日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

世間とは学ぶことが多き場所

 

<数字はうそをつかないが、うそつきが数字を使う>。アメリカの経済学者・ランズバーグの言葉らしい。100歳になったら、もう大丈夫。全人口の中で100歳を超えて死ぬ人はごくわずかしかいない・・・から。← こんなジョークもあった。

統計数字を権力者が利用すれば、だまされた気分も倍増する。十何年も前から不正調査の数字が使われていたという厚生労働省の毎月勤労統計の不正調査などは、記憶に新しい。堂々と“数字のうそ”がまかり通っていたのだ。

“重厚”と尊び、“軽薄”と蔑(さげす)んだものが一緒になり、わずかな共通点だけで概括される、と三島由紀夫さんは書いた。

そして、現代という時代の住人は、やがて一つの時代思潮の中へと組み込まれる。もう百年もたてば・・・とも。

 

 

16世紀のフランスの思想家・モンテーニュは著書『随想録』の中で、“詰め込み教育”を批判した。詰め込み教育ゆとり教育というスイッチを切り替えながら、両方とも学ぶ必要があるようだ。

ひたすら記憶をいっぱいにしようとだけ努め、理解力や良心などはからっぽのままほうっておく。そんな知識偏重から思考力や判断力を問う方向への転換ということで、大学入試センター試験も変わるのかも知れないが。

プロの将棋の棋士は、対局終了後に行われる感想戦で一手一手を記憶している。どんな頭脳の持ち主かと思う人々なのである。(記憶だけでなく)知識は大事だ。羽生善治さんは自らの著書に記した。プロになって1年で<やっと考えることと知識がかみ合い始めた>という。

 

 

教師がいれば、反面教師もいる。学ぶことの多い場所が世間である。チャーミングな人は得てして相反しそうなものを併せ備えるものらしい。

<まず、声がいい。失礼ながら、あの顔で、声だけ二枚目というのが、当時は面白かった>。作家・小林信彦さんは、のちに「寅さん」役で大俳優となる渥美清さんをそう評した。

小林さんと渥美さんは若い頃からの知り合いだったらしい。食事の席などで、渥美さんの何げない話がとても人を引きつけたという。そして、その魅力こそが声と見かけとのギャップではなかったか・・・と。

ガリレオが自作の望遠鏡で初の天体観測をしてから、今年で411年になる。「時空」とひとくくりに言っても、ガリレオ以降の人間は、はるか遠くの星群をも見ることができる目を携えたのに、ほんの1分先どころか3秒先も見ることができない。

親しみを増す“空”と、よそよそしい“時”という2つのギャップ。それが胸に交わるからこそ、摩訶不思議なのであろう。