日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

野心が大事と言っていた役者

 

ずっと好きな俳優である。原田芳雄さん。映画やドラマでたくさん楽しませてもらい、異色といわれる役者さんとの交流関係も多彩でおもしろかった。

面倒見の良さは有名で、無名の新人も原田さんから教わることが多かった。デビューした松田優作さんも、原田さんの影響を受けているとすぐに感じた。ふたりは“高倉健さんを喰う”がテーマみたいな話もしていた。

『君よ憤怒の河を渡れ』で原田さん。『ブラックレイン』では松田さん。高倉健さんと共演して、強烈なインパクトを残している。『ブラックレイン』の完成後に松田さんは若くして亡くなったが、葬儀で松田優作さんの棺桶を先頭で持つ原田芳雄さんの姿が忘れられない。

“原田居酒屋”と名付け、ご自宅を役者仲間たちに開放して、お酒を飲みながら語り合える場として提供していたという。原田さんが仕事でいないときも、仲間のだれかが飲みに来ている・・・とも。

 

 

昔のテレビドラマ『さよなら・今日は』(1973年10~74年3月)で、原田さんの恋のお相手は浅丘ルリ子さん。緒形拳さんと三角関係のような感じだった。そのドラマのラストシーンが印象的なのだ。

砂浜で原田さんと緒形さんは再会するが、言葉を交わさずに煙草の火をつけ合う。男同士のカッコよさで、妙にあこがれてしまったシーンである。

桃井かおりさんと映画の中で歌った『プカプカ』もよかった。その後、桃井さんは人気ドラマ『俺たちの旅』の中でも中村雅俊さんのギターで『プカプカ』をデュエットしていた。

思えば『プカプカ』を初めて聴いたのも、原田さんの歌だった。そして、忘れられないのが原田さんの歌う『横浜ホンキートンク・ブルース』である。今もよくユーチューブで視聴している。

この曲は、1970年代終わり、俳優・藤竜也さんがトム・ウェイツの曲にインスピレーションを受けて歌詞を綴った。それを、原田芳雄さん、松田優作さんなどが歌ったのだ。

 

 

藤竜也さんは一時期、エディ潘さんやデイブ平尾さん、柳ジョージさんなどと、チャイナタウンあたりでよく飲んでいて、「ちょっとしたレストランで仲間とライブやるから」とエディ潘さんに連れて行かれた。

そのカウンターで藤さんはライブを聴きながら酒を飲んでいたが、「お、これいいじゃん」と思う曲があったという。それが『横浜ホンキートンク・ブルース』だった。

曲はいいけど歌詞があまり面白くなかった。藤さんは酔いながら、コースターの裏か何かに“こんなのどう?”みたいな感じで書いて、エディ潘さんに渡したのだという。曲のタイトルは最初からあった。

原田さんと藤さんは歳も近く、20代の頃によく仕事していたそうだ。あるとき、「バンドホテルでライブやってるから」と原田さんから藤さんへ誘いの電話がかかり、最上階にあったナイトクラブ“シェルルーム”で藤さんはこの曲を聴いた。

<野望ではなく野心が大事>。私が若い頃に聞いた原田芳雄さんの言葉である。

 

気になる映画で思わぬ拾い物

 

小説や映画の作品を一度読んだり視聴すると、わかった気持ちになるが、見落としているところは多い。それも、けっこう大事な部分を・・・だ。

<やがて、自分が写真に撮っていたのは物ではなく光だったことに、彼は気づいた。被写体は単に光を反射する媒体にすぎない。いい光さえあれば、撮るべきものはかならず見つかる>。小説『マディソン郡の橋』でお気に入りのフレーズである。

映画でクリント・イーストウッドさんが演ずるカメラマンの紹介文で、彼が自分の天職と気づくきっかけとなる瞬間でもある。映画も大好きで数回観ている。

映画『アバター』を映画館で公開中に観たときは、壮大な画面と物語の展開のすばらしさ。そして、なによりも新時代の3D画面に触れて感動した。

その後、別の3D映画を鑑賞したが、わざわざ3Dにする必要性を感じられない。脳への錯覚を促して目や脳への影響はどうなのか? と心配になってきた。

 

 

テレビが地デジ化されてすぐの頃、『アバター』をデジタルハイビジョンの大画面で観たいという気持ちが湧いてきた。3D抜きのDVDでの視聴であったが、サラウンド音声だけはできる範囲で再現させた。

2Dでもその映像美は十分堪能できた。3D画面に邪魔?されることがない分、物語そのものにグイグイと引き込まれる。その安定感で、(2回目であるにしても)映画館で観たときに気がつかなかったシーンやストーリーの流れも、あらためて理解ができた。

あんなにおもしろいヒット作の『アバター』が公開時のアカデミー作品賞を逃し、キャメロン監督の元妻の作品が受賞した。その理由はおそらく、『アバター』でアメリカ軍(地球軍?)がさんざんコケにされたのに対し、受賞作『ハート・ロッカー』は終わりの見えない泥沼戦争で、爆弾処理の“たいへんさ”がテーマ・・・という、その差が大きかったのか。

 

 

新幹線ひかりに爆弾が仕掛けられ、走り出して加速してから時速80キロに減速すれば爆発するということである。この作品も、ハイビジョンのDVDで観直した。

ノンストップ・アクションで、、時速50マイル(約80キロ)以下になると、バスが爆発するというアメリカ映画に『スピード』という大ヒット作品がある。内容としてはとても類似点が多いが、『スピード』の公開が1994年に対して、『新幹線大爆破』の公開は1975年なのであった。

新幹線大爆破』の主演は犯人役の高倉健さん。リアル性への伏線として、犯人は北海道の夕張発の貨物列車にも同様の爆弾を仕掛けて、時速15キロ以下に減速して爆発をさせてみせた。

減速ができず延々と走り続ける。そのシーンだけで、観客を飽きさせることなく緊迫感がどんどん増していく。走るシーンだけでこれほどまでの効果をあげられることや、作品を盛り上げる“枷(かせ)”がふんだんに使われているのが特徴である。

 

ワンチャンの裏に弛まぬ努力

 

“若者言葉”は昔からあるが、最近はSNS発の言葉が多く登場しているという。入力が面倒とのことで、“いみふ”、“りょ”、“ワンチャン”・・・等の極端な省略が目立つ。そして、登場のサイクルも早くなっているそうな。

“ワンチャン”を検索してみると、ワンチャンス(ONE CHANCE)の略で、<可能性は高くないけど成功するかもしれない>という期待を込めた気持ちを表現する用語らしい。

日本人国際スターの草分けであった早川雪洲さんは、明治の終わりに渡米したが、第2次大戦中にパリで消息不明となった。私生活での混乱などで表舞台から離れていたのだ。

 

 

早川さんがハリウッドに復帰するきっかけを作ったのが、『カサブランカ』で大スターとなったハンフリー・ボガートさんであった。

東京を舞台にした映画『東京ジョー』で、少年時代からあこがれていた雪洲さんとの共演を望んだ。戦後まもなくに発見されていなければ、大作『戦場にかける橋』での名演も見られなかったはずである。

この人も渡米をして成功した人だ。プロ野球・巨人や米大リーグ・ヤンキースなどで活躍した松井秀喜さん。

<努力できることが才能である>。松井さんが座右の銘とした言葉だという。父親が石川県の画家の言葉に感動し、小学3年の松井さんに墨で書いて手渡した。

これを机の前に貼り、野球に打ち込んだ。当時の巨人監督の長嶋茂雄さんは、連日のマン・ツー・マン特訓で、松井さんの素振りにアドバイスをした。

「私の前で何千、何万、何十万とスイングしたのでしょうが、松井君は一振りたりとも手を抜きませんでした」とのことだ。

 

 

ハリウッドで引っ張りだこだったメークアーティスト・辻一弘さんは、2012年に映画の仕事から離れた。

“君が引き受けてくれなければ出ない”。現代美術家として活動していた辻さんにメールを送ってきたのは、『ウィンストン・チャーチル』でチャーチル英元首相を演じることになった名優・ゲイリー・オールドマンさんであった。

迷いながらも辻さんは引き受けた。そして、アカデミー賞に輝いたのである。雪洲さんが届かなかったオスカー像を手にして、辻さんは主演男優賞のオールドマンさんと喜びを分かち合った。

雪洲さんには『武者修行世界をゆく』と題した自伝がある。そこでは<海外で仕事がしたかったら、自分で方法を見つけて飛び出せ>と語られている。

 

叙情的な記録映画とテーマ曲

 

<青年よ、大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス)>。語り継がれるこの言葉を残し、北海道の農学校を去ったクラーク博士。その晩年は苦労の連続だったらしい。

アメリカに帰国後、大学を作ろうとして失敗。次は鉱山に手を出し借金を膨らませ、貧窮の中で亡くなったという。それでも、青年を勇気付ける言葉は不滅だ。

世界では、(青年まで育つことなく)生まれたばかりの赤ちゃんが、毎日7000人以上亡くなっている。一昨年のデータで、生後28日未満で死亡した乳児の割合が最も高かったのはパキスタン。そして、貧困と紛争に苦しむアフリカ諸国が続く。

最も低いのは日本である。終戦直後の日本も乳児死亡率は高かった。その改善に大きな役割を果たしたのが母子健康手帳。市町村が妊娠した母親に手渡し、出産後も母子の健康をフォローする。

今、日本で誕生した母子健康手帳は海外にも紹介され、40カ国以上で使われている。

 

 

大正12年(1923年)のこと。東京駅前に旧丸ビルが完成して、三菱地所(オーナー)はビルの使い方をくわしく解説した冊子をつくったという。近代的なオフィスビルへ初めて入居するテナントの人たちに、注意してほしいことが多かったからだ。

“靴の泥や紙屑などで、館内を不潔にせぬこと”、“窓に植木鉢を置いたり、ハンカチや、手拭などを干さぬこと”、“勝手に、火鉢や石油ストーブなど、持込まぬこと”・・・云々。

2度目の東京五輪が開催される2020年は、(東京の前身)江戸に徳川家康が入った1590年から430年になる。江戸は戸数も少なかったが、幕府の経営により1世紀ほどで100万の人口を擁する大都会に成長したのである。

ほぼ同時代のロンドンの人口は46万人で、19世紀初めのパリも55万人であった。

 

 

行政の重要な部分であり巨大な消費都市の江戸は、埋め立てや上下水道の整備を含めた(家康の)都市計画と土木工事により、メトロポリス東京となる基盤を造ったようだ。

昨年の訪日客数は3119万人で、6年連続の最高を更新した。2020年には4000万人という目標を政府は掲げる。初めて1000万人の訪日客数を突破した13年から5年間で約3倍に増えた。

アジアの国や地域などからの訪日客が現状の大半を占めている。政府は欧米などからの誘客を強化するというが・・・。

1968年の仏グルノーブル冬季五輪にすばらしい記録映画がある。『白い恋人たち』だ。フランシス・レイさんが作曲したあの叙情的なとテーマ曲と美しい映像は、後々までグルノーブルを強く印象づけることになる。

1965年に公開された、市川崑監督の記録映画『東京オリンピック』も感動的であった。さて、来夏の記録映画はどうなるのだろうか。異常な猛暑の中、熱中症で倒れる人々が続出し、街中でゴミが溢れ道路は大渋滞。よけいなお世話だろうが、どうも叙情的なシーンが思い浮かばない。

 

痛勤にて座るための生存競争

 

通勤や通学で往復の満員電車は、だれにとっても“苦痛の種”であろう。全国の通勤・通学の平均時間は1日あたり1時間19分だという。(2016年・総務省実施の「社会生活基本調査」より)。最長は神奈川県で、全国平均より26分長い1時間45分。次いで千葉県、埼玉県、東京都と続く。

空席をねらって座ろうとする乗客がひとつの席を争うのは日常茶飯事のこと。私自身も長距離通勤でまったく座れないとき、目の前に座っていた男子学生が途中下車をして、その席に座れたことがあった。

それからは、その学生の顔を憶えておいて、彼の前に立つようにしていた。しかし、他の乗客たちも同じことを考えているらしく、学生の座る前の立ち位置の奪い合いのような状況におちいった。

当の学生は、またか・・というようにうんざりした顔になっていた。

 

 

それから後に、別の職場へ通うことになった際、上述の学生と同じ立場になったことがある。朝の通勤で、私が降りる手前の駅から乗ってくる30代か40代の男は、一目散に私の姿を追い求めて、私の目の前の吊り革をつかむのだ。毎朝、私の座る席がターゲットにされていた。

まさか自分がつけ狙われて、貼りつかれるとは思いもしなかった。なんだか、その男にストーカーをされているようで気持ちが悪い。私の前に立たないでくれ、といつも念じるのだが、その男は必ず私を探し出す。

車輛や座席をつねに別の場所に変えればいいのだが、なかなか座れる席が確保できず、座れる確率の高い席をやっとの思いで見つけた矢先であった。

たまに、その男が現れる前に別の乗客が立っていてくれるときは、心の中で拍手喝采した。そういうときは、例の男はうらめしそうに私を一瞥して、別の席の前に立つのだ。

 

 

私が座るいつもの席と別の席に座れることもある。そういうときは例の男を隠れるように観察してみる。あの男は当然に今までの立ち位置を目指して乗り込むが、私のことを確認できず、いつもの席のあたりをうろうろして私を探すのだ。

男は席そのものより、途中下車する人間が目的なのである。私が見つからないと、となりの車輛に移動してまで探していた。

いつもはストーカーの被害者気分であったのに、あの男を観察してみると自分が逆ストーカーになっていくような気持ちになっていた。

頭の中で、別のイタズラ心が芽生えた。私が平日の日に休み、いつもの出勤姿でいつもの席に座るのだ。そして、その男が私の前に立ち、私がいつもの駅で降りるとアテにしているところで、その駅に降りずに座ったままで乗り過ごす。

寝たフリでもしながら、その男の反応を見てみたい・・・。しかし、それは実現できず空想だけで終わってしまったが。

 

便利機能の便利さが増すとき

 

<あくびをしながら物を噛もうたって、無理なんだよ>。落語「搗屋幸兵衛“つきやこうべえ”」の一節である。2つのことを同時にするのは難しいものだ。昨年、全国大学生協連が大学生の一日の読書時間を調べたところ五割超が「ゼロ」と回答したそうな。

おもしろそうな本があるのに自分は読んでいない。なんだか損をしていないか。世間から取り残されているのではないか。読書時間もなかなかとれない。結果、焦る。本好きだった私もそんな気分になった。

やがて、パソコン通信からインターネットへとハマり、本を読む時間は激減した。今は情報収集も、スマートフォンで用が足りる。学生たちもアルバイトや就活で忙しいはずだ。

働き盛り世代の人や若者たちに、「スマホ認知症」の症状を持った人が増えているという。物忘れなどで、外来を訪れる患者の若年化がどんどん進んでいるらしい。

 

 

認知症を専門とするクリニックでは、認知症にならないような世代の受診がここ数年は増えている。患者の3割は40代~50代で、20代~30代が1割だという。

脳が健康な状態を保つためには、情報を脳に入れることとその情報を深く考えてバランス良く行うこと。スマホの登場で現代人は“情報入手”だけが多い状態になっているようだ。情報で“オーバーフロー”となった脳は過労状態になる。

そのため、物忘れや感情のコントロールができず、うつ病認知症と同じ症状が引き起こされる。スマホ認知症は生活習慣を変えれば改善するという。そのために必要なのは“ぼんやりタイム”。集中して何かをした後にぼんやりする時間が脳には必要なのだ。

とはいえ、IT機器は進化し続けて、ぼんやりもしていられない。例えば、米グーグルでは音声認識ができるAI(人工知能)「アシスタント」をあらゆる機器へ搭載しようとしている。

 

 

グーグルは“AIの生態系をつくりたい”らしい。AIスピーカー等の音声応答機能を、テレビや車など より幅広い端末・機器への搭載を検討。アシスタントとウェブやアプリとの連動をしやすくしている。

家庭用のスピーカーを使えば、習慣になるほどに使用頻度が高まっていく。私も、“グーグル”、“アレクサ”とお話をしない日がない。

音声応答機能は、マイクさえあればどんな端末にも搭載ができて、ディスプレーの限界にも左右されない。人とかわしている会話の感覚で、いろいろな内容にでも対応できるのだ。

ただ、便利さが増すほど危うさや脆さが潜むこともあるだろう。誰もが使えるグーグルの「ストリートビュー」で高級住宅を探し、盗みを繰り返したという事件が、実際に大阪で起きている。

音声応答機能も使いようによれば、最高の盗聴器として、悪の手先になる可能性もあるはず。そうなれば情報の漏洩場所も、家庭、クルマ、電車内・・・などと、あらゆる範囲で起こりかねないのである。

 

2パーセントを攻める伝統芸

 

先日、『大脱走』という映画がテレビ放映されたので録画をして観た。1963年に公開された(戦闘シーンのない)集団脱走を描いた戦争映画である。リアルタイムの映画館では観ていないが、レンタルビデオの時代に借りて観たのだと思う。

内容は観て知っている、とずっと思い込んでいたが、ストーリーに記憶違いがあった。スティーブ・マックイーンがドイツ軍から奪ったオートバイで、追手を振り切る有名なあのシーンはラストで、見事に脱走できた・・・と勝手に勘違いをしていたのである。

ところが捕らえられていて、収容所へ逆戻りであった。記憶とは実に曖昧なものだ。

こちらも戦闘シーンの登場しない戦争映画であった。『戦場のメリークリスマス』(1983年公開)である。『大脱走』と同じく、先の戦争を背景に敵と味方の間に芽生えた友情を描く物語である。坂本龍一さんによるテーマ曲は今聴いてもすばらしい。

 

 

ビートたけしさんが演じる捕虜収容所の軍曹ハラと、捕らわれの英兵は心を通わせるが、終戦で立場が逆転してしまう。クライマックスは、戦犯となり処刑を控えたハラの房を英兵が訪ねるところなのか。

<勝利がつらく思われるときがあります>。涙で頭を下げる英兵の場面がそこにあるらしい。たけしさんのすごみのある笑顔がアップで映っていたと思うが、ストーリーは私の頭の中でつながらない。

2人は戦争ゆえに出会い、そして引き裂かれた。大島渚監督は強い反戦の訴えとともに、争いのただ中でさえ魂の交わりを深める人間の姿をも強調したかったようだ。

印象的なシーンといえば、英軍少佐のデヴィッド・ボウイ坂本龍一さん演じる大尉の頬にキスをするシーンと、存在感があるたけしさんの荒削りな演技であった。

撮影完了後、大島監督はたけしさんにお礼の挨拶をするためテレビ収録現場へ伺ったという。“タケちゃんマン”に扮した たけしさんが出迎えたらしい。

 

 

子役時代はテレビでお見かけしたが、生の舞台で観ることは叶わなかった。18代目中村勘三郎さんである。母方の祖父に6代目尾上菊五郎さん、父は17代目中村勘三郎さんと、名優の血を引く“歌舞伎の子”であった。

老若の観客で「平成中村座」の劇場を満員にしたり、野田秀樹さんを脚本・演出に迎えて歌舞伎座をわかせる。地道な古典芸能の守り手であり、現代をも意識した攻めの人であった。

<歌舞伎は98%が伝統で、97%になると歌舞伎ではなくなる>。市川団十郎さんが文芸春秋の対談で語っていたことがある。われわれが様々に模索しているのも、先祖たちがつくった98%の残り、2%の中なのです・・・と。

観客の高齢化も避けられない。人気の歌舞伎にもいずれ、試練が訪れないとも限らない。18代目中村勘三郎さんは若い人にもわかりやすい歌舞伎に注力されていたようである。98%を守ってよし、そして2%を攻めてよしのあの名演が懐かしい。

 

似ていても違う生存の仕組み

 

座禅は知っていたが、こちらは初耳であった。俳人金子兜太(とうた)さんは80歳を過ぎてから立禅(りつぜん)を日課にするようになったという。亡くなった肉親の名、友人知己や恩師、先輩を次々に心の中で唱えるのだという。

それぞれの思い出も頭の中を断片的によぎっていく。そして、自分の中ではみんな生きているように思えるのだという。その数は120~130人だという。

この立禅を30分近く行うと、その日の暮らしがすっきりと豊かな気分になったそうな。そして、“死んでも命は別のところで生きている”と実感する毎日だった。

ドラマやバラエティでも親しまれた俳優の大杉漣さん。昨年、突然に亡くなったこの方も、命はきっと別のところで生きているように感じる。大杉さんは舞台を中心に活躍する中、オーディションで見いだされて出演した1993年の映画『ソナチネ』(北野武監督)の暴力団幹部役で注目された。

 

 

<はじめてオーディションみたいの受けたとき、オーディション行ったのはいいんですけど、会場に入ってスタッフの方がいらしてボクのことをチラッと2秒ぐらいしか見ないんですよね>。大杉さんが、当時のオーディションについての感想だ。

<2秒見て、はいお帰りくださいってスタッフの方がおっしゃるんですよ。何が起きたのかっていう感じでした>。

ドアを開けてすぐ閉めたって感じですから。たけしさん、確実にそこにいらしたから、間違いはなかったと思うんですけど・・・と。その2日後にお電話いただいて、あんたでいくよって、お電話いただいたんですけどね。なぜボクなのか未だに分かりません、との思いであった。

日活が若さあふれる青春ものに無国籍アクション。東宝では、駅前シリーズや社長シリーズ。松竹がしみじみと胸に迫るホームドラマ。その昔の日本映画には、会社ごとに具体的なカラーがあった。

 

 

俳優、監督そしてスタッフも専属だから、お家芸に磨きをかけられた。そのシネマ全盛期を支えた体系にも弊害があった。各社でスターの引き抜きを防ぐ協定を結び、守らぬ俳優はどの会社にも使われなくなった。

その問題に切り込もうとしたのが公正取引委員会であったが、ほどなく先導役の大映が倒産して協定が自然消滅した。人を縛りつけているうちに、産業自体が傾いたようである。

映画製作に様変わりはあっても、今も映画産業は存続している。妙な喩え話になるが、細菌とウイルスでは増殖の仕方の違いがあるという。似たようなものでも、生存の仕組みはかなり違うのだ。

菌は周りにエサがあれば、自分の遺伝子(DNA)を複製しながら増えていくという。対してウイルスにはその能力がない。人間など他の生物の細胞に入り込み、その複製機能を借りて自らを増殖させる。

昔と今では、映画製作費捻出等の違いが、よく似ているような気がしてくる。

 

 

今週のお題「雪」

常に一期一会であること・・・

 

千利休の茶道の筆頭の心得だという。<あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものである。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう>。そのことが“一期一会”なのであろう。

少し掘り下げてみれば、<これから何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれない>という覚悟で人には接しなさい、との気持ちにつながる。

一期一会はぜったい“今”にある。ふだんの中にある“あたりまえ”にこそ、気が付かないモノが多く含まれるからだ。

 

 

親と過ごす瞬間、子どもと過ごす瞬間。これも一期一会だと感じる。かつて、子どもや孫でにぎわった家庭も、今はひっそりとしている。この数年はとくに、夫婦だけとか、ひとりでの生活を余儀なくされている方たちも増えている。

それぞれの地方では、駅前の商店街がシャッター街に変貌していたりもする。かつてのにぎやかさは、つい昨日のようだった。

バブル景気で浮かれているとき、人手不足のためよく働きそれ以上によく遊んだ。あのにぎやかだった“今”も長くは続かなかった。

 

 

人生は“今日”の“今”の連続である。だれもが、その中に身を置きながら“今”しか生きられない。産声をあげたときや息を引き取るときも、そのときの“今日”の“今”である。“今”のこの瞬間のドット(小さな点)がつながって線になる。それが人生なのだろう。

人との出会いだけではなく、今の自分と出会うこともなによりの一期一会といえそうだ。

売れっ子だった芸能人や歌手の人たちは、頂点の時期を回想してみて、まったく憶えていないということがよくある。まるでそのときは、自分自身がコントロールできていなかったかのようにである。

自分の顔を肉眼で見られないのと同じに、他人の時間は見えても自分の時間が見えにくい。<人の振り見て我が振り直せ>。この言葉も時間軸でみれば、一期一会にたどり着くのかもしれない。

 

舌先三寸みたいな統計の数字

 

古い小噺らしい。ある人は願いごとがあり、願をかけて3年間酒を断つことにした。でも、やっぱりつらい。一案が浮かんだ。その期間を6年間に延ばして、夜だけは飲んでもかまわないことにしよう。

夜だけにしたが、物足りない。そこで断酒の期間を12年間にして毎日、朝晩飲むことにした。実に勝手な禁酒方法であり、何年でも続けることができる。(『統計でウソをつく法』より)。

1898年の米西戦争の期間中、米海軍の死亡率は千人につき9人だったという。そして、同期間のニューヨーク市内における死亡率は千人につき16人。この数字を使い米海軍は、海軍に入った方が安全だと宣伝していたとか。

数字には罠があるらしい。ほとんどが健康な青年である海軍に対し、ニューヨーク市民には高齢者や病人、赤ん坊もいる。死亡率は当然 高くなる。その死亡率の比較に意味はないが、数字で示されるとうっかり信じてしまう。

 

 

さて、こちらの数字は信頼できそうである。まだ食べられるのに廃棄されてしまう“食品ロス”。それを減らそうとする取り組みに注目が集まっている。年間で、日本には632万トンもの食品ロスがあるらしい。売れ残りや返品、食べ残しなどでの推計だ。

この量は、国連が世界中で支援している食料の約2倍であり、日本の国民1人あたり茶わん1杯分の食料を毎日廃棄していることになるという。コンビニの弁当や総菜は消費期限が近くなれば廃棄される。外食での宴会料理の残りも気になるところだ。

国連食糧農業機関親善大使・中村勝宏さんによると、世界では飢餓人口が約8億1500万人に上り、世界の9人に1人が満足に食べられないという。

中村さんは、2008年の北海道洞爺湖サミット総料理長を務めた方である。食品ロス削減に関しては、日本が海外に見習う点も多いとのことである。

 

 

フランスのレストランで約14年働いた中村さんは、日常の食生活で様々な工夫がなされているように感じたという。毎週末、フランスでは各家庭がマルシェと呼ばれる市場で、地場野菜など1週間分の食材を買い込む。

残った野菜は葉っぱ1枚も捨てず、鍋で煮込み、クリームやバターを入れて、野菜のうまみがぎゅっと詰まった自家製のスープにしているとのこと。身近にある食材を工夫して、無駄なく安価に一皿を作る姿勢は、料理人の使命でもある。

飲食店では最近、魚や肉の骨を取り除き、切り分けられた状態で専門業者から仕入れているところが増えているらしい。骨からは料理の基本となるうまみのあるだしが取れるので、廃棄されるのはもったいないという。

新鮮な魚のあらでは、それだけで南仏料理の「スープ・ド・ポアソン」(魚のスープ)が作れるらしい。そして海外では、外食で食べきれなかった料理を、持ち帰る動きが広まっているとも言われる。

日本に関しては食品衛生上、持ち帰りは難しいらしいのだが・・・。