日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

“為す人”達の好奇心と探究心

 

珍しいこと、未知のことなどに興味をもつ心が“好奇心”であるのなら、物事に深い知識を得たり原因を解明しよう、という気持ちのことを“探究心”という。

このふたつのこころは連係が深く、貫く人の意志は強い。

司馬遼太郎さんは中学1年の思い出を『随想集風塵抄』に記した。
英語の授業中、「New York」という地名の意味を先生に質問したが、先生には「地名に意味があるか!」と怒鳴られたのである。

帰り道に市立図書館へ立ち寄り、司書の人に必要な本を出してもらって読むと、英国軍の占領に伴い、英ヨーク公の名を冠したことがわかった。のちの大作家の頼もしいエピソードだ。

 

1919

 

1992年、オリックスでプロデビューを果たしたイチロー選手は、打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得した。

一軍登場もするが、首脳陣に自身の打法(振り子打法)を批判され、打撃方法を変更するよう要求されるが拒否。一軍に定着することはなかった。

「選球眼ならかんたん。でも、頭で判断すると打てなくなる」とイチロー選手は言った。
<選球眼より選球体>との名言も残している。

頭で“打てない”と考えても、体の反応でボール球も見事に打ち返したイチロー選手は<打率より安打数>とも言い続けている。

打率は減るから、打席を逃げたくなる気持ちが生じかねない。安打数なら増えるだけなので、楽しさを感じて打席に入りたくなる、のだと。

イチロー選手の安打確率は、頭より体が最優先だったようだ。

 

1920

 

さて、相撲のもつ独特の美と醍醐味はここにある。

大相撲のように2人の力士が呼吸を合わせ、競技者同士の合意で試合をはじめる例はまれで、すばらしいことらしい。

格闘技は、審判が合図をしたりゴングが鳴ったりと、第三者の手で試合の開始を告げられるのが普通であるからだ。

昔の相撲は名勝負もあるが、寄り切りでの決着が多かった。
その流れの変化は、小錦、曙、武蔵丸など外国人力士の登場であった。

上位力士たちを擁する大部屋の若・貴に対して、外国人力士たちとの取組は(同部屋対決がない分、若・貴が有利だったが)、日本人VS外国人という図式に拍車をかけた。

数年後、朝青龍の登場でモンゴル勢の活躍が始まり、多彩な技と動きに変わる。
そして白鵬が大記録を塗り替えて、今も君臨している。

現在、ひとつ失われたものがあることを強く感じる。それは「立ち合いの間の悪さ」だ。その美しさが削がれることで、取組内容の良さが半減してしまうからだ。

力士どうしが呼吸を合わせるという感覚は、外国力士に理解しにくいのではないか。対戦相手との共同作業ではじまる異色の競技は、抑えたものを立ち合い後の一瞬に爆発させる。この流れの美学を白鵬にぜひ伝えてもらいたい。

相撲への好奇心と探究心は現役の日本力士や親方を上回り、知識も豊富だ。
若手力士にも、「立ち合いの美しさ」の意味を伝えられるのは白鵬以外にはいない、と感じている。

 

生真面目なるサラリーマンは

 

昭和の時代を思い浮かべると、あくせく働くサラリーマンがいる。
その家庭風景は、家にモノが増えるよろこびに満ちていた。

電化製品、家具、すしの出前や車。どれも新しいモノばかりで新鮮だ。
高価で手が届かないはずの車や、カラーテレビ、パソコンも、いつの間にか天上からわが家に降りていた。

1978年(昭和53年)9月26日に東芝が発表した、世界初の日本語ワードプロセッサJW-10の価格は630万円。重さは220kgもあった。その機能は、今のスマホの足元にも及ばないはず。

 

1917

 

<日本に この生まじめな 蟻の顔>と詠んだのは、俳人加藤楸邨さんである。
アリからイメージするのは律義な働き者であり、作者の日本人観であった。

何気なく使うふだんの言葉には、歴史の重みの潜むものがある。

「感謝感激、雨あられ」は、日露戦争が題材であり、筑前琵琶の一節で「乱射乱撃・・・」のもじり。「この際だから」は、関東大震災直後の流行語だという。

 

1918

 

アリの大敵はアリジゴクである。

砂地にすり鉢状の巣を掘って潜み、落ちてくるところを捕食する。
巣は砂が崩れないぎりぎりの角度に作られていて、アリが脚を踏み入れると崩れるのだ。

大災害、不況、戦争の連鎖・・・。あとを絶たない。

なにかが起きれば、アリジゴクの穴へ脚をかんたんに踏み入れる。
そのキッカケはもろいもの・・・なのだろう。

 

いつもと同じに去りゆくナツ

 

ツクツクボウシの鳴き声が、夕暮れ時の蝉時雨に引き立つ。
そのメランコリックな調べに、ゆく夏を感じる。

だいぶ前から、道でひとつ、ふたつと、セミの亡骸を目にする。
声を使い切り、地を這う力も尽きたように見える。

セミに比べると、テントウムシは長生きが上手な昆虫に思えてならない。
真冬でもわが家の周りでよく見かけるからだ。

 

1915

 

<死ぬために ただ死ぬために 蝉生まれ>。
川柳作家・時実新子さんの句である。

小さな虫の、はかない命を愛おしむまなざしなのであろう。
セミの亡骸を見るたび、私も同じことを想う。

虫ひとつが人を感傷に誘う夏は、きっと「いのちの季節」なのだろう。

ずーっと以前から、“からだは借り物”という考え方に興味がある。
この世に生を受け からだを借り受け、その与えられた時間が“寿命”ということになる。

寿命にしても、長寿に恵まれた人だけが知る悲しみもあるそうだ。
からだを健康に保つだけではなく、強いこころも必要となる。
多くの親しい人を、見送る悲しみにも耐えねばならないからだ。

 

1916

 

長寿に至る道だけではなく、至り得た長寿もまた、平坦な場所ではないらしい。
高齢社会は、“多死社会”でもある。

2016年の日本では、年間129.6万人が亡くなり、その数は出生数の98.1万人をはるかに上回る。2030年頃の年間死亡数は、160万人を超すともいわれる。

多くの人が死を意識しながら、(延びた寿命を)生きていくことになるのだろうか。

花の名前に疎くてわからぬが、(炎天に似合う)この時期の花が雨にぬれている。
いつもの年なら名残りの炎暑にあえぐはずが、今日もまた雨だ。

ゆく夏の背中を見送るひまもなく、秋の長雨が待ち構えているのだろうか・・・。

 

目が離せないAIと配信革命

 

AI(人工知能)ブームは、今までに2度起きているという。

1回目は、1950年代半ばから60年代。コンピューターの発明から10年ほどで、今のスマートフォンと比べものにならない貧弱な計算能力だった。

2回目は80年代から90年代で、製造、医学などのノウハウや専門知識をAIに埋め込む“エキスパートシステム”が注目され、日本の大企業も乗り気になった。

人間から知識やノウハウを聞き出すことが必要となるが、人間の持つ膨大な常識は無意識に使っていることが多い。それを取り出すことができず、とんでもない失敗作を作ったりもした。「役に立たない」との批判が起き、研究は下火になった。

そして2010年代に3回目のブームが起き、今がその真っ最中らしい。
10年代に入ると、AIがトップクラスのプロ棋士に勝った。将棋関係者から「人間に勝つことなどありえない」とバカにされ、AI将棋に取り組んだ成果であった。

 

1913

 

今のブームと、これまでとの違いは“技術の向上”にある。
コンピューターの計算速度が速くなり、自ら学ぶ機械学習や深層学習も進んだ。データもそれまでよりも豊富である。

ただ現実は、各企業の社長が「AIをやるんだ」と部下へ号令をかけても、何をやればいいかわからないままで、自社に蓄積されたデータをAIで生かす難しさに直面するケースもある。

AIにデータ入力するにはその統一をしないといけない。今までのデータは人が扱うことを前提としていたため、データの書式などがばらばらで時間やお金も嵩む。

AIは人間の脳で行う作業を、コンピューターとソフトで模倣する技術である。「人間の知的作業でAIにできないことはない」との説もある。

漢字変換ソフトのおかげで漢字を書けない人が増えた。しかしソフトがあれば、難しい漢字も使うことができる。AIやロボットの助けも必要になり、人間はAIとペアで能力を向上していくようになるだろう。

 

1914

 

現在の「動画配信」は、“テレビ界”が築き上げてきた常識をぶち壊す存在といっても過言ではなさそうだ。その前の、音楽配信ダウンロード販売による、CDの売上枚数激減がお手本だ。

日本のテレビ界が、独自のお気楽感覚でやってこれたのはふしぎだ。
放送は“免許制”であり、他業種からの新規参入はむずかしい。外国人による株式所有は放送法によって制限されているとか。

ここ数十年、テレビ業界は他業種からの“価格破壊”などにおびえることもなく、外国資本に脅かされる必要もなく過ごしてこれた。

「配信」は“通信”のジャンルに属するため、放送法の縛りを受けないし外国資本の参入に対する制限もないようだ。

配信事業を始めるのに免許や許可などの手続きを必要とせず、描写などについての表現も自由で、おもしろいエンターテインメント作品が見られる。

実際に、アマゾンのスティックをテレビに挿すだけで、ふつうのテレビ放送のごとくネット上のあらゆる動画や音楽が、かんたんに手に入るということは驚きであった。

いつでも視聴できると思えば、ダウンロードの容量もまったく必要がない。
配信の良いところは「予定調和ではなく意外性」なのだと思う。自分の意志では視聴しなかった名作との出会いが楽しみで、(私の)テレビ放送の番組視聴量は激減中である。

 

名酒の名酒ぶりを知るために

わかりやすい体験談に感銘を受ける。

<暗い夜をくぐり抜けてきた人は、ともしびの明るさが胸にしみる>という。

1970年に「東京空襲を記録する会」を結成した、作家・早乙女勝元さんの体験だ。
敗戦の夏に平和を実感したのは“灯火管制の解除”であり、「平和は明るくまぶしい」と感じたそうだ。

作家の山本一力さんは、10代半ばで高知から上京して新聞専売所で働いた。
初めて地下鉄に乗った際、暗闇の先に見えた小さな光が少しずつ膨らみ、駅となって浮かび上がってきた。その様子に「経験したことのない興奮を覚えた」のだと。

 

1911

 

わかりやすい頑固さも好きである。

作家の泉鏡花さんは、言葉には霊力が宿るものと固く信じていた人らしい。
書き損じた原稿用紙の文字は、墨で黒く丹念に塗りつぶした。

佐藤春夫さんとの対談で、佐藤さんが(指で)宙に何気なく文字を書くと、鏡花さんが血相を変えながら、見えない文字をあわてて消すまねをしたそうだ。

ウイスキーのCMでおなじみだった開高健さんと山口瞳さんには、酒の名言が多い。
<名酒の名酒ぶりを知りたければ、日頃は安酒を飲んでいなければならない>。開高さんの言である。<最初の一杯がいい。そして、最後の一杯も捨てがたい>と山口さん。

ともに“達人の域”であり、“理にかなった頑固者”だから楽しい。

 

1912

 

<人類史を1日にたとえれば戦争が始まったのは23時58分58秒から。それ以前はずっと戦争などなかった>。ジャーナリスト・むのたけじさんはそう訴え続けた。

或曇った冬の日暮である(蜜柑)。或春の日暮です(杜子春)。或日の事でございます(蜘蛛の糸)。

芥川龍之介さんの3つの作品の書き出しである。
人は誰しも、今日はどうなるかわからない“或日”を生きるものらしい。

<終点にはなるだけゆっくり遅く着く。それが人生の旅。死ぬ時そこが生涯のてっぺん。1日長く生きれば1日何かを感じられる>。

昨年、101歳で亡くなられた むのたけじさんの言葉である。

 

念願のコンサートは感動の渦

 

一昨日、長年の夢であったコンサートに行くことが叶った。

夏になると聴きたくなる音楽であり、本能的に聴いてしまう音楽でもある。
それはベンチャーズ

クロマチック・ランこと“テケテケ”サウンド。あの奏法が、たまらない涼しさを運んでくれる。
会場は往年のファンで満員だった。私の隣の席には若いカップルもいたが。

リードギターリズムギター(サイドではなくあえてこう呼ぶ)、ベースギター、ドラムス。
理屈のないサウンド構成のシンプルさがたまらない。

“エレキ”ブームの発端はベンチャーズで、彼らの曲をコピーしたインストゥルメントのエレキバンドも何度か聴きに行っていた。

私の場合、ビートルズよりベンチャーズの方こそ“好感度のインパクト”が強い。初めて聴いたエレキギターとあの盛り上がる楽曲。今も聴いているが飽きない。

 

1909

 

結成メンバーは、ドン・ウィルソンさん(リズムギター)と、ボブ・ボーグルさん(ベース、初代リードギター)のふたりで、リードギターリズムギターのデュオとしての活動だった。

思い浮かぶいくつかのバンド名はすでに使われていたため、ドンさんの母親の提案で「ザ・ベンチャーズ」と名乗るようになった。

結成メンバーでリーダーのドン・ウィルソンさんは、2015年でベンチャーズのツアーを引退。日本では長く人気を保ち、来日回数は60回を超え、(日本での)公演回数も2,600回を越えた。

半世紀以上の活動で、メンバーだったボブ・ボーグルさん、メル・テイラーさん(ドラムス)はこの世を去った。今では、かつてのメンバーの二世がメンバーとして活躍している。

メルさんの息子、リオン・テイラーさんのドラムスを堪能できた。そして、昨年からボブ・スポルディングさんの息子、イアンさんもベンチャーズでベースを担当している。

 

1910

 

コンサートでは、日本にお馴染みの曲も必ず演奏してくれる。

『京都の恋』(原題はEXPO ‘70)、『ブラック・サンド・ビーチ』(加山雄三さんの曲)、『二人の銀座』、『北国の青い空』、『京都慕情』、『雨の御堂筋』などと、歌謡曲の作曲家としても注目され、それらは“ベンチャーズ歌謡”と呼ばれた。

その原点は、ジェリー・マギーさん(リードギター・ベース)の幅広い音楽性が作用しているとも言われている。今回のコンサートでもすばらしい演奏を披露していただいた。

二世であるリオンさんの、素晴らしいドラミングも圧巻であった。彼のプレイで始まる『キャラバン』では、父親のメルさんに負けず劣らずのソロ・パートで楽しませてくれた。
父親の来日回数は26回だが、リオンさんはそれを10数回もオーバーしている。

ベンチャーズは米国のバンドではあるものの、インストゥルメンタル主体のバンドであるため、言語の壁を乗り越え、その明快な楽曲が各国で受け入れられた。

日本におけるレコード等の総売上は4000万枚を超え、米国以上に日本のポップスシーンへ影響を及ぼした。

私は、待ちに待った(本家の)生演奏で、(脳ではなく)からだが勝手に感動していた。
今までにない体験であり、“音を楽しむ”ための「音楽」に出会えたことに感謝である。

 

団塊しらけプレッシャーゆとり

 

団塊世代”は、第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)に生まれ、日本の高度経済成長、バブル景気を経験。第一次ベビーブームの3年間の合計出生数は約806万人だという。

その後は“しらけ世代”と呼ばれ、日本の学生運動が下火になった時期に成人を迎えた。
政治的無関心が広まった世代で、何においても熱くなりきれずに興が冷めた傍観者のように振る舞う世代だ。私もこの世代であるが、この世代名を気に入っている。

そして今、とても親近感があるのは“ゆとり世代”である。

小・中学校での教育内容が改正されたのは、2002年度から2010年度までらしい。1987年から1996年生まれまでの9年間を“ゆとり世代”とすることが多いとのこと。年齢的には30歳~21歳ぐらいの人を指す

指示待ち人間で、自分から動こうとしない。怒られることに慣れていなくてストレス耐性が低い。プライベートを優先し、会社の飲み会などに参加しない。

こういう特徴も、なぜか憎めない。

 

1907

 

世界各地で行われる学習到達度調査(PISA)の結果では、2000年度の調査で日本は計算力が1位、読解力は8位という結果。2003年度の調査では、計算力が6位、読解力は14位まで低下したらしい。

バブル崩壊後の時代に子ども時代を過ごし、親のリストラなどを目の当たりにしてきたゆとり世代は、会社に対して夢も希望も持たない。会社で偉くなることより、自分のやりたいことをやる方が重要だという。自分の一生を思えば、しらけ世代の私も同感である。

ゆとり世代は、自分で考えることが苦手。マニュアル世代であり、マニュアルに書いていないことは想像することもできないとか。もちろん、個人差はあるはずだ。

自分の意見を主張するより、その意見が正解かどうかを気にする。自分からは行動しないし、自分で答えを考えるということもしないとか。とはいえ、自分に必要な答えなら、考えるに決っていると思うが。

 

1908

 

2013年の流行語大賞には、“さとり世代”が選ばれたという。
<ゆとりには差別的な響きがある>とのことで、大人たちが勝手に作った“ゆとり”によって、自分たちがさげすまれることへの反発から生まれた言葉らしい。

(年齢的には23歳前後で)1994年前後の世代の人たちに対して言うことが多いようである。物欲がなく浪費をしない。結果を重視して合理的に動く。休みの日は自宅で穏やかに過ごすことが多いなどの特徴らしいが、やはり個人差はあるだろう。

“さとり世代”にとっての豊かさは、物質的なものではなく精神的なものへのシフトなのだ。

ゆとり世代”の前の、1982年から1987年生まれの人たちは、“プレッシャー世代”と呼ばれるとか。年齢的には35歳~30歳ぐらいまでだというから、うちの息子たちくらいだ。

様々なプレッシャーと戦ってきながらも、「それが当然」という意識が強く、ここ一番に力を発揮できるという。“団塊世代”に近い特徴があるように感じる。

ゆとり世代と同様にバブル崩壊後の社会しか知らない世代だが、悲壮観や、ゆとり世代ほどの危機感もなく、ありのままを受け入れ、力強く生きている世代である。今の日本で一番の働き手ともいえる世代であろう。

若い人と話をしてみると同世代どうしで、世代間のちがいをよく耳にする。私がその年代のとき、(団塊世代の上で)“戦前世代”の方たちとよく飲み教わった。近い世代を飛び越えたお付き合いは、実に楽しいものだったのである。

 

口に関する下世話事あれこれ

 

「口が減らぬ」は、口達者で理屈を並べて言い返したり、勝手なことを遠慮なくしゃべったりするさま。私は、同性よりも異性との会話でこのケースによくなる。お笑いの感覚なので、言い合ったあとはスッキリ感がある。「口ずさむ」ような会話が楽しめればいいと思う。

「言わぬが花」なら、はっきり口に出して言わなくても、おもしろみや味わいがあってよい。「口達者」ではなく「口にチャック」もできれば、粋な会話が楽しめそうだ。

「口がきれい」という言葉は、ふたとおりの意味があるとか。口先だけでりっぱなことや、きれいごとを言うさま。もうひとつが、食べ物にいやしくないさま、である。

後者の意味で、私は口がきれいと言われたことがある。人前で食べる姿を晒したくないため、執着がないフリをする。その分、お酒に意地汚いという自覚があるから、「口が卑しい」という言葉が当てはまる。

 

1906

 

バブル期のグルメブームには「口が奢っている」人が多かった。贅沢でうまい物しか食べない。「口寂しい」と思えば、何か口に入れるものが欲しくなる。脂と糖分で鍛えたそのからだは、バブル崩壊後に“現代病”というツケが回ってきた。
昔ながらの粗(素)食がなによりのごちそうと、気付いたときは“あとの祭り”である。

「口のうまい」人は蔓延している。巧みな話し方を駆使し、口先で人をまるめ込んだりするのがじょうずである。“振り込ませ詐欺”の手口は、ますます高度化している。
その「口三味線」に言いくるめられぬよう、不断からの注意が必要だ。

「口うるさい」人、「口はばったい」人はやっかいだ。「口は災いのもと」で、不用意に発した言葉や余計なひとことが災いをまねいてしまう。言ったはいいけれどあとから「口惜しい」思いが自分に跳ね返ってくる。

 

1905

 

「暴言」を吐くのも“口”であり、公害ならぬ“口害”である。
ハッキリ言わずに「口を濁す」人や、分を越えて横から「口出しをする」人も多い。

議員さんたちの口からも「失言」がボロボロとこぼれ落ちている。相手に訊かれると困るため、泣き叫んでごまかしたり、どこかに隠れたりもする。

限られた人間関係で、「口が軽い」か「重い」かのゲームを試してみるとおもしろい。
Aさんのことを知りたければ、本人ではなくBさん、Cさんなど他の人にさりげなく訊いてみる。そのリアクションでだいたいの口の軽さが判別できるからだ。

自分の秘密をわざと一人だけに話してみる。すると、話の広がりの早さにおどろいてしまう。なんておしゃべりな人間が多いのだろう、とあらためて確認できる。

なにはともあれ、幼稚な「口喧嘩」で地球を破壊しかねない輩(やから)には、常識ある「口添え」ができる“ご意見番”がなくてはならぬ。

 

頭ではなく体で判断する時間

 

日本には二つの時刻制度が併存したという。

明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開業してしばらく、鉄道は分単位で運行されたが、当時の人たちはまだ、一時“いっとき”(2時間)とか半時“はんとき”と、時間を数えていたそうだ。そして、日本人による最小単位の時間認識は四半時の15分だった。

鉄道は時間短縮の歴史を必死に刻んできたようだ。
時間感覚が改まり145年になる現在は、(鉄道に限らず)分秒を争うことも珍しくない。

投手の投げた球が捕手のミットに収まるまで平均0.4秒だという。
ずっと以前、イチロー選手の談話で知った。思わずストップウォッチでその時間を確かめた記憶がある。

イチロー選手によると、0.4秒間に「このまま普通に打ってもヒットにはならないぞ」とわかれば、バットのヘッドを遅らせてわざと詰まらせ、ボテボテの内野安打をねらうらしい。
そしてそれは、<頭ではなく体が判断する>ことなのだと・・・。

 

1903

 

<あせって一瞬の火花になるな。根気よく牛になって押しなさい。人間を押すのです。文士を押すのではありません>。

1916年(大正5年)の8月、夏目漱石さんは(若い門下生の)芥川龍之介さんと久米正雄さんに手紙を書いた。「文壇のつき合いに煩わされることなく、一心に人間を見つめなさい」との教えらしい。この手紙は、4か月後に亡くなる漱石さんの遺言のようにも感ずる。

残念ながら師の遺言は守られなかったようだ。
のちに文壇の世話役として重んじた久米さんは文士を押した。人間を押さずに・・・。
芥川さんは牛にならず、火花になることを望んだ。

1927年(昭和2年)7月24日、数々の名作で知られる芥川さんは、<唯(ただ)ぼんやりした不安>と書き残し、35歳で自殺した。この夏で没後90年になる。師である漱石さんが他界されて、10年と7ヶ月後のことである。

 

1904

 

時間とはふしぎなもので、幼い頃の夏休みなど夢中で遊んだ日の記憶は、とても楽しい。なぜそんなに楽しかったのか、さっぱり思い出せないのだが。

ラジオ体操や昆虫採集、プールや海での水泳。お祭りや花火もあったはずだが、今思えば特別に何かをしたわけでもない。それでも楽しかったのである。

あとで考えてもよくわからないほど、自分を忘れて楽しんだということはまちがいないだろう。

このお盆も、(昨年から生まれた)祝日を含め長い休暇となった方も多いだろう。
海、山、実家、海外へと出かけている友人もいる。日常を離れ、羽を伸ばせる日々でありますように。

子供たちの夏休みは、今が折り返し点である。
休みの終わりが近づくと、やり残した宿題も含め憂鬱になるが、9月の最初の登校日には、同じクラスの仲間に一ヶ月ぶりで会える。

どういう形であれ“非常に楽しみでいられる時間”は、(長い人生の中で)とても貴重に思えてくる。きっと、「体で判断できる時間」だからなのかもしれない。

 

悩ましき判断は先送りになる

 

昨年7月に亡くなられた永六輔さんは、草創期のテレビ人である。
しかし、1966年にテレビのヒットバラエティ番組『夢であいましょう』が終了すると、活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年には『誰かとどこかで』がスタートした。

<テレビに出れば有名人。文化人でも、知識人でもないの・・・>と(著書『無名人のひとりごと』より)。影響力の強いテレビでは本音の発言ができない、との考えで早くもラジオに活動の重心を移した。

永さんのように出会いを大切に、自分の好きな道を潔く貫いた人たちも多いが、私などは歳を重ねつつ後半生をどう生きるか、悩ましいばかりである。

若いときから「今は目の前の仕事をするだけ」と結論を先延ばしにしてきたツケが、まとめて回ってくるような感覚なのである。

 

1901

 

心理学者・小此木啓吾さんの著書『モラトリアム人間の時代』が話題になった時代、大人になり切れない、なりたがらない若者心理の分析はそれなりに理解ができた。自分も若い時期だったのだから。

ところが今は後半生の選択までもが先送りのままなのか。何十年たっても変わらないところがうらめしい。

好きなように生きるには、努力と蓄積が必要であり、“一から出直す”には人生の残り時間が短い。とはいえ、何もなさないとしたら長すぎる。

1年前、米ワシントン大のグループが、脳を(構造や働きによって)180の領域に分けた「地図」を作製したと、英科学誌ネイチャーに発表した。

MRI(磁気共鳴画像)を使い、健康な男女210人の脳について、構造や神経のつながり方、刺激を与えた時や休んでいる時の血流の変化などを、複数の解析法で詳細に調べたそうだ。

 

1902

 

「どうするの?」と聞かれても、悩ましい判断しかできない人には、AI(人工知能)が手助けをしてくれて、1分で賛否両論を披露してくれるという朗報もあるようだ。

難しい判断を迫られた案件などを質問すると、賛成や反対、それぞれの立場から(理由つきの)意見を語ってくれるAIなのだという。

一昨年に日立製作所が開発し、理論武装を助けるソフトとして実用化をめざしたそうだ。今そのAIは、どのように活躍しているのだろうか。とても興味深い。

ただ、AIの機能は賛成か反対で答え、それぞれの意見を語るまでにとどめるらしい。
賛否の最終判断は人間にまかせるのである。

私の場合、深く考えてもしかたがない、と居直り、一杯飲んで気分転換を図る。
つまり、若いころも今も同じなのである。よくよく考えると、先送りの一番の原因は、酒にあるのかもしれない。ふむ。