日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

いつもと同じに去りゆくナツ

 

ツクツクボウシの鳴き声が、夕暮れ時の蝉時雨に引き立つ。
そのメランコリックな調べに、ゆく夏を感じる。

だいぶ前から、道でひとつ、ふたつと、セミの亡骸を目にする。
声を使い切り、地を這う力も尽きたように見える。

セミに比べると、テントウムシは長生きが上手な昆虫に思えてならない。
真冬でもわが家の周りでよく見かけるからだ。

 

1915

 

<死ぬために ただ死ぬために 蝉生まれ>。
川柳作家・時実新子さんの句である。

小さな虫の、はかない命を愛おしむまなざしなのであろう。
セミの亡骸を見るたび、私も同じことを想う。

虫ひとつが人を感傷に誘う夏は、きっと「いのちの季節」なのだろう。

ずーっと以前から、“からだは借り物”という考え方に興味がある。
この世に生を受け からだを借り受け、その与えられた時間が“寿命”ということになる。

寿命にしても、長寿に恵まれた人だけが知る悲しみもあるそうだ。
からだを健康に保つだけではなく、強いこころも必要となる。
多くの親しい人を、見送る悲しみにも耐えねばならないからだ。

 

1916

 

長寿に至る道だけではなく、至り得た長寿もまた、平坦な場所ではないらしい。
高齢社会は、“多死社会”でもある。

2016年の日本では、年間129.6万人が亡くなり、その数は出生数の98.1万人をはるかに上回る。2030年頃の年間死亡数は、160万人を超すともいわれる。

多くの人が死を意識しながら、(延びた寿命を)生きていくことになるのだろうか。

花の名前に疎くてわからぬが、(炎天に似合う)この時期の花が雨にぬれている。
いつもの年なら名残りの炎暑にあえぐはずが、今日もまた雨だ。

ゆく夏の背中を見送るひまもなく、秋の長雨が待ち構えているのだろうか・・・。