どちらにも強みと弱みがあり
営業関係の仕事が長いせいか、関西弁のイントネーションは仕事に役立つと常々思っている。挨拶ひとつでも和やかになるからである。
それでも、一瞬意味がわからないこともあった。
関西出身の人と仕事をしていたときである。
「だいじょうぶか? 自分」と声をかけられた。
仕事でこちらがパニックになっていたときだった。
忙しいのはこちらなのに、なんで自分? と、考えてしまった。
慣れてから理解した。
どうやら“自分”は二人称(あなた)のことらしい。
一人称から二人称に転じる使い方は、他にも“われ”や“おんどれ”もあるが、“自分”の方が優しさを感じられる。
関東ではそのあたりの理解度がどれほどなのかわからぬが、誤解をまねくこともあるだろう。また、関東の言葉は“馴れ馴れしさ”に一線を置くようなところもありそうだ。
野球ファンいわく「サッカーはなかなか点が入らない」。サッカーファンは「野球の試合こそ間延びしている」とぼやく。この二つの球技の違いを考えることもよくある。
経営学者のピーター・ドラッカーさんは、その違いを企業組織のあり方にあてはめて考察したという。
野球型は打順や守備位置が固定された分業体制であり、選手は打席やマウンドで個人技を求められる。
サッカー型にもポジションはあるが、状況に応じて変化する。ディフェンスが前線の攻撃に参加するなど、機動性や協調性が大切になってくる。
ドラッカーさんの見解では、<どちらにも強みと弱みがあり、一方が正しいというわけではない>そうだ。
携帯電話が便利で、あたりまえに使っている。
昔ながらの固定電話や公衆電話の出番も減っていることだろう。
電話は<出ることを強制して、他人のプライベートにずかずか入りこんでくる>。
こんなメディアは電話だけだとか。
ケータイなどは、応答しないと相手に「拒絶された」と思われてしまうだろうし。
小説家、俳優、ラッパーなどマルチに活躍する いとうせいこうさんの小説に『我々の恋愛』がある。
<1994年3月、間違い電話をきっかけに若い男女が受話器越しに沈黙の交流を始める。やがて青年が語り出し、娘は耳をそばだて、恋が育まれる・・・>。
そんな平凡な恋愛こそが20世紀を代表する恋愛なのだという。
そして、“我々の恋愛”として記憶されていく。
電話は大きな意味を持つ“小道具”なのだという。
家族の目を気にしながら固定電話の受話器を握りしめ、2人の“密室”を築き上げられたあの時代は終わりを告げた。電話が濃密な1対1の関係を築いた時代は過ぎ去ったのである。
かんたんに電話ができて、ネット上のやりとりが他人にのぞかれる世の中では、電話というメディアも人間関係も大きく変わっている。
<2人だけの“密室”で、濃密な1対1の関係を築けた時代>は、不便ではあったが熱く懐かしい時間が保てた時期でもあった。