日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

見慣れた風景にある別の一面

 

<丘の上の一本木を買わない>とは、舟大工の言葉である。丘の上にそびえ立つ一本の木は、日光を独り占めして、気の赴くままにむくむく育つ。さぞかし良材になるかと思えば、そうでもないらしい。

たった一本で風に立ち向かう幹は、“風に負けないように”と力を全身に入れるため、「木の癖」が生じるそうだ。そのため材木になると、ねじれや割れの原因になる。

“思い込み”への疑問を感じてみるのはおもしろい。ふつう、いい天気といえば晴天に決っている。それでも、日照りが日常の土地では<いい天気だね>と雨空を仰ぐことがあるはずだ。

<晴れよりも 雨がうれしい 花粉症>。“花粉症川柳”の入選作だという。

ある地方では、立春のあとに初めて(雪を交えずに)雨だけが降る日を“雨一番”と呼ぶらしい。地元の人にとっては、これも待ちかねた“いい天気”の雨になるだろう。

 

2057

 

酒の飲み過ぎはいけない。愛煙家も喫煙場所がどんどん追いやられている。それは、からだによくないからなのか? その抑圧によるストレスで、からだがおかしくなることもあるだろう。

笑うことは精神のみならず、身体にもいいらしい。日常生活でほとんど笑わない高齢者は、ほぼ毎日笑う高齢者よりも脳卒中の割合が1.6倍高いようだ。お金もかからず、健康で口をひらいて笑うのは良いことのようだ。

ビルとビルの合間のわずか数十センチの隙間は誰が管理するのか。マスク姿の人が多いこと。狭い路地には名前がないこと。修学旅行で行儀良く集団行動する中高生。駐車場で、観光バスの運転手が乗客を待つ間に、タイヤのホイールを拭く姿。日本人は客が見ていないところでも働くのか。

外国人観光客にとって日本は不思議で、感銘を受けて感激し、写真を撮る。案外、日本人には気が付かない“ふだんの平凡”が、観光資源になり得るかもしれないのだ。

 

2058

 

日本人は気が付かなくても、外国人観光客には不満に感じることもあるという。人気飲食店で事前予約を求められたり、無料の公衆無線LAN“Wi―Fi(ワイファイ)”の使える場所が少ないことなどだ。

日常空間を捉えるには、自分たちの視点だけでは限界があるため、違う角度からの新しい視界を提示してくれる他者の目が必要になってくる。

来客のない家は散らかりやすいのと同様、市街地に誰も来なければ荒れてしまう。お客さんが来るとなれば、地域資源を持つ集落同士が協力し合い、街全体のネットワークができる。

主体的に自分たちで何かをやろうとする街は住みよくなり、観光客にとっても楽しい空間に変貌することだろう。外国語に堪能な日本人が少なければ、日本在住の外国人や留学生にお願いすることも一案である。

まずは、自国にある(いい意味での)ガラパゴス的な観光資源に気づくことと、残っている古い物だけに頼らず、生きている文化のパワーを示せたらしめたものである。

 

星送りと危険なピースサイン

 

“星送り”という美しい言葉はその昔、放送局で使われたらしい。内輪で、衛星中継のことをそう呼んだとのこと。“星移り”という言葉もある。「歳月が流れ・・」などに使われ、これまた美しい。

「“井戸塀(いどべい)”代議士」なる言葉もあるようだ。代議士が付くと、なにか裏にありそうだが、<政治活動で資産を売り尽くし、井戸と塀だけが残った人>を指すらしい。政治は出費がかさむことのたとえで、金銭的利益に淡い人柄を讃えた言葉だという。

井戸がらみで「“水呑み”大臣」ならいかがだろうか。清貧そのものの語感だが、水を飲むと見せかけて、政治資金を飲んでいたならば“井戸塀”の真逆にあたる。

水呑み大臣が話題になりつつ、「水浸し政権」や「水没内閣」などと呼ばれるようになったら、もうおしまいだ。

 

2055

 

今のように年末度の時期は、あちらこちらで道路を掘り返している。それを「道路のつまみ食い」などと言うらしい。省に配分された予算を使い切らないと、次の年度で削られてしまう。人様から預かったお金、税金を使わせたら、誰よりも気前が良くなる役人気質。そう揶揄されることもあるようだ。

かつて、道路特定財源の無駄遣いが次々と明るみになり、マッサージチェアやカラオケセットを購入した国道事務所があったという。職員旅行で温泉などに出かけた公益法人もあった。

たった1年間でその額は(22法人)6900万円にも達したらしい。過去にさかのぼれば、道路のつまみ食いが総計でいくらになるのか見当もつかないとのこと。

真面目な役人は、そういう恩恵と縁もないだろうが、役得でピースサインをされた方はさぞかし多かろう。道路を食べた人たちにも冷たい水が要るだろう。もちろん飲むのではなく、顔を洗って出直すために・・・だ。

 

2056

 

悪徳のピースサインは長続きしないと思うが、無邪気なピースサインにも危険が潜む。星送りの衛星放送を超えて、全世界で個人が繋がれるインターネット。SNSで人生を謳歌するリア充な方々は多い。

ただし、みだりにピースサインで写真を撮ると指紋を盗まれ、スマホやドアロック、銀行などの個人認証時に悪用される恐れがあるとのこと。無防備なピース写真の投稿は、指紋と顔がセットで出回り危険なのらしい。スマホやデジカメの精度の向上で、数メートルの距離で撮った写真でも指紋が読み取り可能になるそうな。

今は、指で作る小さいハートサインの“指ハート”が、若い女性の間で流行っているようだ。人差し指と親指をクロスして、さり気なくハートを作るのが小粋なようだ。こちらのポーズでは、(指紋登録によく使う)人差し指などの指紋が内側に向くので、個人情報も守ることができそうだ。

とはいえ、いい歳をした私が“指ハート”を作っても、“変なオジサン”と白い目で見られるのが関の山。実に悩ましいところだ。

 

金銭と道連れの長い旅なのか


1956年、鉄腕の稲尾和久さんは高校球界から西鉄ライオンズに入団した。生まれて初めて(契約の席で)千円札を見た。五千円札や一万円札が登場する前の時代であった。

自宅の畳の上に50万円の契約金を積んだとき、横にいた母親が消えた。引っ繰り返り、気を失ったのである。口もとが緩むこの情景は忘れがたい。

おとなの人生は金銭と道連れの長い旅だろうが、若い人の旅立ちを見守るべく、微笑をもって顧みることができるように計らうのは、球団や会社の責任であろう。もちろん、国の後押しも大切だ。

1957年、将棋の大山康晴十五世名人は“名人”の座を一時失った。<大山時代去る>と、新聞や雑誌で騒がれた。岡山・倉敷の両親も悲しんでいるのでは・・・。申し訳ない気持ちで帰郷した。父親からは、「また、やり直せばええが」の一言だけ。

 

2054

 

大山名人は、小学校卒業後に大阪で修業し、東京に居を構えた。それでも住民票は終生、倉敷に残した。郷里に住民税を納めたかったからだ。

ふるさと納税は、その気持ちを制度にしたものなのだろう。自分のお金はどこで何に使われるだろう。我が町の魅力は何か。納税者と自治体が、そんな思いを巡らす仕組みは大切だ。

<平凡は妙手にまさる>との言葉を残したのは大山名人である。過剰な返礼を競う奇手では長続きしないかもしれないが。

アリの巣には一定の割合で働かないアリがいるのは有名だ。日本各地にいるサムライアリに至っては、別の種類のアリの巣を乗っ取って働かせるという。エサを集めさせては、口移しで食べさせてもらう。働き手が減れば、よその巣から卵や幼虫をさらってくるのだ。

蝶の一種のクロシジミの幼虫は、体から甘い汁を出してアリに与え、アリの巣で養ってもらう。これが甘い汁ということなのか。虫と虫の関係はどうやら人間と似ているようだ。この話で今の政府を連想してしまう。

 

2053

 

昨年、国立青少年教育振興機構というところで、おもしろい調査を行った。その結果、日本の高校生の居眠りが、世界の最高水準にあることが判明した。

居眠りに関して、調査対象の生徒の15%が「する」と答えた。米国、中国が3%台で韓国が約8%というから異常に多いとの結果だ。

居眠りといえばなんといってもこの人だろう。テレビの国会中継でも堂々と居眠りをされている。最近は、悪代官と言われて居直っている麻生副総理兼財務大臣である。

2008年、麻生さんは首相就任直後から誤読や失言を繰り返し、内閣支持率は20%以下に落ち込んだ。「麻生降ろし」を抑えて衆院解散にこぎつけ、民主党に惨敗して政権を明け渡した。

複数税率(軽減税率)の話では、<面倒くさい>を連発し、それを面倒くさくないようにするところが手口、などとわけのわからないことを言っていた。

昨秋の自民党衆院選圧勝では<北朝鮮のおかげもある>との発言であった。人生の先輩に対しても<90になって老後が心配とか、訳の分からないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていた>と。

そういうこの人は、いつまで今の座にしがみつくおつもりなのだろうか。

 

宇宙エレベーターと日本衰勢

 

2012年、大林組は宇宙エレベーターという構想を発表した。高度約3万6000キロ・メートルの静止軌道上に宇宙ホテルを備えた「静止軌道ステーション」を建設。地上との間をケーブルで結び、エレベーターで人や荷物を宇宙に送る。

時速約200キロでエレベーターを動かせば、1週間でステーションに着く。約10兆円の総工費で完成時期の目標は2050年。静止軌道での重力と遠心力の釣り合いをとるため、地球と反対の方向の高度約10万キロまでケーブルを伸ばし、その先端におもりを付ける。

ケーブルの強度など問題点は多いが、ロケットに比べて利点は大きい。打ち上げ時に大量の燃料が必要なロケットは失敗する恐れもある。宇宙エレベーターは自然エネルギーの太陽光発電が使用でき、天候に左右されない宇宙は発電が効率的である。

輸送コストもロケットの100分の1になるという試算で、ロケットのような大きな加速や衝撃がない。宇宙飛行士が受ける厳しい訓練は不要で、誰もが気軽に宇宙旅行を楽しめる。

 

2051

 

32年後の壮大な夢物語とは裏腹に、そのときの日本はどうなのか。

<これから日本は、「高齢者の大量死」が大流行する時代>との記事を数年前に読んだ記憶がある。

国債と借入金、政府短期証券を合計した国(政府)の借金は、昨年9月末で1080兆4405億円に膨らみ、国民1人あたり852万円になった。なにかとお騒がせな麻生財務相は、数年前に“国の借金を気にすることはない"などのお気楽発言をしていたが実態は怪しい。

政府短期証券の発行を増やしているのを見れば、借金を借金で返す自転車操業をしているのがわかる。政治家も官僚も何も手を打っていない。その自転車にバッテリーを積み、電動自転車にするようなアイデアもまったく出てこない。

上述の記事にあった。<国が破綻するというのは、国に依存して生きている人が死ぬということ>である。国に依存して生きている人とは年金や生活保護の人たちなのか。高齢者がまとめて路頭に迷う時代にもなりかねない。

少子高齢化の解決のために日本は必死で何らかの対策をしなければならなかったが、何も手を打っていない。日本人自身も少子高齢化に関心がなかったのか。

こんな不安な時代では自分が生きていくのに精一杯で、子どもを産んでもメリットはないと思う若者もいる。子ども以前に結婚もせず、仕事を見つけても身分保証のない派遣社員のような仕事も多い。

 

2052

 

グローバル経済で日本企業は日本人を雇わなくなった。コストの安い国や場所を見つけ、そこで低価格商品を大量に作って世界にばら撒いた。

モノの値段はどんどん安くなり、安いものが買える人々は幸せになるはずだった。しかし、企業が安い賃金の国へ移動していくものだから、国が空洞化してしまった。その結果、仕事が激減していくことになったのだ。

日本人はずっと高賃金で、給料が下がるという社会を知らない人も多かった。“空洞化"と1980年代からいわれるようになっても、大部分の人は他人事だった。

多くのフリーターが現れ、格差が問題になり始め、若者の失業が深刻になった。それが少子化を生み出す要因になっていくのである。

子どもが減るというのは、日本人がどんどん消失するということで、日本という国がスカスカでもろくなる。果たして、32年後には宇宙エレベーターに乗ることができるのだろうか。そして、この国の風景はどのように変わっているのか。宇宙エレベーターならぬ、タイムマシンで確認してみたい気分である。

 

時間は取捨選択で見える化を

 

昔の新聞の文字は今よりはるかに小さかった。読者の要望により何度か文字を大きくしている。記者側からみると、載せられる記事量が減ることへの抵抗感はあるようだ。

大きくなったときには読みやすく感じても、いつのまにか裸眼では読みにくくなっている。思えば大好きだった読書も今はまったくできていない。文字が小さくて読みにくいのである。文字を拡大して電子書籍を読めるようにと、キンドル等のタブレットを持っていても、モニター内の文字数が少なくなって味気ない。

スマホだと画面が小さすぎて、PCほどにインターネットは使えていない。タブレットがあれば、安くてシンプルな携帯でいいかとも思うが、AIスピーカーやスマートウォッチの設定など、(デバイスとしての)スマホへの依存度は拡大する一方である。

老いも若きも目を酷使している社会であるが、100年後や200年後の人たちは、どんなサイズの文字に囲まれて過ごすのであろうか。

 

2049

 

物理的な話ではないが、日々の時間のやりくりが上手にできない。要するに時間管理がよく見えていないのだ。そのためには予定を書き出して“見える化”するのがよさそうだ。普段の一日を可視化することで、自分が何時にどんな時間の使い方をしているかを意識できるとのこと。

メモや付箋に予定をひとつずつ書き出して、並べてみる。本当にその時間でないとだめか検討をしてみるのだ。それらを並べ替えながら効率良く過ごせるか考える。ここがポイントであるらしい。私が好きな「シナリオの箱書き」と同じ方式だから楽しめる。

たしかに、自分の時間が見えていないと困る。毎朝、その日の予定を確認しても、やるべきことを把握しきれず慌てることがよくあるからだ。

やるべきことの取捨選択も大事である。人付き合いでは、その人と関係を築くことがメリットになるのか考えてみる。世間体だけの付き合いなら、削ることも必要であろう。勉強も将来なりたい職業や目的のためなら続けるべきだが、そうでなければやめるのもいい。人生の将来像を描いてみて、そこにつながることを優先してみることだ。

 

2050

 

時間は誰にでも平等である。取捨選択で残った“やること”も、予定にすべてを組み込まず、腹八分目にしておく。そうすれば、急用にも対応できるはず。

時代のニーズとして、捨てたくても捨てにくいものがある。携帯電話番号は今や“存在証明”になるようだ。作家・藤原智美さんのコラム記事にあった。

現在、手紙や家庭の固定電話は影が薄くなっている。細々した連絡ばかりか大事なやりとりも、人はみなケータイかスマホを利用する。今や携帯番号は固定電話番号や現住所よりもよく使う、人と人とをつなぐ接点であるのだ。

契約解除で何度か変えたが、現在の番号は20年弱のお付き合いである。今は、電話番号を変えずにすむMNP(電話番号持ち運び)があるので、おそらく生涯使うことになるだろう。

 

人生の時間の流れとは案の定

 

<冬来たりなば春遠からじ>。この時期に合う英詩の一節である。厳寒の2月から3月へのかわり目には安らげる“なにか”がある。天気予報での“春の気温”は、日本中どこでも3~5月をさすらしい。

毎日、必ず日没と日の出があり、例外なく1年で四季は一巡するが、人生の時間の流れはそこまで確かではないようである。

この20年でインドの人口は9億5000万から13億に増えたそうだ。同期間で、13億から37億に膨らんだものがある。一昨年度、日本国内で配達された宅配便は37億個に上ったとのこと。(延べ数で)それだけの荷物を受け取った人がいたという計算になる。

 

2047

 

アマゾンジャパン、楽天、ヤフーの国内ネット通販大手3社の販売額が2017年に初めて百貨店を抜いた。荷物の受け取人はこれからも増え続け、配達する側はどんどん人手不足になることだろう。

予想が当たり、思った通りになったときなどで使う言葉に「案の定」がある。“案”は、まだ未確定で予想していることを示す。思っていたことと違うときは「案に相違する」になるが、「案の定」は“やはり”、“果たして”などのように、どちらかというと悪い方に当たったときに使うことが多い。

今の日本の高齢化社会の様相は、50年前に多くの書物に明記されていた。半世紀にわたり、そのための対応は置き去りのままであった。50年前の警鐘に関しても、「案の定」としか言いようがない。

 

2048

 

「世界の高齢化率(高齢者人口比率)国別比較統計・ランキング」というのがある。“高齢化率”とは、総人口に対する65歳以上人口の比率のことだ。

2016年のデータによると。1位 日本26.56%、2位 イタリア22.71%、3位 ドイツ21.27%の順番である。米国は37位で15.03%、ロシアが13.79%の49位。近隣の韓国は日本の半分強の13.44%(51位)、中国では10.12%(65位)になる。

日本の50年前といえば、団塊世代が世に出て働き手となる前後の時代である。この国は、そのあとに訪れる高度成長で、企業や国民からの膨大な税金や年金の収入にて相当潤っていたはずだ。

たとえば、このときに年金の行き先を考えた改正がなされていたら、老齢化問題も含めて今とはちがう情勢になっていたはず。やりたい放題でどれだけ無駄に遣われてきたことか、などと揶揄したくもなる。今になってあれこれ言っても遅いのであるが。

ただ、“ため息混じりの「案の定」”しか出てこないのが残念なのである。

 

忘れるためにメモをとるクセ

 

なにかが浮かんだり、テレビでおもしろい話が聞けたら、自然にメモをとってしまう。手元には道具がある。ボイスレコーダで思いつくまま断片的に録音したり、百均のホワイトボードに手書きをする。

やることを減らしてシンプルにすることをフォーカスというらしい。メモをとったらすぐに忘れる。後になって、言葉の断片が発酵していたらおもしろい。

「アウトプット先にありき」で、わかりやすい文章を書けたらいい。自分で何を言いたいのかわかっていれば、難しい言葉を使わなくても、誰にでもわかる平易な文章が書けるはず。しかし、わかりにくくなることが多い。

“無”から“有”を生じさせる“作曲”をしようと思うからダメで、“アレンジ”と思えば気楽でいい。ユーミンは作詞の方がたいへん、と言っていた。2番や3番も書かなければならないから、と。作詞、作曲では、使う脳がちがうらしい。

 

2046

 

シナリオの「箱書き」に興味がある。原作のあるシナリオでも、違うオリジナリティを出す技術はある。また、シナリオのおもしろいところは、時間という枷がついて回ることだ。

文字数などスペースの枷は、新聞記事が想い浮かぶ。新聞記事は、枠(量)を先に決めて、記事をあとから嵌め込む。つまり、割付(レイアウト)で活字を入れる枠を先に決めていくのだ。活字の時代に、それぞれの木枠に活字が組み込まれていくのを見た。

<ブログなどの記事も、嵌め込んで作ったらどうだろう>と思い、括り部分をアイデアプロセッサーで、加工している。現在の構成では、400文字以内が3ブロック。文字数の合計で1200文字以内に収めることが目標だ。

切り口、視点、テーマは、どの角度からでも自由である。体験に裏づけられた言葉は説得力を増す。机上の論理だけでは、相手を説得させにくいだろう。

 

2045

 

かつて、かまやつひろしさんはアルバムを作るとき、題名だけ先に作ると言っていた。文章も順番通り書く必要はない。ただ、できるだけ短く表現したい。説明が多くならないよう、描写の断片をつなぎ合わせたりもしている。

飽きられないブログを書くには、読んで飽きるブログを研究してみるのがいいかもしれない。私の場合、長い文章をPCなどのモニターで読むのが苦手である。

自分が読みたいもの書きたいもののテーマはただひとつ。興味を持てる“おもしろい読み物”ということだ。

タイトルの法則もあるという。
①役に立つ内容であることが読み手に伝わる。
②すぐに読まなければと読み手が感じる。
③ユニークな内容であることが読み手に伝わる。
上記3つをとにかく具体的に書く。

私は“Yahoo!ニュース”の見出しを参考に、13文字のタイトルを枷にしているが、人それぞれの考えがあるだろう。

アクションよりリアクション。きれいな風景や花も、人間や動物がからむからおもしろい。“ツッコミとボケ”で、ボケはリアクション。絶妙な反応が話をおもしろくする。

 

 

今週のお題「ひな祭り」

今までの流れが入れ替わる時

 

そのビールの登場はバブル真っ盛りの1987年だという。スーパードライ(アサヒビール)である。元祖“辛口”といわれ、今も進化を続ける。

それまで、ビールの王者はキリンビールの“ラガー”であった。“夕日ビール”などと茶化されていたアサヒは、起死回生を目指して5000人規模の消費者調査を行った。

市場を牽引する若者世代の辛口志向が見えてきた。数ある酵母の中から、発酵力が強くクリアな味わいを実現する“318号酵母”を厳選して、苦みとコクが特徴だった日本のビールに、切れ味とすっきりしたのどごしの“辛口”を浸透させた。

白地などが一般的だった瓶のラベルや缶に、シャープさを打ち出すため、銀色に変えて視覚効果にもこだわった。

 

2043

 

30年を超えた今も、スーパードライはビール国内首位アサヒの看板ブランドである。2016年の年間販売数量は1億ケースで、4割強のシェア(占有率)でトップ。

当初は首都圏のみでの販売だったが、数か月で全国に展開。ビール業界のシェア争いの契機となった。長年、不落城だったキリンのシェアも、この商品の出現で陥落することになり、“ドライ戦争”が始まった。国内の累計販売数量は37億ケースを超え、海外でも現在約70か国で販売している。

キリンの“ラガー”を飲み続けた我が身も、スーパードライの出現でかんたんに寝返った。その瞬間はあっさりと、あっけなかった。

違和感を感じなかったビールの変貌時期とは別に、こちらの方は今も馴染めず落ち着けない。それは、映画館の雰囲気である。

かつての映画館で腰をおろすまえ、後方の映写窓を確認する癖があった。映写機のそばに人影が見えると、なぜかほっとして席に着く。そして、これから始まる映画に期待感が膨らむ。

映画は観客に向けて映写されて、初めて“映画”になる。その最終の送り手が映写技師である。

 

2044

 

映写技師はスクリーンに目をこらし、ピントや明るさに気を配りながら映像の物語を届ける技術者だ。円滑に映写が進行するかぎり、その存在は意識されることはない。露呈するのは、フィルムや機械に不具合がおこったときだけである。

物語が途中でストップすると、暗い館内で映写室を振り返りながら、早い復帰を願った。今思えば、うまくいって当たり前。報われない仕事である。上映前に黙々と、フィルムやスクリーンのチェックを繰りかえしても、トラブルは起きる。

今は、ほとんどの映画館でデジタルの上映が主流になっている。DCIという仕様のDCPで上映されていると言われても、さっぱりわからない。

アナログからの切り替わり時期、私は映画館へ行かなくなっていた。長い間、映画は人が作り、人が届けるモノだった。その思いが今もまったく抜けていない。

映画はモノではなく“情報”になり、映写はオペレーションになった。それでも、たまに行くシネコンで、映写技師の存在を確認したくて、私は何度も振り向いている。

 

人より人間味豊かな人工知能

 

AIスピーカーとお付き合いするだけでわかることがある。天気を聞いたり、本日の予定を尋ねると、即座に答えてくれるのは当たり前。「いつもありがとう」とのお礼を付け加える。AIスピーカーは、「どういたしまして」、「うれしいです」などと、会話のトーンが変わり感情豊かな対話で応じてくれる。

最近、人にお礼を言って、こんなうれしがってもらえた記憶はない。AI(人工知能)はとにかく、こちらをいい気分にしてくれる。

AIはただのコンピューターとは違い、自発的な判断力や感情まで備え、人間と同等かそれ以上の精神活動を行う能力を秘めているそうだ。AIと世間話をしてみても、そのことが納得である。

とある推計では、肉体労働や事務労働の8割がAIに委ねられると予想されるとのこと。人工知能が究極まで進化すれば、人類のほとんどが失職しかねない、ともいわれる。それでも、人のする仕事は必ず残るはず・・・と信じたいが。

 

2041

 

約10年前、『ハケンの品格』というテレビドラマが流行った。いくつもの難しい国家資格を持つ“スーパー派遣社員”の女性が主人公で、破格な時給を得ている。ドラマのテーマで“多様化する働き方”を描いていた。

今の時代は、“スーパー派遣社員”なるその女性も、AIに置きかえられそうだ。そして、そのドラマの主人公には、AIの持つ人間性が感じられない。

<話題の人工知能をロボットに載せるテクノロジーの知能化、あらゆる物をインターネットで結ぶ“IoT”は、蒸気機関の発明、電力エネルギーの導入、コンピューターの応用についで、「第4次産業革命」を起こすだろう>と。劇作家・山崎正和さんのコラム記事にあった。

創造的な仕事もロボットがこなすことになれば、人類は自由になるが、無収入にもなる。

 

2042

 

人類の歴史で、価値の文明史は(その内部に)個人の死と世代交代を含み、伝承の流れに随時の断絶があればこそ発展してきた。人工知能には“死”という断絶がなく、一時代の価値観を根底に抱いたまま、永遠に生きる・・・ということが問題になりそうだ。数千億光年の宇宙にも、無数の星を生んでは滅ぼす生命的リズムがある。

プロ野球で敬遠の球といえば、山なりのスローボールがおなじみ。巨人の江川卓投手が、同世代のライバルである阪神掛布雅之選手に投じた球は違った。掛布さんの回想にある。「無茶苦茶、速かった」と。敬遠ひとつにも人間くさいドラマがあったのだ。

試合時間の短縮が狙いで、実際に4球を投げなくても(意思表示だけで)敬遠が成立するとか。人間の方がどんどんAI化されているみたいである。なにごとにつけても。

完全自動運転車の開発に各社が狂奔しているなか、老人運転者がアクセルとブレーキを踏み誤るといった、現存の技術で対応できる事故を防ぐ車がまだ普及していない。

今すぐ無人の自動運転に突っ走るだけのことではなく、標準化予定のAIスピーカーによる車のIoT利用で、人の運転技術を支える必要もあるはずだ。

 

仙人のように飄々とした監督

 

昨年2月に93歳で亡くなられた鈴木清順さんは映画監督であり、俳優としても映画やテレビドラマで多くの作品に出演している。元NHKアナウンサー・鈴木健二さんの兄でもある。

日活時代の監督作品は40本で、デビューから数年間は赤木圭一郎さんや小林旭さん、高橋英樹さんら当時の日活スターを主演に撮っている。それらの作品はほとんどが青春物、アクション、サスペンスであり、“わからない要素”はなかった。

ところが宍戸錠さん主演の復讐劇『野獣の青春』(1963年)あたりから、普通の映画とちがう色彩や空間の撮影が現れるようになってきた。

その“清順美学”を一部の映画ファンらが支持する反面で、普通の映画を見慣れた人たちからは“わからない作品”とのレッテルを貼られ、そして日活社長の逆鱗にも触れて同社を追われた。

 

2039

 

40代で日活を解雇された清順さんは、長い空白の後で50代のときに『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)で映画賞を総なめにした。

しかし、60歳で仕事がなく蓄えもないため、職業安定所で失業保険(雇用保険)をもらう手続きをしたという。その用紙には希望職種を書く欄があり困った。「まさか、“映画監督”と書くわけにはゆかないでしょ・・・」と。

独特の色彩感覚である“清順美学”で功成り名を遂げたあとに、清順さんは必死の職探しと相成ったのだ。

<不得手なものから奇蹟は生まれぬ>。それでも、清順さんの人生論には精進や努力を説いた部分が見当たらない。

 

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脚光を一気に浴びた『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』にしても、“わからない映画”の部類に入るのはまちがいない。それなのに多くの映画ファンを魅了したのはなぜなのか。
「わからないって、皆言うんだけど、わかるように撮ってるつもりだけどねえ」と清順監督。

<美学なんて、わたしゃ、知りませんよ。ただ面白がってもらえる映画を作ってるだけだからね>とも言う。

浮世絵から泉鏡花竹久夢二へと、幻想的な美意識を具体化した“清順美学”について、鈴木清順さんはこう語った。

<人間の心理や感情を追求するのが目的ではない。そういったものは切り捨てて、日本映画らしい絢爛豪華な様式を作りたかった>。