日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

メッキの下に隠れているもの


サッカーのアーセン・ベンゲル監督は名古屋グランパス監督も務め、1996年10月から2018年5月という長期で英プレミアリーグアーセナルを率いた監督である。

<監督業をしていれば、何の苦労もなく日々を過ごすのは不可能。喜びに舞い上がることもあれば、恐ろしく落ち込むこともある。サッカーへの愛を失うことなく失望に対処する方法を身につけねばならない>と、数々の名言でも知られる。

<代表監督はマゾヒストでなければ務まらない。結果は重要なのでない、結果がすべてなのだ>とも語った。たしかに、日本代表の監督でも、結果が出ないとかんたんにお払い箱になる場面を見ている。

政権が即刻吹っ飛んでもおかしくない不祥事のオンパレード。安倍政権の命運は支持率次第といわれ、(ここまでの事態なら)危険水域とされる2割台に下がってもおかしくないのに、どうしてまだ4割以上あるのか不思議だ .

 

 

仕事の関係で、与党の集まりに年配者が押しかけるのは見ていたが、安倍政権は若い人の支持も高いらしい。雇用状況の改善など国全体の経済が良くなっているという認識なのか、リーダーを代えるリスクの方を恐れているとも。

忖度、虚偽、隠蔽、改ざん、口裏合わせ、財務省でたらめ目録、失言、暴言・・・。書き出せば、切りがない。

昨年の件でも、起きた不祥事は行政側が勝手に忖度したのであり、安倍首相の問題とは思っていない人が少なくないようだ。世論も飼いならされてしまっているのか、あまりにも異常なことが起き過ぎて、本来許容すべき事態ではないのに“うやむや”な結果ですませてしまう。

官僚が勝手にやったのならそれこそ大問題で、内閣が無能ということになるし、内閣の責任は免れないはずなのに。

 

 

不祥事も何度か続くと、そのショックがだんだん軽減されていく。それを「麻酔的作用」というらしい。昨年の調査で、安倍政権を“非常に支持”する人は5.9%にすぎず、“ある程度支持”が34.1%という数字であった。

“ある程度”の人たちが不支持へ動く可能性はあっても、野党の不支持がそれを上回るため空回りである。せいぜいが、<王様は裸だ>と安倍政権を支持する人たちに対して喚起し続けるしかない。

男性の受け継いできた職業が花柳界にもあるそうな。芸者や鳴り物とともに座敷にあがる「幇間」(太鼓持ち)である。

客の機嫌をとり、席のもてなしをするのが仕事で、その昔東京に(政財界人が贔屓にした)桜川忠七さんという名物男がいたらしい。桜川さんはこう言っていた。<バカのメッキをした利口者でないとなれない職業なんです>。

客の政財界人は優秀な人の集まりのはずだが、バカのメッキがよく目立つ。その中身が利口者であればいいのだが、その結果は・・・。サッカーの監督の如く、かんたんにお払い箱にされないところがもどかしい。

 

なくてはならぬこの名コンビ

 

いろいろな分野で使われているQRコード。それは生産技術として、1994年にトヨタグループの「日本電装(当時)」が開発したものだという。つまり日本製だったのである。

かんばん方式”で(在庫を持たない)生産管理をするトヨタは、書類の代わりにQRコードを使おうと考えた。

横方向に情報を格納するバーコードに対し、QRコードは縦横に格納できるのでたくさんの情報を扱える。また、汚れに強く、一部が欠けても情報を読み取ることができるとのこと。

今ではスマートフォンなどで読み取り、インターネットにつなげて様々な情報を得ることができるスグレモノでもある。

 

 

IT活用で社会をどう変えるか。そこでQRコードに注目したのが、システム工学者の石井威望さんである。

<紙の本にすごい可能性を与える技術だと思います。本とは何なのかを問いかけ、将来の本の姿を考えるきっかけにもなります>。紙の本には限界がある、と石井さん。

文章、写真、図で説明を尽くしても伝わらないことがあるため、テレビのような動画を見せれば、分かりやすくなる可能性が出てくる。仮に、小型無人機“ドローン”が出るページにQRコードをつける。それを読み込ませると、ドローンを操縦している動画につながるという具合にである。

今や、多くの人がスマートフォンタブレット型端末を使っている。QRコードを使う環境が整備された時代だからこそあらゆる可能性が広がるのだ。

 

 

読み取り端末を用意する必要がなく、スマホで読み取って決済できるため脱現金化として世界へ浸透することも・・・。

徹底的に活用しているのが中国のようだ。中国では様々なものにQRコードをつけ、現金でなくスマートフォンで決済するようになってきている。以前見たテレビでは、屋台の店までQRコードの紙を貼り付け、客がスマホをかざして飲食をしていた。

キャッシュレスでモノやサービスの対価を支払う決済比率は、韓国が89%で中国60%、米国は45%とのこと。ちなみに日本は18%である。

韓国では小さな店や食堂でも、現金のやり取りをほとんど見かけないといわれる。日本の場合、(中国に比べて)QRコード決済事業者にまとまりがなく、使える店等の共通性がなさすぎるのが低比率の要因にも思える。客からみれば、すべての店で使えることがなによりである。

急増する訪日外国人客の買い物需要などもキャッシュレス化への加速になるはずだが、どこまで対応できるかの勝負である。

そして、インターネット接続の車やキャッシュレス化で、なくてはならぬものがスマホである。端末やデバイスという役割だけでなく、スマホは正真正銘のスーパーコンピューターになってくる

企業側にもキャッシュレス化の利益がある。情報を登録すれば利用できて初期費用が少ない。店で現金を扱わなくなることで、釣り銭の準備や売上金の入金といった作業がなくなり、従業員の省力化が図れるからだ。

 

目借時には野球観戦心地よし

 

春の陽気についうとうとする眠気を目借時(めかりどき)という。この時期の季語で、カエルが人の目を借りにくるから・・・との俗説もあるそうな。私もこの春は仕事の時間が切り替わるため、夕方あたりにうとうとすることがある。

眠りの貸借といえば、“睡眠負債”という言葉が以前に流行った。日々のわずかな睡眠不足が借金のようにたまるという話だった。脳の働きを大幅に低下させるばかりか、がんや認知症のリスクまで高めることもあるとか。

先日は、開幕を迎えたプロ野球をテレビ観戦しながら、うとうとしていた。相撲やプロレスだと目が冴えてくるのだが、プロ野球の間合いが私の睡眠を誘う。

刺、盗、死、殺・・・など、殺伐とした文字が多い野球用語もある。反面、安、生、敬という響きの良いものも少しはあるようだ。“敬遠”とは「敬して遠ざく」と読み、相手を敬いながら、むやみになれなれしくしないこと・・・なのらしい。

 

 

申告敬遠により、敬遠数は劇的に増加したという。2018年、各球団の故意四球の比較数では、9球団が過去5年間で最多を記録している。12球団の総数は285個で、過去5年で最小だった2017年の90個と比較すると、その数は3倍以上にもなる。

2017年から18年で監督が変わった球団は3チームしかなく、大きな戦術の変化があったとは考えにくい。その増加要因は申告敬遠の導入による影響が、大きいのではないだろうか。

あと、判定に異議がある場合、監督がリプレー検証を求める「リクエスト制度」も導入された。昨季は494件(セ251、パ243)が実施され、32.8%にあたる162件で判定が変更された。

9回で終了した試合の平均時間は、前年より5分長い3時間13分。延長も含めた場合も5分長い3時間18分だった。

 

 

豊田泰光さんが、現役時代の昭和36年に初めてハワイに行ったとき、現地では広島出身の日系人に世話になったという。<どこ遊びよるん>。豊田さんが野球選手と知ると、広島弁でポジションを聞いてきた。“遊び”が“プレー”の直訳だとわかり、豊田さんはこれこそ<野球の原点!>と納得した。

そもそも、野球とはどんなスポーツだったか。遊びなのだから、好きなポジションを選べばいい。投げるのも打つのも好きなら、投手と打者の“二刀流”でかまわない。大谷選手は野球の原点に近づいているような気にもさせられる。イチロー選手もそうだった。走・攻・守でのスピード感や躍動感。数々の名場面は何度見ても飽きない。

高校野球で熱くさせられるのは、一敗もできない状況で、テンポある試合の流れ。時間があれば何試合でも見て、うとうとする暇もない。

さて<春眠暁を覚えず>も、あまり寝すぎるのは問題らしい。真っ暗な環境で通常より2時間以上寝過ごす人は、睡眠負債があると思った方がいいという。まどろむ春の快楽にも、おちおち身をまかせていられぬようだ。

 

便利さの呼び込む低いレベル

 

90億光年離れたところにある星の観測に成功。東京大などの国際研究チームが発表したのは1年前であった。

2015年、研究チームはハッブル宇宙望遠鏡で、90億光年離れた銀河に輝く天体を見つけたが、一つの星として観測できたものでは最も遠いとのこと。

その巨星は「イカロス」と名付けられ、大きさは推定で太陽の直径の約200倍。100億光年より遠くで、(多くの星が集まる)銀河や超新星爆発などの現象を観測されてきたが、単体の星では出す光が極めて弱く、観測が難しかったそうだ。

その成果は、イギリスの科学誌にも掲載された。

 

 

小さな誤解が23年後の2002年、小柴昌俊さんにノーベル物理学賞をもたらしたという。宇宙から飛来する素粒子ニュートリノ”を検出するため、微弱な光を電気信号に変える役目を果たすこの会社の光電子増倍管が欠かせなかった。

電子機器メーカー、浜松ホトニクスの晝馬輝夫社長(当時)は当初、小柴東大教授の注文を断るつもりだったそうな。小柴さんは口径20インチを求めていたが、それは当時最大の5インチに比べて破格の大きさであった。しかも、“金はない”とのこと。

気が変わるきっかけは、小柴さんの研究室に入ったときのこと。毎朝、聖書を読む習慣の晝馬さんは、壁に掛かっていた宗教画を見た。

現代科学のバックボーンはキリスト教だと、信じていた晝馬さん。<先生も神のみぞ知る絶対真理を追い求めている>と共感した。

その絵は、小柴さんが海外旅行中に、気に入って購入した絵にすぎなかったらしいのだが・・・。

 

 

3世紀余前のこと。1701年の4月21日午前に、松の廊下(江戸城)にて儀式や接待をつかさどる吉良上野介赤穂藩の主・浅野内匠頭が切りつけた。取り押さえられた内匠頭は、幕府からその日のうちに切腹を命ぜられた。

家臣2人が殿中での刃傷ざたの一報を国元に伝えた。現在の兵庫県までは約620キロの道のりであった。その走破は6人がかりの早かごを宿場ごとにかえ、4日半を要した。そして、<殿、切腹>の第二報もその半日後にもたらされた。

身命を賭して揺られながら疲れ果てた姿で語る、真に迫ったその内容に疑いを持つ者はいなかったであろう。

現在、情報の伝わるスピードや量はその時代と次元が異なる。個人が手のひらで受発信できることから、電話、メール、SNSなどを駆使した詐欺情報も増える一方。フェイクニュースや誤った情報が公然とちまたに流れ、またたく間に広がる例も格段に増えた。

大国の某大統領も、地球規模の危険を孕む言葉を平気でツイッターに乗せて発信している。広大な宇宙の中の地球では、便利さが増せば増すほど稚拙さが露呈しているような気がしてならない。

 

短所の修正より長所を活かす

 

「令和」を初めて聞いたとき、私は“いいな”と感じた。「平成」のときはなにかピンとこなくて、“自分は「昭和」の人間だから”という意識が強かった。それは今も変わらない。“好き嫌い”は人それぞれであるが。

昭和の戦後に誕生した(初の名人として)将棋史に名を残す塚田正夫さんは、無口で“えらぶらない人”だったらしい。<勝つことはえらいことだ>。ファンから一筆せがまれるときの一文は拍子抜けするくらいに気取りがなかった。

私は、ひょうひょうとした人物が好きだ。塚田さんは一つの白星をあげるために、いかなる苦労をしてきたことだろうか。その一文はなによりも“自分へのほうびの言葉”であった。

平成に生まれた最年長者は今年で30歳という計算だろうか。元号が変わることより早く、この4月に社会人デビューした若者たちのほとんどは、平成生まれのようだ。

 

 

固定電話で見ず知らずの相手と話した経験のないスマホ世代は、電話応対の基本を習っても、失敗が怖くて電話に出たくない・・・などと揶揄されるのもこの時期か。

固定電話のやりとりでクレームもさんざん受けてきた経験がある。しかし、近年は固定電話が使いにくく感じてしかたがない。

パソコンが苦手な若者も、今のスマホ世代には少なくない・・・と。しかし、肝心な作業はパソコンがないとできない私から見れば、スマホを(パソコン以上)器用にこなす若者たちがうらやましい。アンドロイドの初代機からスマホを使っているが、電話をかけたりLINE利用もモタモタしている。

物は考えようで、“居直る”ことも大切だろう。スマホを使いこなす技術からみれば、固定電話もパソコンもどうってことない。慣れれば勝ちである。それよりも、プロデュース能力を高めるような意識を持つことが大事だと思う。さまざまな専門家を集めて(トータルで)大きな仕事をする場合、その価値はますます高まるはず。

 

 

人が左に行くといえば、右に行くような“あまのじゃく”も欠かせない存在である。人とは違った目でものを見て、異なる判断を下すことができる能力が身につくからだ。そして、目的とは別のものを発見するように心がけることも大切。

“なにかのついで”ということを意識していると、情報収集も効率的になる。一石二鳥が何鳥にもなる可能性が出てくる。

行きつけの居酒屋などでは、さまざまな企業、業種の人と知り合えたら楽しいはず。それも、できるだけ自分とは異質の人とつき合うことが、なにかのチャンスになるかも・・だ。

なにごとも、100%完璧を目指せば無理も生じ、エネルギーが多く必要となる。最低の許容ラインを前もって70%達成などと決めておけば、効率的に最高の結果を得ることもある。まずは、自分の得意分野をどんどん伸ばすことがいいようだ。

 

 

今週のお題「桜」

ブログのエッセンスを顧みて

 

ブログを始めて今年で9年。ずっと暗中模索である。その前は、(インターネット創生期の産物であった)メーリングリスト(ML)の書き込みを18年。オーナーとして16年弱続けてきた。多くの人と出会い、ネット以外にも飲んで遊んだ。

そこでは返信(レス)モードの短文が中心で、長い文章を書くことに苦手意識を持った。その克服のために100編のエッセイを書きたいと考えた。下書きにでもなれば・・・と、ブログを始めた。

まず、わかりやすい文章を書こうと考えた。読む側の目線で、よい文章の条件とは“わかりやすい”こと。自分で何を言いたいのかがわかっていれば、難しい言葉を使わなくてもわかりやすく平易な文章が書けるはずだ。

 

 

週一のペースで続けて、エントリ数が100になった。目標は終わったが、その時期にカメラを手に入れた。好きな写真でも残せれば、とブログの方向転換を試みた。

写真を4分割に貼り分けると、上下の5列に写真の説明分を書くだけ。それぞれ2行もあれば書けるのでたった10行ですむ。

たまにコメントをいただいた。アップした写真のことだけかと思いきや、文章の内容についても書いていただいた。写真の説明だけのつもりだったのにふしぎだった。それがきっかけで、写真と本文の主従関係が入れ替わった。

人の目につくところに書くのだから、読まれることは意識している。書く内容に関して、アイデアが閃いたら実行(文章)に移す。アイデアはちょっとした思いつき。ふとした思いつきは誰にでもある。思いつきを実行に移すか、そのままにしてしまうかが、分かれ目である。

読まれることのアウトプットが先で、インプットの文章を逆算して書く。私自身、読まれること(可能性)がなければ、サボッて書かなくなるのがわかっている。アウトプットを前提としたインプットは強いのである。

 

 

クォリティが高い記事かどうかは、読む人が決めること。それを気にしていたら前に進めない。読む人が、そうそう・・と思わず納得してしまう内容を書けたらうれしいが、ウケ狙いが見えたら面白味がなくなってくる。読んで、なんの衒(てら)いもないお話に接すると、我がことのように感じて共感できる。

ネットの一般化以前は、情報を得るために書店や古書店、図書館へ出向いたり、百科事典や辞書を活用していた。インターネットでかんたんに情報が得られる時代は、そこが落とし穴にもなりかねない。

自分の足で情報を得る経験があると、その情報の真実性や鮮度を見抜く感覚が養われて、インターネットにもその感覚が活きるはず。書き手が、人のためになるように・・・などというのもおこがましい。逆に、「教えて下さい」くらいに委ねた方が、読者の気持ちをくすぐるのでは。

ブログのネタに頭を悩ますこともある。料理に喩えて、食材であるネタ元がわからないくらいに調理できるのが理想であるが、自分はまだまだ未熟である。

 

 

今週のお題「桜」

長い花見の時代もあったとか

 

明治33年(1900年)、ソメイヨシノが(学術的に)桜の新種として認められたらしい。

それまでの花見ではどのように桜を鑑賞していたのだろうか。作家・藤井青銅さんによれば、昔の桜の名所は、“群桜(むれざくら)”だったという。

エドヒガン、ヤマザクラオオシマザクラなどの種が、いっしょに同じ所に植えられた。そのため、咲く時期や色彩が異なり1ヶ月間に渡ってのんびり楽しむのが元来の花見であった・・とのこと。

ソメイヨシノは見頃が1週間続くかどうかである。年に一度の花見だけにせきたてられる気持ちになり、否が応でも盛り上げられてしまうのだ。

 

 

3月27日のこと。東京都足立区千住曙町の荒川に停泊中の屋形船から出火、同船が全焼したという。燃えたのは約80人乗りの屋形船で、花見客ら20数人を乗せて出航する予定であった。

屋形船に乗っていた従業員は「芋の天ぷらを調理中に火を消し忘れ、休憩に入ってしまった」と説明した。調理などの準備を船内で天ぷらを調理中、油に引火したようだ。(たった一週間のための)花見の準備もたいへんなことで、危険が伴うようだ。

<逝く空に桜の花があれば佳(よ)し>。国民的歌手といわれた三波春夫さんの句である。2001年4月14日に77歳で死去した。

この方を“演歌歌手”と一括りにはできないだろう。前回の東京オリンピック大阪万博のテーマソングを歌い上げ、国民を大いに盛り上げた歌手である。幅広いジャンルの楽曲を明るく伝え、楽しませてくれた。

 


昭和の時代は“歌謡曲”と呼ばれ国民に親しまれたが、当時の若者達が自分で歌を作りそれを歌い始めて、歌謡曲との名称は廃れていった。そして、既存の作曲家、作詞家の楽曲を歌う歌手たちは、“演歌”というジャンルに封じ込められた形になっていく。

本来の歌謡曲が復活すればいいのに、といつも思う。年輩者が集うカラオケスナックでは、昭和の歌謡曲が響き渡り、ときには合唱している。当時に生まれていない若者も見事に歌いこなしていておどろく。

三波春夫さんの歌がテレビで放送されることは少なくなったが、流行する歌の移り変わりは社会の空気の変化と関連するようだ。

<春の人けふの泊りを思はざる>(零雨)。春には旅気分にさせられる。一杯飲みながらの列車旅も格別だ。陽気に誘われて足の向くまま、気の向くままのドライブもいい。そのときは、歌謡曲を口ずさんでいるかもしれないが。

 

ウソの裏にある大胆な大雑把

 

<さまざまの事おもひ出す桜かな>。松尾芭蕉の句である。人が桜に惹かれるのは、眺める度にうれしかったり悲しかったりする。そして、共に刻んだ記憶がよみがえるから・・・と。

3分咲きや5分咲きと、桜の開花を数値化するのは、本来 無理な話らしい。木は1本ごとに異なり、見る人の感じ方も様々なのである。自分も、それ咲いた、と鵜呑みにして右往左往した経験がある。

以前、日本年金機構が委託した業者のデータ入力で約95万2000人分にミスがあり、入力漏れの約8万4000人分で過少支給が判明。この問題はもう解決したのだろうか。

まさかスキャナーで読み取っているとは知らず、見逃してきた機構のチェックの甘さとずさんな業務管理に、厚生労働省幹部もあきれた・・・と言っていた。

 

 

2人1組で手入力をする本来の入力方法のはずが、スキャナーで紙のデータを読み取っていた。主なミスの原因は業者の契約に反した入力にあり、機械が誤認識した漢字などと、配偶者の所得区分を示す丸印も誤って認識された。

実にずさんな話である。委託先に問題があるといえども、処理現場の視察が全くされていなかったことが露呈。責任逃れなどできぬはず。

昨年は、ある地方の信用組合で、支店勤務の女性職員が、計4743万6000円を着服していた。同信組は元職員を懲戒解雇したというが、支店名や元職員の年齢を明らかにせず、警察への被害届も出していなかった。まさに「くさいモノにはなんとか」だ。

その職員は窓口業務などを担当し、金庫からの現金出し入れの責任者だった。2004年10月~17年12月の間、月に1回程度で金庫内の1万円の札束の中を千円札に入れ替え、500円硬貨の袋の中身を10円硬貨に入れ替えて着服をした。

金庫内の現金は他の職員が定期的に検査するはずだが、札束や硬貨の袋をきちんと確認していなかったという。

 

 

ウソをつくと鼻の周囲の体温が上がるという研究論文もある。それは“ピノキオ効果”と呼ばれ、ウソの説明をするほど“言葉数が増える”との調査結果であった。

疑われまいと必死で、過剰に乱暴な言葉づかいになることもある。余裕がないと表現にまで気が回らず、“それ”とか“その人物”などの三人称代名詞が多用されたりもする。なんとか自分との距離をあけて、関係の薄さを強調したくてたまらないからだ。

歌人穂村弘さんは桜の花が咲きそうになると、“変に焦る”らしい。焦る理由として、<いつ、桜を見たらいいのか分からない>、<どうせ見るのなら「最高の桜」を見たい>。

そんな気持ちが強くなり、いつがいいだろう、などと迷っているうちに、時間がどんどん過ぎてしまう。そしてその結果、<ちゃんと桜を見ないままに春が終わってしまう>のである。

三分でも五分でも、散り際でもそれぞれの良さがある。桜はウソをつかないので、見に行けばきっとその時が最高の“今”になるだろう。

 

春なのに気になるのは脳の話

 

明治時代に来日した米国の女性旅行家エライザ・ルアマー シッドモアさんの著書『日本・人力車旅情』は今なお読み継がれているらしい。

<桜のつぼみが顔を出し、膨らみ、徐々に花開く、これは一般大衆の主要な関心事である。だから地元紙は、開花予想など桜の名所からの速報を毎日つたえる>。

花が咲くという当たり前の自然現象が、報道の対象になるなど他ではありえない・・・と。今も、桜の開花情報が大きなニュースになる日本の春におどろく外国人はいるだろう。

老若男女や身分の違いを超え、江戸の昔から春らんまんを等しく分かち合う花見。その季節がやってきた。

 

 

日本は四季にメリハリがある。その“春・夏・秋・冬”は人生に喩えられることも多い。“青春”などの言葉のイメージで、人生のスタートが春に置き換えられることがある。

成人の年代をむかえて自分は「まだまだ若い」と感じるか、「もういい歳になった」と感じるか。私は常に後者の“もう・・・”である。

その意識は30代になっても、40代になってもまったく同じ。70代、80代になっても、自分の人生の時間経過の早さにおどろかされるはず。それは、脳の錯覚なのだろうか。

自分の一番若い日といえば今日の「今」である。オギャー!と産声をあげてから、今日にいたるまでいくつになっても、「自分の一番若い日」は「今日の“今”」の連続に他ならない。歳を重ねるたびに子どもと大人の境目が、いつなのかわからなくなる。

 

 

脳の細胞の数は約140億で、赤ちゃんも大人も同じらしい。からだの細胞は新陳代謝を繰り返すが、脳は25歳を頂点として毎日10万の細胞が失われるそうな。

からだに流れる血液量は1分で5~6リットル。1時間ではなんと風呂桶一杯分にもなる。(毛細血管も含めた)血管をつなげると長さが地球を2周半とのこと。

そして、脳の労働量はすごい。脳の重量が体重の1~2%に対して、脳に使用する血液量は20%なのである。脳の使用率はたったの3%で、97%が潜在脳ともいわれる。それ以上の使用では血液の供給が追いつかないからなのだろうか。

脳は、「爬虫類脳・哺乳類脳・霊長類脳」の3層構造になっているという。左脳は自分脳で(生まれてからの)自分だけの人生の歴史を認識するらしいが、右脳は先祖脳であり自分脳の10万倍の(人類祖先の)歴史を司る。

左脳の自分だけの人生体験に対して、先祖脳の右脳は神秘的な宝庫なのである。そうなると人の一生がどんどん短く感じて、死ぬまで大人になりきれないままなのではないのか・・・と思えるようにもなってくる。

 

人の意識と思い込みについて

 

刑事コロンボ』の主役として知られる米国の名優ピーター・フォークさんが、亡くなる前にアルツハイマー症候群が進行し、自身がコロンボを演じたことも忘れてしまっていたという。

人間の意識や思い込みについて、考えることがよくある。思い込みについては、年齢に関係なくついてまわるものだ。

サザンオールスターズがデビューした時、私は彼らをコミックバンドだと思い込んでいた。デビューの『勝手にシンドバッド』という曲名からして、当時のヒット曲名を2つパクり、組合せたものだった。ステージではラテンタッチな演奏の中、桑田佳祐さんがジョギングパンツとランニングで駆け回っていた。

いとしのエリー』というバラードをヒットさせたが、それは冗談かシャレだろうと思った。今も私の頭の中で、サザンはコミックバンドであり続けている。

昨年大晦日、紅白の最後のシーンなど、まさしくその真骨頂を見た気分であった。

 

 

地理での高さは標高と呼ばれる。平均海水面の高さを基準とした標高は海抜で、任意の2地点をとった場合、両地点の標高の差を比高というらしい。

東京スカイツリーは、全高(尖塔高)634mである。東京の観光名所として長年君臨していた東京タワーの高さは、すっかりおなじみの333m。スカイツリーは東京タワーより301mも高くなっている。

日光東照宮周辺の標高は634mで、スカイツリーとほぼ同じ高さとのこと。一昨年の秋に行き、その看板を見ておどろいた。そこから、いろは坂を抜けて華厳の滝中禅寺湖へ向かった。中禅寺湖の水面標高は、その2倍である1269mなのだという。あの大きな湖がそんな高いところに浮かんでいることを知り、2度目のビックリであった。

山の上にあると思えば納得もできるが、スカイツリーの前に立ち、ツリー2本を積み上げた高さに、大きな湖が存在することは(頭で)結びつきにくい。

 

 

数年前にカルロス・クライバーさん指揮のコンサートを衛星放送で見た。その指揮のすばらしさで、瞬時に魅了されてしまった。

その表現力は、手話を越えた体話みたいである。すてきな笑顔とからだの動きで、演奏者たちを楽しく導く。そして、演奏を指示しながら自らも観客として楽しんでいるようにも感じた。指揮者は第1番目の観客なのかもしれない。

カルロス・クライバーさんの世界は格別であった。テレビ画面に映るその姿で、演奏者も観客も、そして(時空を超えて)視聴する者も一体化して戯れられる。

アンコールの定番『ラデツキー行進曲』では、観客に向かって拍手で参加させる。

そのテンポや強弱、指揮のうまさで、拍手が楽器へとなり名演奏をしているような気分にさせられる。まるで、催眠術にかかったように・・・だ。

<仏作って魂入れず>。立派な仏像を作っても、肝心な魂が入っていなければどうしようもない、という言葉である。魂を入れることに長けた人間もこの世に存在したらしい。