1年のうちにある「ないまぜ」
すでに立秋は過ぎても、子どもの頃の習性か。淋しさと明日への緊張が、ないまぜになる一日がある。たとえば12月31日、3月31日、8月31日・・・と。
うちの近くの小学校は8月26日で夏休みも終わったが、私にとって8月31日と9月1日のちがいは大きい。<8月31日=夏の終わり>だったからだ。
海水浴場の迷子は夕暮れに東の浜で見つかるという。監視員の経験則らしい。不安になると人は太陽に背を向け、西日が砂浜に落とす影を追いながらとぼとぼと歩く。そして東の果てに行きつくそうな。
夏には「良薬口に苦し」みたいな部分もある。なにもつかめないのに暑さに身を置くことで、のみにくくても結果的に服用した人のためになるみたいな感覚なのか。秋になればなんらかの効き目を感じられるかもしれないが、夏にしがみつきたい気持ちは強い。
夏はある意味、“カンフル剤”の要素もある。かつて、カンフルは精製した樟脳(しょうのう)液で、強心剤として盛んに用いられた。暑さという枷が一時的なカンフル剤にはなるが、涼しくなれば情熱が消え失せて、息長く押し上げることは期待できない。
自分はシャツの裾をズボンに入れると教わった世代だが、1990年代に“入れない派”が拡大した。近年は入れる方が少数派だ。
カリブ・スペイン語の「コティスエルト」とは、シャツの裾を絶対ズボンの中に入れようとしない男の人という意味らしい。<人生も着るものもリラックス>という前向きの言葉だという。
ある中学校の先生がおもしろい実験を行ったという。体操着の裾を入れた生徒と入れない生徒に運動してもらい、その後の体温を調べた。その結果、裾を入れない生徒の体温の方が4度低かったとのこと。
今の酷暑はかつての夏とは暑さの質がちがう。それでも、アナログのアイデアでの対応が可能である。知恵を絞ることの大切さを忘れてはいけない。
過ぎゆく夏のイメージといえば、(私の場合)幼い子どもが描くクレヨン画の(夏の)風景である。9月になると、そういう絵をたくさん見たくなる。
“クレヨン”という言葉はフランス語で、鉛筆や木炭など、固形の描画材料の総称だったという。顔料と蝋などを混ぜて作るクレヨンは、アメリカで1903年に黒、赤、青、緑などの8色入りが発売された。
当時のアメリカは油田開発が活発で、石油精製で大量に生じる蝋を有効活用した。それが日本へ大正初期に米国から輸入され、1920年代には国内に多くの製造業者が誕生したのだ。
日本で独自に油などを加えて軟らかくした製品が開発されると、急速に普及。大正時代、日本の教育界では、それまでの模写中心に代わり、思うままに描かせる“自由画”が提唱され、手軽で描きやすいクレヨンは、子どもの教材にぴったりだと注目された。
夏という季節は子どもに戻れるのかもしれない。そして、子どもが見たままの素直な夏はクレヨンで残すのが一番である。
今週のお題「わたしの自由研究」