仙人のように飄々とした監督
昨年2月に93歳で亡くなられた鈴木清順さんは映画監督であり、俳優としても映画やテレビドラマで多くの作品に出演している。元NHKアナウンサー・鈴木健二さんの兄でもある。
日活時代の監督作品は40本で、デビューから数年間は赤木圭一郎さんや小林旭さん、高橋英樹さんら当時の日活スターを主演に撮っている。それらの作品はほとんどが青春物、アクション、サスペンスであり、“わからない要素”はなかった。
ところが宍戸錠さん主演の復讐劇『野獣の青春』(1963年)あたりから、普通の映画とちがう色彩や空間の撮影が現れるようになってきた。
その“清順美学”を一部の映画ファンらが支持する反面で、普通の映画を見慣れた人たちからは“わからない作品”とのレッテルを貼られ、そして日活社長の逆鱗にも触れて同社を追われた。
40代で日活を解雇された清順さんは、長い空白の後で50代のときに『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)で映画賞を総なめにした。
しかし、60歳で仕事がなく蓄えもないため、職業安定所で失業保険(雇用保険)をもらう手続きをしたという。その用紙には希望職種を書く欄があり困った。「まさか、“映画監督”と書くわけにはゆかないでしょ・・・」と。
独特の色彩感覚である“清順美学”で功成り名を遂げたあとに、清順さんは必死の職探しと相成ったのだ。
<不得手なものから奇蹟は生まれぬ>。それでも、清順さんの人生論には精進や努力を説いた部分が見当たらない。
脚光を一気に浴びた『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』にしても、“わからない映画”の部類に入るのはまちがいない。それなのに多くの映画ファンを魅了したのはなぜなのか。
「わからないって、皆言うんだけど、わかるように撮ってるつもりだけどねえ」と清順監督。
<美学なんて、わたしゃ、知りませんよ。ただ面白がってもらえる映画を作ってるだけだからね>とも言う。
浮世絵から泉鏡花、竹久夢二へと、幻想的な美意識を具体化した“清順美学”について、鈴木清順さんはこう語った。
<人間の心理や感情を追求するのが目的ではない。そういったものは切り捨てて、日本映画らしい絢爛豪華な様式を作りたかった>。