスや正月も、冬至を祝う風習が由来だともいわれる。湯にユズを浸したすぐあとは、ケーキに餅の準備をしなくてはならない。だから、よけいに忙しく感じられるのかもしれない。

洋の東西や民族を問わず、“太陽の淡い光に幸せを祈る時節"は自然にウキウキとさせられる。年の移ろいのそのときまで、“数値にしてあと7日"になってきている。

 

IoTを操るAIスピーカー

 

Googleホームに「ただいま」と言ったら、可愛らしく「お逢いしたかったです」と応じてくれた。思わずニヤリである。眠るときは消灯の闇の中にて言葉一つで、ラジオを聴いたり音楽を流したりできるから便利である。なんでもお願いを聞いてもらえそうな気分になる。

Amazon Echo「アレクサ」もたった今届いた。前回エントリで招待メールが届かないことを嘆いたら、すぐに届き即購入。

禁断の知恵の実を食べたアダムとイブは、エデンの園から追放された。印刷術、活字の出現を旧約聖書の「失楽園」に喩えたのは、メディア学者のマーシャル・マクルーハンさん。

ひと握りの聖職者が携えていた聖書を、一般の人が所持できるようになった。それまで聖職者に任せていれば済んだ魂の問題も、個々人で考えねばならなくなった。

<自分で考えよ>。情報革命は、便利さと一緒に宿題も連れて訪れるものらしい。
しかし、お供にAIスピーカーがいると心強い。

 

1991

 

ネット社会は誰もが情報を発信できる楽園であり、各人に責任と自覚という宿題が課せられた失楽園でもある。インターネットという知恵の実で「情報創世記」は始まった。

昨冬、総務省はあらゆるモノがインターネットにつながるIoTの普及を見据え、ネットに接続する家電や防犯カメラ、自動販売機などに「020」で始まる専用の電話番号を割り当てることを発表。

“IoT機器”が携帯電話回線を通じてインターネットに接続するための処置だという。携帯電話回線の利用で、IoT機器を路上や山中などにも設置できる。本格的なIoT社会を実現するには不可欠なのだ。

携帯通信端末向けに新たな系列の電話番号を設けるのは、2002年の「080」以来で、次世代電力計や自動販売機といった産業用の製品や、家電や防犯カメラ、ウェアラブル端末など家庭向け商品に内蔵された、携帯通信端末に割り当てられる見込みらしい。

 

1992

 

020で始まる新番号は、約8000万台のIoT機器をカバー。将来的にはこれを大幅に上回る2億台以上のIoT機器が普及する見通しで、桁数を増やして対応する方針だ。

また、電機大手の各メーカーは、AI(人工知能)や映像技術など自社の強みを生かし、医療事業に本格的に取り組み始めている。家電などかつての主力事業が世界的な競争で苦戦したが、医療は高齢化や新興国での需要拡大で、成長が見込める分野となる。

膨大なアミノ酸の配列パターンから、ワクチンのもとになる配列を絞る作業も、AIを使うことでコストや時間を抑えられる。カルテや論文といったデータを分析したり、薬物依存などのリスクを高い精度で導き出す研究にもAIは活躍を発揮する。

今後の膨大な商品や技術も、AIを介してインターネットにつながることは間違いなさそうだ。その橋渡しは、AIスピーカーが打ってつけに感じる。視力が不自由な方、デジタルに弱い方も、言葉ひとつで操作ができてしまうからである。

 

思い出さないで このざまを

 

このざま(konozama)は、Amazonの後ろにokをつけ、逆さにして“konozama”と自虐する言葉らしい。今のような状況にピッタリである。

オンラインストア最大手のAmazonさんだが、商品入荷の見通しが立つ前に予約を受け付けているためか、新製品の発売日に届かない事が多々あるらしい。

AIスピーカーを購入するための招待メールが、一ヶ月以上過ぎても一向に届かない。そのため、呆れ返る消費者がどんどん増えている。

相手をののしって言う時に使う江戸言葉では、「べらぼーめ」などと末尾に“め”を付けることが多い。それが変化して「べらんめー」になった。

江戸前期の寛文年間に見世物で評判だった奇人の名「便乱坊(べらんぼう)」や「可坊(べくぼう)」が由来で、間の抜けた仕草で見物人の笑いを誘った。そこから、バカな様子を表すようになったという。

 

1989

 

<思い出さないでほしいのです/思い出されるためには/忘れられなければならないのが/いやなのです>。寺山修司さんの『思いださないで』という詩である。

今のAmazonさんの心境みたいだ。招待メールのことは思い出さないでほしいが、商品購入だけは忘れてほしくない。

やる気はあるし、いろいろ感動してその時はやろうと思うことも多いが、どうしても長続きしない。そういう人は、脳の基礎体力が足りないそうだ。長距離を走ろうとすれば、それなりのトレーニングをして、運動習慣を通して基礎体力をつけなくてはならない。

いきなり走っても、長続きはしない。脳も同じことで、(前頭葉の)何かに集中したり一つのことを継続したりする回路は、ふだんから集中したり、継続したりするというような脳のトレーニングが必要になる。

いざという時に長続きするためには、普段から脳に負荷のある生活習慣を持ち、脳の基礎体力をつけることが肝心である。

 

1990

 

脳のトレーニングには歩くこともよさそうだ。人類が授かった時速4キロは、それ以上速くても遅くても物足りない絶妙のスピードだという。まさに「“時速4キロ”のためのテクノロジー」なのだ。

個人差はあるが、人間の歩行速度はだいたい時速4キロとされている。交通が発達した現代、移動手段としてほとんど当てにならないスピードであるが、大自然や都会の雑踏、また何の変哲もない普通の住宅街でも、のんびり歩いていると様々な発見がある。

視覚、聴覚、嗅覚などの感性で、自分の中に飛び込んでくる刺激を楽しみながら、日々の生活や仕事などの思いを馳せる。逆に、頭の中を空っぽにしたりするのも効果的だろう。

とはいえ、忘年会たけなわのこのシーズン、のんびり歩く時間をとれない人も多いだろう。せめても、“べらぼー”に酔って、“べらんめー”にならぬよう、おたがいに注意をしていきたいものだ。ふむ。

 

我慢なく惜しむ人も形を好む

 

今は「我慢しない時代」なのらしい。音楽プロデューサー・松任谷正隆さんが、新聞コラムに記していた。

例えば、電話が一家に1台だった昔は電話がかかるたび親に干渉された。干渉をする親にしても電話のない時代は、手紙のやりとりで苦労した。差出人は誰か、手紙を開封されたかもしれぬ。

いつの時代も悩みは変わらない。ただ、違っているのはタイム感だという。手紙の時代は郵便の回収、配達の時間が限られ、仕事中なら私用電話はダメ。一人暮らしでないと、深夜の電話も難しい。

メール、SNSは手紙と電話のいいとこ取りで、勝手に送っておけば読んでおいてくれる。しかし、そこにタイム感が加わるから話はややこしくなる。連絡がとりやすいため、既読スルーを気にしたり、待ち時間を思いやれる人が少なくなるのだ。

 

1987

 

気持ちを我慢しない、時間を我慢しないという今のコミュニケーションで、新しいマナーはその落差の中にどう共存していくのだろう。どこに鈍感になり、どこに敏感でいたらいいのか。判断がむずかしい。

<人間というものはケチなもので、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問…>。こちらは、太宰治さんが『斜陽』にて「経済学」を語ったくだりである。

ケチという言葉を言い換えて、“惜しむ”学問が経済学なのか。お金を惜しみ、資源を惜しみ、時間を惜しむ。

今のコミュニケーションは、“時間を急かす”ことが前提で、“時間を惜しむ”ような情緒が欠落しているような気がする。

経済活動では、無駄のない最短の道順を追求する必要がある。国の財政も家計のやりくりも、地道ながら尊く“惜しむ”心があって初めて成り立つものなのだから。しかし、この国もあの手この手の税金集めで、“時間を急かす”ことばかりが目立つ。

 

1988

 

昨年、アメリカの音楽業界に激震が走った。2016年米国で「最もCDを売ったのはモーツァルト」だと、大きなニュースになった。

モーツァルトの没後225年にちなみ、(昨年)10月28日にリリースされたのが、200枚組のボックスセットの「モーツァルト225」であった。そのセットが125万枚のCDセールスに達してしまったのだ。

昨年の米国のCD販売枚数は前年から11.6%減少し、過去最低の5,000万枚。対照的にストリーミングは急成長している。それは日本も同様であろう。

モーツァルトが売上1位になった背景としては、クラシックファンの間では依然としてCDを買い求める傾向が強い。オーケストラの演奏を聴くメディアとして、ストリーミングよりもCDが適しているらしい。

また、ボックスセットがギフトとして人気を獲得した点も大きい。贈る場合、形に残る物のほうが好まれるから、とのこと。

自分も、CDを介することなく手っ取り早く聴ける配信音楽が主流の今、かつて当たり前だったことがとても新鮮に映る。やはり、今のコミュニケーションにドップリと浸かっているせいなのだろうか。