日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

“為す人”達の好奇心と探究心

 

珍しいこと、未知のことなどに興味をもつ心が“好奇心”であるのなら、物事に深い知識を得たり原因を解明しよう、という気持ちのことを“探究心”という。

このふたつのこころは連係が深く、貫く人の意志は強い。

司馬遼太郎さんは中学1年の思い出を『随想集風塵抄』に記した。
英語の授業中、「New York」という地名の意味を先生に質問したが、先生には「地名に意味があるか!」と怒鳴られたのである。

帰り道に市立図書館へ立ち寄り、司書の人に必要な本を出してもらって読むと、英国軍の占領に伴い、英ヨーク公の名を冠したことがわかった。のちの大作家の頼もしいエピソードだ。

 

1919

 

1992年、オリックスでプロデビューを果たしたイチロー選手は、打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得した。

一軍登場もするが、首脳陣に自身の打法(振り子打法)を批判され、打撃方法を変更するよう要求されるが拒否。一軍に定着することはなかった。

「選球眼ならかんたん。でも、頭で判断すると打てなくなる」とイチロー選手は言った。
<選球眼より選球体>との名言も残している。

頭で“打てない”と考えても、体の反応でボール球も見事に打ち返したイチロー選手は<打率より安打数>とも言い続けている。

打率は減るから、打席を逃げたくなる気持ちが生じかねない。安打数なら増えるだけなので、楽しさを感じて打席に入りたくなる、のだと。

イチロー選手の安打確率は、頭より体が最優先だったようだ。

 

1920

 

さて、相撲のもつ独特の美と醍醐味はここにある。

大相撲のように2人の力士が呼吸を合わせ、競技者同士の合意で試合をはじめる例はまれで、すばらしいことらしい。

格闘技は、審判が合図をしたりゴングが鳴ったりと、第三者の手で試合の開始を告げられるのが普通であるからだ。

昔の相撲は名勝負もあるが、寄り切りでの決着が多かった。
その流れの変化は、小錦、曙、武蔵丸など外国人力士の登場であった。

上位力士たちを擁する大部屋の若・貴に対して、外国人力士たちとの取組は(同部屋対決がない分、若・貴が有利だったが)、日本人VS外国人という図式に拍車をかけた。

数年後、朝青龍の登場でモンゴル勢の活躍が始まり、多彩な技と動きに変わる。
そして白鵬が大記録を塗り替えて、今も君臨している。

現在、ひとつ失われたものがあることを強く感じる。それは「立ち合いの間の悪さ」だ。その美しさが削がれることで、取組内容の良さが半減してしまうからだ。

力士どうしが呼吸を合わせるという感覚は、外国力士に理解しにくいのではないか。対戦相手との共同作業ではじまる異色の競技は、抑えたものを立ち合い後の一瞬に爆発させる。この流れの美学を白鵬にぜひ伝えてもらいたい。

相撲への好奇心と探究心は現役の日本力士や親方を上回り、知識も豊富だ。
若手力士にも、「立ち合いの美しさ」の意味を伝えられるのは白鵬以外にはいない、と感じている。