日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

人生の大先輩のエピソードは

 

どんなことでも、人生の大先輩のエピソードは興味が尽きない。『雨』などで知られる作家サマセット・モームは晩年、生涯最高の感激は何だったか、と問われ答えた。<戦場の兵士から「あなたの小説を一度も辞書の世話にならずに読んだ」という手紙をもらった時だ>と。

競馬を愛した作家・菊池寛さんが世に広めたという。<無事之(これ)名馬>。けがをしない丈夫な馬こそが名馬の印。馬主でもあった菊池さんは自分の馬が心配で、とにかく無事でいてほしいという願いもあったようだ。

“なつメロ”という言葉は、50年ほど前に懐かしい歌を集めたいくつかの番組が人気を得るようになり、“懐かしのメロディー”からの略が一般的になったらしい。1968年の大みそかに、当時 誕生したばかりの放送局だった東京12チャンネル(現・テレビ東京)が歌番組を企画した。

 

 

NHKの“紅白”と無縁になった東海林太郎さんや淡谷のり子さんたちの出演で、番組名は『なつかしの歌声大会』。予想外に高視聴率を記録したことで、なつメロがクローズアップされた。

また、なつメロ歌手というレッテルを貼られることを嫌って、出演拒否する歌手も出てきた。“なつメロ”とのネーミングで過去の歌手のイメージがつくのを恐れたのである。

とはいえ、なつメロはその歌でその時代までタイムスリップできる“時代の歌”でなくてはならない。世代間や人によってなつメロの楽曲は違ってくる。そんな歌を持つ者だけが、名誉のなつメロ歌手になれるのだ。

テレビ東京の大みそかの番組は、『年忘れにっぽんの歌』と改題され、一昨年で50回を迎えた。高視聴率を記録して、「こちらが本当の紅白みたいだ」という声の中、なつメロはスタンダードナンバーと呼ばれるようになっていく。

 

 

2度めの東京オリンピックが来年へと迫っている。前回の映画『東京オリンピック』(市川崑監督)は、家屋破壊のシーンから始まる。クレーンにつり下げられた鉄球が古い建物を打ち砕く。

<こんな記録映画があるか。撮り直せ>。試写を観て罵倒したのは五輪担当相の河野一郎さん。市川監督は、河野邸を訪ねて直談判したという。

「マラソンのコースは平坦な道を選んだのに、君は坂道ばかり撮った」。「カメラは正直です」。丁々発止のやりとりがあったが、最後は河野さんが市川監督の熱意に負けて承諾した。

封切られたその映画は、観客動員約1800万人という空前の大ヒット作になり、カンヌ国際映画祭の賞にも輝いた。ある人は真似る者なきモダンな感覚に賛辞を贈り、ある人は“光と影”の映像美を称えた。

その魅力の内側にある支柱とは、政界の大立者が相手であろうとも、芸術家としての能力を信じて一歩も引かぬ市川監督のプライドであったに違いない。監督は、『ビルマの竪琴』、『犬神家の一族』など数々の映画や、テレビ時代劇『木枯し紋次郎』で、鬼才の名をほしいままにしている。

 

スリリングだったラジオ放送

 

ニッポン放送の深夜番組『オールナイトニッポン』は、1967年10月の番組開始以来とラジオの長寿番組である。ニッポン放送をキー局とするラジオの深夜放送である。他局にも深夜放送はあったが私の住むところでは、ニッポン放送の感度が一番良かった。

“フォークル”ことフォーク・クルセダーズが1967年に出した『帰って来たヨッパライ』は、深夜放送から火がつき、シングル・レコードはミリオンセラーとなった。メンバーとして活躍した きたやまおさむ(北山修)さんは、『戦争を知らない子供たち』や『あの素晴しい愛をもう一度』などの作詞でも知られ、精神科医の仕事を続けながら、音楽活動を行っている。

1970年代には、自切俳人(ジキルハイド)と名乗り、同番組の覆面ディスクジョッキーも務めた。

 

 

「深夜放送は現実に対する、もう一つの時間や空間の発見だ。DJもリスナーも、みんなが同時間帯に起きて、聴いているという連帯意識みたいなものがあった」と、きたやまさん。当時の若者たちの解放区として深夜放送は、思いを率直に歌うフォークソングのブームを支え、斬新な表現も受け入れた。

オールナイトニッポン』では、吉田拓郎さんが(最初の妻と)突然の離婚宣言。生放送が終わるのを狙い、深夜に報道陣がスタジオへ群がった。長渕剛さんは(のちに結婚をする)ゲストの石野真子さんを放送中熱く口説いた。

番組冒頭でスタッフと衝突し灰皿を投げつけて帰り、番組に丸々穴をあけた売れっ子の歌手&俳優もいた。テレビで見られぬ大物アーチストたちの、楽しい会話や弾き語りのセッションもあった。

テレビというメディアに追いやられた形のラジオは、新しい形態へ変わり若者たちへの発信源として人気を博した。

 

 

“タモさん、チーさま”と呼び合うほどに仲の良い、タモリさんと松山千春さんの絡みもあった。どちらもデビューしてすぐの頃だった。同じ曜日の一部と二部を担当して、(夜中の3時に)タモリさんが千春さんへバトンタッチするときの会話が楽しかったのだ。

なにが起こるかわからない深夜生放送のリアル感はとてもおもしろかったが、ラジオは昼間もなにかが起きる。

土曜日の昼だったか、沢田研二さんがラジオ番組を持っていたことがある。その時期に、ジョン・レノンが亡くなった。そして、そのときの沢田さんのコメントが忘れられない。

5年間の主夫生活を終え復帰するというジョン・レノンであった。アルバム『ダブル・ファンタジー』の発売から間もなく射殺された。享年40歳。記念すべき作品が遺作になった。

沢田さんは、アルバム収録曲『スターティング・オーヴァー』の曲名と、皮肉な運命を重ねて悔しさをにじませた。

<もしジョンが復帰前もアーティストとして充実な時間を過ごしていたら、こんなことにはならなかったかもしれない>と語った。その怒りと悲しみはラジオという媒体を通じて、ストレートに伝わってきた。

 

豪商と庶民のちがいは宿泊費

 

昨日、麻疹(はしか)の記事が新聞に2件載っていた。大阪市阿倍野区あべのハルカス近鉄本店で、従業員が相次いではしかに感染。市保健所は14日、新たに客6人と従業員1人の感染が判明したと発表。従業員の感染は計10人で客と合わせた感染者が計16人。

1月から9階で開催していたバレンタインフェア会場の販売担当・従業員10人(10~40歳代)のうち8人が発症。客の男女6人(10~30歳代)は、1月26~27日に会場を訪れていたという。

次は、はしかに感染した40歳代の女性が、2月8~10日に新幹線で“新大阪~東京”間を往復した。その女性は発熱や発疹を訴えて、13日に感染が判明。府は、乗客に感染の恐れがあるとして、注意を呼びかけている。

 

 

自分が子どもの頃も、はしかやインフルエンザはあった。学級閉鎖もあったが、その体験の記憶はほとんどない。感染が広まることもあったが、新聞などで特定されて報じられることはなかったように思う。

今と昔の情報を比較すると、新たな発見があるかもしれない。その観点でいけばこの人の話は実におもしろい。歴史学者磯田道史さんである。

磯田さんが訪れた京都・寺町通の古本屋で、店の人が奥から汚れた怪しい箱を出してきた。大和高田(奈良県)の薬種商・喜右衛門という男が遺した古文書がぎっしり詰まっていたとのこと。

江戸後期の庶民の旅費は1日あたり400文とされる。当時の1文は米価換算なら現在の約10円だが、労賃換算では同50円になるそうな。旅費は1日2万円で、江戸と京大坂は往復で約40日かかれば、現在の約80万円の旅費がかかることになる。それでも庶民の倹約旅行の場合だという。

豪商は1日約700文で旅をしていた。庶民との違いは宿泊費で「酒宴や女郎遊びに興じるなどの楽しみを多く享受していたため、金額の相違が生じたものと推測」されている。

 

 

今回みつかった喜右衛門の道中記には、道中の「女郎」に関する価格と出費を詳述していたという。磯田さんいわく<私は、江戸後期の売買春の費用的実態がわかると思ったから、“箱ごと全部”この史料を譲ってもらい分析をはじめた>とのこと。

さて、“いつをもって成人とみなすか”の議論は江戸の昔からあったようだ。儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)が徳川吉宗の内命を受けて著した書物『太平策』のなかに、元服を早める当時の風潮を嘆いたくだりがある。

<修養の足りない者が大人の扱いを受けている様子はあたかも「匕首(あいくち)に鍔(つば)を打ちたるよう」>。つまり、小刀に不釣り合いな鍔をつけたよう・・・だと。

大人とは何だろう。ある辞書では、「自分の置かれている立場の自覚や自活能力を持ち、社会の裏表も少しずつ分かりかけて来た意味で言う」とあった。

<人間ができるまで十七年か七十年かは人によりけり>。歌人・小池光さんの一首だ。道理で、私は大人になった気がしていないワケである。

 

容量不足も様変わりは極端に

 

2018年に国内で生まれた赤ちゃんは92万1千人。統計開始(1889年)から最少だった2017年より2万5千人少なく、3年連続で100万人を割り込む見通しだという。百万人を回復することはこの先、恐らくないのでは・・とも懸念される。

2025年になると、人口ピラミッドのピークを形成してきた団塊の世代は皆、75歳以上になる。今から介護施設や高齢者施設の不足が囁かれる。

日本の社会では、団塊の世代の成長に合わせて教室を増やし、雇用を創出し、住宅を確保し、都市空間を整備させてきた。その最終段階ともいえる局面が迫りつつある。

人口重心」という言葉があるらしい。私たち一人一人の体重が同じと仮定した場合、日本全体でバランスを保てるようになる場所のことだという。

 

 

5年ごとの国勢調査のたびに発表される人口重心。2015年に総務省が算出したところでは、岐阜県関市の武儀(むぎ)東小学校から東南東へ約2.5キロの地点である。

1965年には長良川の西側、岐阜県美山町(現山県市)に人口重心があったそうで、東南東方向へ毎回数キロずつずれており、この50年間で長良川を渡り27キロも動いたことになるらしい。

そのベクトルが東京へ向かっているのはまちがいがなさそうだ。少子化の対策や東京一極集中の是正などを掲げ、政府が「まち・ひと・しごと創生総合戦略」である地方創生の5年計画を策定したのは2014年の末であった。

「2060年に1億人程度の人口を維持する」ことを目指すとともに、ここをしのげばその先に大きな器が必要になる世代は存在しない・・・ともいわれる。

 

 

社会は容量不足の恐怖から解放される、と考えることができそうだが、大きな器は持て余すものらしい。そのときは、広がりきった戦線を縮小し、いかにコンパクトな社会につくり直すかが課題になりそうだ。

どの人の人生も、時代の背景を抜きには語れない。作詞家・西條八十さんは若い頃、東京・兜町に入り浸ったことがあるという。実業家の父がなした財は道楽者の兄に使い尽くされた。

西條さんは詩で身を立てたかったが、暮らしのために家財を質入れして得た3千円で株を買った。その当時は第一次世界大戦による好景気で、含み益は30万円に膨らんだ。銀座の一等地が、1坪数百円という大正期の話であった。

<僕の野心はせめて50万円儲けて>と売り抜けをためらったために、終戦で暴落した。手元に残ったのはわずか30円であった。

西條さんはその30円で辞書を買った。そこから多くの詩や歌詞が生まれたことを思えば、何が幸いするかわからないのが世の常である。

 

音源の楽しみ方はそれぞれに

 

元祖3人娘といえば美空ひばりさん、江利チエミさん、雪村いづみさん。1974年、雪村いづみさんがデビュー20周年記念として出した『スーパー・ジェネレイション』というレコード・アルバムは今も評価が高い。

和製ポップスの父と呼ばれる作曲家・服部良一さんの楽曲を、元・はっぴいえんど細野晴臣さんらのバンド、キャラメル・ママが演奏し、戦前戦後の名曲をいづみさんが歌った。

すごい組み合わせの実現は、自主流通盤として3000枚限定で作られたが即完売。その後もコロムビアは再発売を重ね、今もCDとして聴くことができる。

さて、一世を風靡したCDもインターネットのダウンロード音源や配信の影響で、1997年~1998年をピークとして生産額が減少した。

反面、アナログレコードを楽しむ人たちが現れた。音質に魅力を感じるファンのほか、ジャケットに見ほれて収集する人もだ。

 

 

レコードはCDと異なり、人の聴覚で聴き取れない超高音域と超低音域が記録されるという特徴がある。その市場は新品が3割、中古7割で、廃盤の商品を探す人もいる。

1960~70年代の渋いロックに浸りたい世代や、1970年代後半~80年代に流行りのシティポップも人気で、すぐに売り切れるレコードもある。本格的なオーディオでレコードを流すカフェバー等も現れ、レコードの音が楽しめるという。古き良き時代のジャズ喫茶を思い出す。

愛好家になった人にはプレーヤーを持たず、まずはレコードを買い進める人も多いとのこと。好きなアーティストのアルバムがレコードで出ると、CDで買った作品でも購入することがあるらしい。

そして、iPod(アイポッド)などのデジタル音源を楽しんできた若い世代が、(好きな音楽を)物として所有したい時、“CDにこだわる必要はない”と考える傾向もあるとのことだ。

 

 

私自身は、“手間・暇と、かなりのお金”のかかったアナログ音楽より、今のシステムが簡単で楽しくてたまらない。

大ヒット製品ウォークマンは、ソニー創業者の井深大さんが、旅客機で音楽を聴く際にテープレコーダーが重過ぎるからと、製作依頼して生まれた。ウォークマンを、人気ミュージシャンらが使い始め、そのファンたちが購入してブームが起きた。

アップル創業者スティーブ・ジョブズさんは、ウォークマンに感動してiPodを考案した。そのiPodに電話機能をもたせたらどうだろう、と誕生したのがiPhoneである。

そのiPodを、『女々しくて』で有名なゴールデンボンバーは、アリーナクラスの会場で(エアバンドの)音源として使っていたとか。鬼龍院翔さんがテレビで言っていた。樽美酒研二さんが曲を流すためにドラムセットの陰でiPodを操作する。時々、操作を間違えてあせることもあるらしいが。

そんなにすごい機器はものすごく小さくて、私のポケットの中にも簡単に収まっている。

 

寅さんの指導方法「おひたし」

 

“ヒットの鍵は口コミ”との文言が飛び交う時代である。かつて“時代を映す鏡”と称された雑誌も今や売り上げ減だという。口コミという言葉の語意も時代とともに変化しているようだ。今ならLINEやツイッターなどSNSを使った情報の拡散なのであろう

虚業家、恐妻、一億総白痴化などと、独特の言語感覚で世相を斬り、多くの造語を遺したのは評論家・大宅壮一さんであった。口コミもその中の一つである。

大宅さんなら、一億総評論家が情報交換や検索に明け暮れる現代を、どのような言葉で喝破するのだろうか。

こちらもSNSで拡散され話題になった言葉らしい。上司への報告、連絡、相談、いわゆる“ほう・れん・そう”に“お・ひ・た・し”で返す「ほうれんそうのおひたし」だ。

部下に怒ったり、説教したりしてはいけない。それを端的に伝える言葉である。

 

 

「お」怒らない・「ひ」否定しない・「た」助ける(困り事があれば)・「し」指示する。なかなか説得力のある言葉だと思う。そして、すぐに連想するのはあの人・・・。

映画『男はつらいよ』の寅さんである。自分のことは棚に上げ、恋に悩む若者に対する寅さんの指導方法はポジティブで、“当たって砕けろ”、“なんとかなる”と強気である。

「燃えるような恋をしろ」、「アイ・ラブ・ユー。できるか青年」などと、セリフもポンポン飛び出す。

映画『男はつらいよ』シリーズ全48作の配給収入は464億3000万円、観客動員数は7957万3000人だという。

車寅次郎の妹さくらと諏訪博をちぐはぐな誤解で結び付けた第一作から、毎度毎度いい女のマドンナが登場する。映画の中だけでなく、田中裕子さんがマドンナのときには沢田研二さんが共演。志穂美悦子さんのマドンナでは長渕剛さんが出演されている。

そして、映画の共演がきっかけかどうかはわからぬが、まさに寅さんの叱咤激励の如く結婚をしている。

 

 

昨年10月1日にスタートしたNHK連続テレビ小説まんぷく』も視聴率が好調のようである。安藤サクラさん演じるヒロイン・福子の夫・萬平役には朝ドラ初出演の俳優・長谷川博己さん。どちらも好きな役者さんである。

長谷川さんは若い頃から「朝ドラが若手俳優の登竜門といわれ、ヒロインの相手役をやるとそこから売れるよと言われていた」という。そして、20代前半に何度もオーディションを受けて落ちてきた。

安藤さんと長谷川さんの役柄や演技からも、「お・ひ・た・し」の要素がふんだんに感じられて、見ていてほんわかな気分になってくる。

最近とくに感じるのだが、安藤さんと長谷川さんが出演する寅さん映画をぜひ観てみたかった。例の調子で寅さんが長谷川さんに恋の極意をけしかける。そんな楽しいシーンを観てみたいものだ。

 

かつては誰もが若者であった

 

<故障するわけさ。メード・イン・ジャパンだ>。SF映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のシリーズ第3作にあるセリフだ。

親友の科学者ドクが発明した自動車型のタイムマシン「デロリアン」で、カリフォルニアの高校生マーティは冒険を繰り広げる。

1985年から30年前にタイムトラベルしたマーティは、1955年のドクにデロリアンの修理を頼む。小さな電子部品を見てドクが放った言葉は冒頭のセリフであった。

<何を言ってんだドク? 日本製が最高なんだぜ>。マーティはすぐに切り返す。

1955年には粗悪品の代名詞だった日本製の評価は、1985年までの30年間で劇的に変わった。

 

 

<お客様は神様です>とくれば、着物姿でにっこりする三波春夫さんが浮かぶ。そして、好景気に湧く日本の姿がオーバーラップしてくる。しかし、有名なこのせりふを言い出したのは三波さんではなかったという。

三波さんいわく<妙なものですねェ、私は「お客様は神様です」といったことはありません、あれは(お笑いトリオの)レツゴー三匹の皆さんが、三波のいいそうな言葉だというのでおっしゃったそうで>と。

昭和のひととき、このセリフに明るく弾むような響きがあったことは確かだろう。三波さんの言葉は<(三匹に)感謝しております>と結ばれる。

言葉にはいくつもの表情があるようだ。

<月はまるで青い氷のなかの刃(やいば)のように澄み出ていた>。川端康成さんの『雪国』には月の描写がある。冬は月も星も美しい。ガリレオが自作の望遠鏡で初の天体観測をしてから今年で満410年になるそうな。

 

 

「時空」とひとくくりに言われることが多い。ところが、人間はガリレオ以降にはるか遠くの星群をも見ることができる目を携えたのに、ほんの1分先も、5秒先も見ることができない。親しみを増す“空”と、そ知らぬ顔の“時”が心に交差する。

バック・トゥ・ザ・フューチャー』の初回作ではマーティが、あこがれのトヨタ車を1985年の街で見かけ、<ザッツ・ホット(いかしてる)>とほめた。さらに34年後の今も日本製品は“最高”と言ってもらえるだろうか。

<若い時には避けるような仕事にも、老年になると ぞうさなくとりかかれる>。英国作家のサマセット・モームの言葉だとか。

人は老いると時間ができる。そこで何が変わるのか。老齢は新しい挑戦をするのにふさわしい。昭和時代の若者もまだまだ捨てたものではない・・・かもしれない。

 

便利な機能も使い方次第では

 

習字の練習をするので、家から新聞を持ってくるようにと先生が話したら、新聞を家で購読していない子がいた。最近は、新聞を読んでいない若者が珍しくない。その延長で、結婚して子どもが生まれても、新聞のない生活を続ける人はいるのだろう・・・と。

今から10年以上前の新聞記事にあった。

新聞の使い道は多様で、暮らしの中で便利に用いられてきた。習字の練習もしかり、折り紙で大きな兜(かぶと)を作れるし、室内遊びのバットやボールにもなる。割れやすい物を郵送する時などにも使える。

新聞のない家庭があるというのは、ほんの一例だったのかもしれない。しかし、子どもたちを取り巻く環境の変化は激しいようだ。集団遊びが減り、家の手伝いをする習慣も薄れた。

 

 

机の奥などに追いやられた電卓。今はスマートフォンの電卓機能を使う人も多いだろう。私はパソコンで電卓ソフトを愛用していたが、最近は古い電卓を手元に置いて使うことが多い。画面を変えたりするより、使い勝手がいいからである。

東京五輪の1964年に早川電機(現・シャープ)が発売した電卓は、重さ25キロで価格53万5千円。まさに自動車1台分のお値段であった。

1年前、小型電卓の開発で知られる(元シャープの)佐々木正さんが、102歳で亡くなられた。60年代から70年代にかけての“電卓戦争”で、佐々木さんらは技術、低価格競争に挑んだ。

集積回路(IC)、太陽電池、液晶画面等の新技術導入で、77年に同社が発売した電卓は65グラム、価格8千5百円に下がった。今は100円ショップで買える電卓であるが、電卓戦争で培われた技術がコンピューター、ゲーム機、スマホなどにつながっていく。

ある若者が電子翻訳機を持ってきた。誰も見向きもしなかったが、佐々木さんだけはその技術に大金を出し、銀行に口も利いた。その若者は、ソフトバンク孫正義会長であった。

 

 

便利機能につられて、使う者の無知な部分があからさまになることもある。笑うに笑えない話が昨年に問題となった。

岡山県議13人が2016年に公費で実施した米国視察で、報告書の大半に同じ文章が使われていたという。視察は16年11月1~10日、自民11人、民主・県民クラブ1人、無所属1人が参加し、ワシントンやボストンなどを訪問。公費計約1450万円が充てられた。

その報告書に、州や市の紹介が記載されているが、13人中11人で“感想”以外の記述がほとんど同じだった。同じ箇所の変換ミスが複数見つかり、インターネットの「ウィキペディア」などの説明をそのまま引用したとみられる部分もあった。

キング牧師像」の項目では、11人が「作られたもの」を「作られ珠緒の」と誤記され、ワシントンの現地情報サイトに同じ内容の文章があった。転記での変換ミスである。そして、米国議会図書館の展示物の説明は、10人が「コレクション」を「これ区書」と誤っていた。

 

けたたましきユーチューバー

 

冬景色の野山で早咲きの春の兆しを探すのが「探梅」といい、冬の季語だという。初物好きの江戸っ子は、雪の降るうちからそこら中で梅を探し回り、ほころびたつぼみ一つ見つけようものなら鬼の首でもとったようにほくそ笑む。江戸の書物に探梅風景を記したがあるという。

春の季語で梅を見るのが「観梅」である。数年ぶりに、熱海の梅園に行ってきた。入園してすぐに、“鳥の鳴き声の笛”を売る出店の前で、自称ユーチューバー(YouTuber)なる年輩女性が、「ユーチューブにのせてもよろしいでしょうか」とインタビュー?をしていた。

その後、私が写真を撮っていると、横でヘンなナレーションが聞こえた。「おや、黄色い梅がありますね。これは蝋梅といって・・・」などと例の女性の怪しいウンチクだ。すぐ近くで鑑賞していた老人男性からは「そうじゃないよ」とツッコミが入る。女性は反論するが、梅への知識が乏しいらしくオロオロしていた。

 

 

デジカメの出荷台数は2010年に1億2146万台とピークを迎えた。それから高精細なカメラを搭載したスマートフォンに押され、16年に2419万台と5分の1に激減。

しかし、2017年に出荷したデジタルカメラが前年比3.3%増の約2498万台で7年ぶりの増加となった。

スマートフォンの普及で苦戦していたデジカメも、画像共有サービス「インスタグラム」などを通じて、表現力にこだわる消費者が増え、販売に貢献したのである。

高価なデジカメを求める傾向が強くなり、コンパクトデジカメや、軽量な「ミラーレス一眼カメラ」の出荷台数が好調。まさに“インスタ様様”である。写真と動画のちがいはあるが、あのユーチューバーの女性を思わず連想してしまう。

 

 

さて、俳句では“布団”も冬の季語になるらしい。<蒲団(ふとん)着て寝たる姿や東山>。江戸から京都にやって来た、(松尾芭蕉門下の)俳人服部嵐雪の句である。

毎朝、布団から出るのがつらい時期である。冬の朝に目覚めてから、布団を出るまでの時間について、気象情報会社が数年前にアンケートを行った。

全国平均は、13.3分。都道府県別では、暖かい西日本が短かったようだ。

<梅一輪一輪ほどの暖かさ>。こちらも嵐雪の代表作である。早春の句として解釈されそうだが、“寒梅”の前書きがあり、冬の句なのだという。

 

今も食べ続けられる即席食品

 

幼い頃に聴いたテレビやラジオのCMソングで、今も憶えているものがある。1960年に発売した明星食品株式会社の「明星味付ラーメン」の宣伝だった。

♪ 雨が降ってる日曜日 坊やドロンコなぜ泣くの/あそこの角でころんだの どうしてそんなに急いだの/明星即席ラーメン パパと一緒に食べたいの。

その2年前は、容器に入れてお湯をかけ蓋をするだけ。3分待てば出来上がるチキンラーメン日清食品が販売している。

明星即席ラーメンは鍋で煮る手間があったが、母親に野菜や溶き卵を加えて作ってもらった味が忘れられない。子ども心にも店のラーメンと即席麺との味の違いはわかったが、インスタントなりのおいしさがあった。

そして、1968年2月には世界初の市販用レトルト食品としてボンカレーが誕生。あめ色のタマネギのコクと、いためた小麦粉の香ばしい味わいが特徴だった。

 

 

昨年、コンビニエンスストアで売っている食べ物をかけ合わせて、新しい料理を創作するというレシピ本が出版された。そのアイデアがおもしろかった。

“主食”、“おかず・おつまみ”、“おやつ・デザート”に分けて、イラストの付いたレシピと費用の目安が載っていた。

「焼きおにぎり茶漬け」では、冷凍のおにぎりを解凍してから、フリーズドライのもずくスープをのせてお湯をかければできあがり・・・などとの具合である。1食あたりが安価ですむというのも魅力だ。

今、この国は景気の拡大期間がいざなみ景気を越える74か月(6年2か月)に達し、戦後最長になったそうな。雇用者数もバブル期並みに増加し、企業収益も過去最高。失業率も歴史的な低水準なのらしい。

 

 

フリーランスの語源は中世ヨーロッパにあるという。騎兵が使う槍(やり)がランスで、主君を持たず、契約にもとづいて戦う騎士がフリーランス・・・なのだと。

日本では、特定の会社に属さず自営や契約で働く人たちが、(副業をしている人も含め)1100万人を超えるという推計がある。

インターネットカフェなどで夜を明かす利用者の実態について、都が行った一昨年のアンケートでは、約4人に1人が「住居がない」と回答していた。

ネットカフェや漫画喫茶、サウナなど都内502店を対象に実施。内訳としては寝泊まりしていた946人のうち、「旅行出張の宿泊」との回答が37.1%で「住居がない」は25.8%。そして、「遊びや仕事で遅くなったため」が13.1%だった。

高度成長の過程で生まれた数々のインスタント食品は、この先もなくてはならないものであろう。食生活も昔からの変化はあるだろう。ただ、高度成長以前の食卓に並ぶおかずも懐かしい。それは、粗食...もとい素食であったが、景気のいいはずの今よりも贅沢な食品だったように感じてならない。