日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

三尺の童(わらわ)に才能が

 

俳諧は三尺の童にさせよ>と言ったのは、俳人芭蕉だという。技巧に走ることへの戒めもあるだろうが、子どもの素直な感性には目をみはるものが数知れない。

<せんぷうき あああああああ おおおおお>(小3女子)

数年前、新聞に掲載された作品であるが、今もよくおぼえている。私も子どもの頃、扇風機に顔を近づけて同じことをよくやった。

<カレンダー いちまいぜんぶ なつやすみ>(小5男子)

この一句で、(年に一番開放感を味わえた)あの一ヶ月のうれしさがよみがえる。

子どもの感性に目をつけて、ロングセラーを続ける商品があるらしい。

ねるねるねるねは、練れば練るほど、テーレッテレー♪>。
謎の粉と液体をまぜた物体を、魔女が食べるテレビCMである。
ご存知の方もいらっしゃることだろう。

 

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1986年に発売された菓子「ねるねるねるね」は、30年を超えた現在も店頭に並ぶという。子どもたちに人気のひけつは、昔も今も変わらない。
思えば私も、子どもと孫の2世代に買ってあげている。

当時の開発担当者が公園の子どもたちを見ていて、夢中で砂を練ったり掘ったりしている姿にヒントを得て、(それだけ夢中になれることを、菓子にできないか)と想い浮かべた。そして、誕生したのが「ねるねるねるね」である。

味を少し変えたり、色や形の変化のパターンを増やしたりと工夫も重ねたが、2000年代後半から「ねるねるねるね」の売り上げは毎年落ちていった。

2011年に復活をかけたリニューアルで、1千人に商品のイメージなどを聞き取り、それをもとに改良したという。

30年の間には味の好みも変化して、酸味が苦手という回答が増えた。
そのため、以前よりも“すっぱさ”を抑えるようにしたそうだ。

 

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ベールに包まれた「ねるねるねるね」の仕組みも、現在のパッケージには明記されているという。

たとえば、「ブドウ味の色の変化は、ムラサキキャベツの成分のアントシアニンによるもの」とか、「ソーダ味で練ったものが膨らむのは、重曹とレモンの酸が反応するため」というようにである。

芸術家・岡本太郎さんも、子どもの持つ感性に着目して、いくつもの著書へ記している。

<子供を見ていてふしぎなのは、外に出た仲間が楽しそうに遊んでいるのに、わき目もふらずに絵を描いていたりする子がいる・・・>。

その目つきや手つきは、小さい炎だ、という。
<子どもは“絵”を描いているのだろうか。“絵”ではない。自分の若々しい命をそこにぶちまけているのだ>と。

子供の絵こそ、“絵”や“作品”であるというよりも、生活そのものなのだから。
結果なんか問題ではない。終わればさっさと遊びに出かけてしまう。

結果ばかり気にするから、つまらない小細工や技巧が必要になる。
自分もかつては子どもだったのだが、あの感性は見当たらない。
たまにはじっくりと、子どもたちを見ながら教わる必要がありそうだ。

 

“どんでん返し”の弟分たち

 

最近は減ったが、外での飲み歩きをさんざんしている。
とはいえ、ひとりで飲むと間が持たないため、必ず相棒を見つけ連日引っぱりまわす形におさまるのだ。

歴代の相棒の顔を思い出すと、おバカな想い出までもよみがえる。
その中で、かなり異色でおもしろい相棒がO内くんであった。

私より17歳も年下で歌がとてもうまい男である。
ふたりで夜中までさんざん飲み歩いた。

彼は一滴も酒を飲めなかったのに、私と飲むのが楽しいと大酒飲みになった。
その熱中ぶりは、当時婚約中の彼女がいたのに別れてしまうほどであった。
私は何度も忠告したが、それでも私の後をくっついて離れない。

O内くんはとんちんかんなトークで女性を笑わせ、居酒屋のおばちゃんや、アルバイト店員の女の子にもよくもてた。

バブル期崩壊の直前であったと思うが、当時の居酒屋は酔客で溢れ、どこの店も席の確保がたいへんであった。

それでも、彼の魅力?のおかげで、店のおばちゃんに席をうまく融通してもらったり、店員の女の子が伝票をつけずに、生ビールを持ってきてくれたりもした。

 

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そんなある日、いい店を見つけたとのことで、O内くんに私は連れていかれた。
タクシーで向かう途中、「いい子たちがいるんですよ!」と彼は大はしゃぎ。

その店は彼の家の近所にある、大衆向けの小料理屋であった。
店に入ると威勢のいい声で出迎えられた。
彼と並んでカウンターに座ると、さわやかで愛想のいい若者がふたりいた。

どちらも二十歳前後の純朴な若者たちである。
屈託のない笑顔とテンポのいい会話で客を飽きさせない。
彼らが、O内くんのかわいい弟分だったのだ。

私も彼らに好感を持って楽しく飲んだ。
兄貴分のO内くんは、それからもひとりで弟分の待つ店に通いつめた。

しばらくして、彼はいつものように例の店に行ったら、衝撃的な事実を知ったという。

その日は、弟分たちの待つ店が満席だったため、隣のスナックで待機していたとのこと。
その店のママさんに、彼は弟分のことを自慢していたら、ママさんはあきれ顔で言ったそうだ。

 

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「あなた知らなかったの!? あの子たち女の子なのよ」
スナックのママの言葉が理解できなかったO内くんは、訊き直した。
つまり、彼ら...もとい 彼女らは、いわゆる“オナベ”だったのである。

O内くんはすっかり落ち込んでしまった。
私からみれば、彼は大の女好きなのだから、かえって女の子でよかったではないか、と思うのだが、彼にとってはそういうものでもないらしい。

とにかくあの店にもう一度いっしょに行ってほしい。O内くんは私を誘った。

そのときの店内のあの雰囲気は忘れられない。

弟分のはずの彼女たちは一生懸命に謝るのだが、肝心の彼はしどろもどろでなにを言っているのかさっぱりわからない。

それまでは(弟分のはずだった)ふたりを相手に、軽快なトークで盛り上っていたくせに。
どの店でもO内くんは、女の子を相手にマシンガントークをさんざん炸裂させている。

なのにどうして、女の子を男の子と勘違いして、女の子だとわかったとたんに、しどろもどろになるのかふしぎでならなかった。

ふつうの人ならわかるが、あれほど自由奔放なはずの男がいったいなぜ・・・なのか?

 

上質な創造的人生の持ち時間

 

シニア世代の同窓会の参加率が、70代以上では6割を超え、50代や60代を大きく上回るという。年齢を重ねるにつれ、「かつて同じ時間をともに過ごした」という仲間意識が強くなるとか。

年間では、(中高生時代などの)同窓会に参加した人の割合は、50代で25%、60代は43%であるが、70代以上は62%との調査結果である。

<高年齢になるほど旅館で泊まりがけの同窓会を開くなど、時間や費用をかける傾向>らしい。

私にしても若い頃から、少しでも遠くで飲むと帰りたくなくなるから、そのお気持はとてもよくわかる。

 

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戦後まもなくの団塊世代は“戦後のベビーブーム”とよく言われるが、物資の乏しい時代で、子どもを産んで育てることは、今よりはるかにだったはずだ。

<日本の人口減少の原因は少子化といわれるが、高齢者の大量死の時代にその拍車がかかる>というような記事を、最近はよく見かけるようになっている。

少子高齢化を解決するために日本は必死で何らかの対策をしなければならなかったのだが、政治家も官僚もまったく手を打たなかった>とも。

たしかに40年以上前に読んだ書籍にも、“世代別の人口分布グラフ”とともに、今を予測した文章が記されていた。日本人自身もまた少子高齢化に関心がなかったのだろうか。

若い世代は、こんな不安な時代で自分が生きていくのに精一杯。結婚や子どもどころではないかもしれない。

団塊の世代は自分たちの子どもに“個人主義”を教え、子どもたちはその個人主義に基づき親の面倒は見ない、という流れもあり得る。

 

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人間が平均寿命を延ばしたのは100年前のことであり、その前までは平均寿命が50を超えられなかったとか。

ただし、“創造的人生の持ち時間”は長寿になっても、10年だという説もあるという。

2012年に満57歳で亡くなられた18代目中村勘三郎さん。
この方はいかがであったろうか。

平成中村座」の劇場を老若の観客で満員にしたかと思えば、野田秀樹さんを脚本・演出に迎えて歌舞伎座を沸かせる。

古典芸能の地道な守り手であるとともに、現代を意識した攻めの人でもあった。
<98%守って、2%攻める>との信念であった。
歌舞伎は98%が伝統で、97%になると歌舞伎ではなくなるからだ。

2013年に亡くなられた12代目 市川団十郎さんも同様に語っていた。
<われわれが様々に模索しているのも、先祖たちがつくった98%の残り、2%の中>だと。

観客の高齢化などを考えれば、人気の歌舞伎にもいずれ冷え込む日が訪れないとも限らない

98%を守ってよし、2%を攻めてよしの中村勘三郎さんは、若い頃からわかりやすい歌舞伎を模索して、若い観客を取り込んできた。

その“創造的人生の持ち時間”は、(私のような)凡人の寿命には及びもつかない長さだったような気がしてならない。

 

気になる情報収集のポイント

 

数ある情報の中から興味のあるものを見つけるときは、だいたいパターン化されてくる。

たとえば、『2億円以上かけて寄付は2千万円』などとの記事見出しをみるとワクワクしてくる。それが自分のエントリに反映できるかどうかは別にして、その裏を想像しながら楽しんでしまう。

昨年、子どもの貧困対策のために寄付を募る「子供の未来応援基金」に対して、蓮舫さんがその費用対効果の悪さを訴えたという記事である。

2億円以上の税金を使って呼びかけているのに、集まった寄付は約2千万円だったそうな。蓮舫さんいわく「2億円を基金に入れれば良かった」と。

基金は一昨年10月に創設され、政府がポスターの制作やフォーラム開催のほか、インターネット広報関連などで約2億円使ったが、寄付は昨年2月の時点で1949万円だった。その後の経過の記事を見つけられないが、どうなったのか興味深い。

 

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同時期には『<NHK>不正調査、計1億円』との記事もあった。
テレビの地デジ化によるバブル期に、NHKが関連団体の不正を調べるため、外部の弁護士による調査委員会を設置した。

そして、別の監査法人にも約5000万円で依頼し、<両調査合わせて約1億円超を支出したが、後に発覚した子会社の社員2人による約2億円の着服などの問題には気づけなかった>とのオチである。

地デジバブルでは、テレビが売れて家電業界が儲かったというだけでなく、電波が届かない地域や家庭を出さないようにと、総務省ぐるみで膨大な予算が組まれていたはずだ。「余った予算も使い切る」という“暗黙の了解”で、不正をしやすい状況だったかもしれない。その不透明さは、ほとんど問題にされていないようだ。

こういう話も大好きだ。
住友銀行元会長・磯田一郎さんへの(古い取材からの)回想記事だったと思う。

それは「賢者の争い」というお話だった。
<会社を窮地に追いやる経営陣には二通りある。ばか同士が仲良くしているか、りこう同士が反目し合っているか、どちらかだ>とのこと。

現実はそれぞれで簡単に割り切れないだろうが、企業の盛衰を数多く見てきた銀行家のすばらしい実感である。

<賢愚の対立であれば勝負は長引かず、企業業績を道連れの泥仕合にはなりそうもない。賢者同士が円満ならばめでたい話である。愚者同士が戦争していればそもそも会社の体をなさない>とも。

 

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アナログ時代に育った人間なので、デジタルとの比較情報も興味津々である。
映写技師さんの仕事を目撃している方が『デジタル以前の格闘』という記事を書いていた。

かつて、<映画の仕事とは、フィルムというモノと格闘すること>だった。
映画は観客に向け映写されて、初めて「映画」になる。そのためには、最終の送り手として「映写技師」と呼ばれる人たちが働いていたのだ。

円滑に映写が進行するかぎり、その存在は意識されることはないが、露わになるのはフィルムや機械に不具合がおこったとき。

場末の映画館によく通っていたとき、なにかの不具合で映画がたまに中断していたのを思い出す。その頃、映写室に興味を持って、一度入ってみたいと思っていたが、その願いはまだ叶っていない。

上映前には黙々と、フィルムやスクリーンのチェックを繰り返し、事前の作業もたいへんだったことであろう。

<長い間、映画は人が作り、人が届けるモノだった>のである。

デジタルでの上映が主流になった今では、ほとんどの映画館がDCI(デジタル・シネマ・イニシアチブ)という仕様にもとづいたDCP(デジタル・シネマ・パッケージ)で上映されているらしい。

アナログからデジタルへの移行で<映画はモノではなく「情報」になり、映写はオペレーションになった>とも、その記事に書かれていた。

 

新技術で溢れるアナログ業界


デジタル技術で廃れた業種がある。

自身の体験ではフィルム写真の業界である。

フィルムを売り、現像・焼付で潤った業界だが、デジタルカメラスマホの出現で
それらの作業はいっさい不要となった。

印刷業界も活字を組合せていた時代とは様変わりして、多くの職人たちも職を失ったことだろう。デジタル技術の応用で生き残る企業もあるだろうが、町の小さな印刷屋さんはだいぶ減っているのではないだろうか。

インターネットが流通する直前の頃、竹村健一さんの講演を聴いた。

そのときの話を憶えている。
デジタル技術で廃れる業界は増えるだろうが、そのおかげで昔からある業界は確実に伸びる・・・と。

それは流通業界であり、とくに必要不可欠になるのが運送業。デジタル技術の進歩で買い物がだれにもかんたんに行える時代になるからだと。その分、商品を届ける仕事はなくてはならない。

そして、インターネット通販市場が拡大した今、スマートフォンの爆発的な普及も手伝い、時間や場所を選ばず、利用者は買いたい物をスマホで手軽に注文できるようになっている。配達時間も指定でき、利便性の向上が、さらに利用者を増やすのである。

 

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昨日の新聞記事にあった。

ネット通販が拡大しすぎて、宅配便・取扱量の急増と受取人の不在による再配達の数がものすごいことになっているようだ。

その状況に加え、配送用トラックの運転手不足で従業員の長時間労働が常態化しているとのこと。

2015年度の国内宅配便の取り扱い実績が約37億4500万個となり、この20年間で約3倍に膨らんでいるという。配達の現場では、受け入れ体制が限界となっている。

宅配便市場で約5割のシェア(占有率)を握るヤマト運輸は、17年3月期に前期比8%増の18億7000万個と、過去最高を更新する見通しだ。

2013年から、ネット通販大手アマゾンジャパンの配送を請け負っている影響もあり、預かる荷物が増え、長時間労働が定着している。

かつて、営業所の午後6時以降の残業は1人で対応できていたが、「配達時間の指定サービス」の対応に追われ、多くの営業所員が残る状態になっているという。

ネット通販市場が伸びすぎて、人員確保が追い付かないのだ。

 

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人気テレビドラマ『ハケンの品格』が放映されたのは今から10年前のこと。
篠原涼子さん演じる“スーパー派遣社員”のお話だ。

難しい国家資格をいくつも持ち時給も高い。当時は働き方も多様化し、正社員が当たり前の時代ではない、などとの風潮でもあった。

どんなに働いても残業代は出ないが、自分で自由に労働時間を設定できる働き方もあったとか。
<期日までに一定の成果を出せば遅出も早帰りも自由>などとも提唱されたようだが、成果が出なければ寝る間も削って働くしかないし、その場合の賃金はどうなるのだろうか。不透明さもある。

労働条件だけみれば、上述の宅配便市場で必死に働く人たちより、とてものん気な仕事に感じられるが収入面ではむずかしいかもしれない。

現在はロボットの活躍の場が増えている。ある駅構内のコーヒーショップでは、ペッパーくんが店頭でお客さんの呼び込みを行い大人気のようだ。その姿は、健気で可愛いのである。

ロボットにもできる人間の仕事。それはロボットの進化により、確実に拡大されていくはずだ。<ロボットに頼る経費と人件費が天秤にかけられる時代>に突入されることであろう。

そういえば、『ハケンの品格』の“スーパー派遣社員”も、ロボットのように思えてしまうのである。

 

愚直な一歩一歩のクオリティ


インターネットが一般化されてから今も、ブラウザを開けばヤフーの画面が(最初に開く)ホームページに設定したままだ。初めは検索エンジンとしての使用が主であったが、速報性のある情報源としての使い方が増えている。

ヤフー株式会社代表取締役社長・宮坂学さんは、「新しい書き手を発掘していきたい」と語っていたことを思い出す。1年ほど前のインタビュー記事だったので、すでに実行されていることなのかどうかはわからないが。

ニュース部門で独自コンテンツを増やしているヤフーは、記事の一覧見出しが重要になることを把握して、その文字数を13文字(正確には13.5文字)にしている。その数は長すぎず短すぎなくて丁度良いのだという。

テクノロジーとニュースというのはものすごく結びついているようだ。
それは、すごく文系ビジネスでありながら、ものすごくテクノロジー産業なのだという。

それまでのヤフーはニュースの流通業者だった。
今ではどのニュースサイトもニュースが大量にあり速度も速い。

それなら独自の記事を載せて差別化するしかない、と『ヤフーニュース個人』を始めた。それは、選別されたライター陣の寄稿によるオンラインメディアなのだ。

 

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情報を届けるものは、情報を単に流しているだけでは付加価値を高められない。
TBSの『調査情報』は沢木耕太郎さんを育て、『文芸春秋』が立花隆さんを育てた。

情報のプラットホームをもつ者は、そういう新しい才能を育てる責任があるのだ、と宮坂さんはいう。自らのテーマとして<総合月刊誌が果たした役割を今後誰が担うのか>と掲げた。

文芸春秋』を毎月読んでいるという宮坂さんである。
<あれはなかなかクオリティーが高い。あそこに書いている重鎮はまだネットには出てこないし、ネットがああした執筆者に匹敵する重鎮を育てたかというと、何も育てていない>と。

<単に規模が大きくなり、ネットニュースの量が増えただけである。重鎮やジャーナリズムのスターにもネットで書いてもらえるよう、自分たちの「格」も上げていきたい>との気概である。

 

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消費するだけではダメ。自分たちで次の新しい書き手を発掘していきたい。
そのためには、どこかで課金に挑戦しないといけない、と。

骨太で読み応えのある記事とは、ページビューを稼げて広告がつく記事とは違うのだ。
そのためにも、読み応えのある記事には別の還元法を考えないといけない。課金をうまくできないと、本当に優れた書き手が集まるのか、との疑問もある。

「いままで僕らは“新聞配達少年です!”」とも言った。

記事の中身について、それまで手を出してこなかったが、徐々に編集の業務委託をするぐらいにはきたかな、と・・・。

伊能忠敬は測量の旅に出るとき、道具を使わず自らの歩幅で距離をはかる「歩測」を選んだ。そのことで、作家・井上ひさしさんは小説『四千万歩の男』で想像をかき立てた。

正確を期すため、道の水たまりも犬のフンもよけず、愚直に歩んだ一歩一歩なのである。その一歩の正確さこそがなによりのクオリティなのであろう。

デジタルという新メディアにあぐらをかかず、自身の歩幅のクオリティを試し続ける宮坂学さんにも、忠敬と同様な感覚があるような気がしてくる。

 

しょせん人生は活動する写真

 

明治から大正時代、映画は「活動写真」と呼ばれていた。
「写真が動いているぞ!」ということからの呼称のようだ。

スクリーン投影方式の映写機であるフランス製のシネマトグラフ、アメリカ製のヴァイタスコープが、明治30年(1897年)頃に日本で公開された。

モノクロの無声映画だったが、作り手も観客も“写真”が“活動”することに、大きな喜びと驚きを感じていた。

その時代、フランスで制作された『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、列車が駅のホームに到着するだけの作品だが、そのまま客席に突っ込むのではないかと、叫び声を上げた観客もいたそうだ。

無声映画に対して、画面に応じたせりふや音楽などが伴うトーキー映画(発声映画)が最初に上映されたのは1900年のパリで、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要したという。

 

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当時の活動写真館は現在の映画館よりもずっと活気があり、スクリーンに向かってかけ声をかける観客もいた。スクリーンの横で全配役を演じ分ける“活動写真弁士”や生演奏をつける“楽士”がいたため、日本独特のライブ感で発展したそうだ。

思えば、溝口監督、小津監督、黒澤監督たちの名作には、無声映画の要素がふんだんに感じとれる。

車にファクス、ビデオデッキ、ワープロにパソコン、インターネット・・・と続き、
<そんなに情報集めてどうするの そんなに急いで何をするの 頭はからっぽのまま>。2006年に亡くなられた茨木のり子さんの『時代おくれ』という詩にある。

持ちたくないもの、触れたくないものを並べ、<もっともっと時代に遅れたい>と書いた。

 

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<ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて>。こちらは『自分の感受性くらい』と題する一編である。

<自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ>と。なかなか小気味が良い。

茨木のり子さんの詩『笑う能力』は、手紙の一節からはじまる。
<先生 お元気ですか 我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました>。

漢字の書き間違いは、読み手の想像力を刺激しておもしろい。はたして“柿”の誤字か、“気”の脱字なのか。

劇作家・宇野信夫さんも、知り合いの大学生からもらった手紙を随筆に記した。
<故郷へ遺産争続のために帰りました…>。“相続”が“争続”にかわると穏やかではいられない。

人事異動の季節も近い。<餞別を銭別と書いて本音ばれ>(サラリーマン川柳)。
大好きな川柳のひとつである。

今はコンピュータの変換ミスが大手を振っているようだが、(心をこめて書いた)手紙でのミスはおもわず微笑んでしまいそうだ。

デジタルはなんでもできて便利だが、フィルム写真が動いて活動するようなアナログ感覚はまだまだ捨てがたいものである。

 

「時」とは魔法のようなもの

 

2006年のトリノ冬季五輪スピードスケート女子500メートルで、岡崎朋美選手は0.05秒の差でメダルに手が届かなかった。

それを伝える当時の新聞記事の形容が、とても印象深かった。

25億円分の1円玉を1枚ずつ積み上げていく。それが空の高みに立つと、はるか眼下に地上は霞んで見えるほどだという。

24億9999万9999枚を積み、手のひらに残る1枚。その1円玉ひとつを置き換えて、“0.05秒”という時間が「4年という時間の約25億分の1」になるそうだ。

 

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ときに勝負の神様は非情でつれない。時間というのは不思議なもので、記憶をとどめずに過ぎていく1日がある。印象が薄く思い出せない1年もある。

そして、25億分の1。人々の胸に刻まれる0.05秒もある・・・のだと。

七曜(しちよう)とは1週間の曜日のことであり、太陽と月に火・水・木・金・土の5惑星を合わせた名称でもある。

<おかげさまで、月月火水木金金の忙しさです>。
古き昭和の時代には、商売のこんなあいさつが聞かれた。

土日が永遠にこない1週間の言い方であり、戦時中は厳しい訓練の日々が軍歌にうたわれた。

戦後の高度成長時代では、モーレツに働くことがたたえられ、その価値観はつい最近までしぶとく残っていたかに思える。

 

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アリという生物は、効率よい“休み”の取得により集団の絶滅を防いでいるようだ。
アリの集団には常に2~3割働かないものがいる。しかしサボっているわけではなく、働くアリが疲れてくると代わりに動き始めるらしい。休まないと、群れも個体も衰弱する。

休みは職場だけのことではなく、個々に子育てや介護に追われ、その先には危機が深まっているようにも感じる。

月火水木土日日・・・と。すでに週休3日制を始めた企業もあるとは訊くが。

地球環境を語るとき、引き合いに出されるクイズがあるらしい。

ある池では蓮の葉が1日たつと2枚に増える。2日で4枚、3日で8枚・・・。
計算すると、30日で池は覆い尽くされることがわかった。

それでは、池の半分が蓮の葉で埋まるのは何日目だろうか? 
答えは、“29日目”なのである。

破局の瞬間が翌日に迫っている。それでも<まだ、半分残っているさ>と、たかをくくっているうちに手遅れになるのが、地球という名の池。

近年の大災害や各国を治める者たちを見るたび、このクイズをジョークとして受け取ることはできない。

 

人の中にある曖昧さが面白い


ラーメンを食べたくて入った店で、迷わずカレーを注文して、カレーを食べながらあきれ返っていることがよくある。思うこととやっていることの“矛盾さ”がふしぎなのだ。

外来語を重ねた日常会話もかなりの矛盾含みだ。

<車でドライブ中に不慮のアクシデントに遭遇してしまった。コインパーキングの駐車場に止めようとして、後ろにバックしたら、また思いがけないハプニングが発生。よりベターな運転を心がけたいものだ・・・>などと。

“平均アベレージ”、“製造メーカー”、“排気ガス”なども平気で使っていそうだが、アベレージは平均、メーカーは製造業者、排気の“気”はガスなのでかなり怪しい会話になってしまう。

 

1786

 

政治家志望だった武者小路実篤さんは、10代の頃の失恋がきっかけで文学に目を向けたらしい。お相手は3歳年下の商家の娘で、失恋を10年近く引きずった末、短編小説『初恋』を著した。

童話作家アンデルセンは、(職人の道に進めという)母を振り切り、「ぼくは有名になりたいのです」と言い切った。やがて才能は花開き『醜いアヒルの子』を書いた。

人の自尊心も得体の知れないモノらしいが、イジメられっ子を励ますことは人生の第一目標ではなかったようだ。

人の細胞の数は? といえば迷わず「60兆個」とこたえていたが、その説に異論が出ている。イタリアとスペインの研究チームが正確な推定をしようと、2013年に論文を発表した。結論は37兆2000億個だという。

身体の大きさによる個人差はあるが、これまでの定説よりもかなり少なめになってしまった。

 

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赤血球の数を計算してみると、人ひとりの血液量は体重の13分の1程度ということで、60キロ弱の体重の人でだいたい4.5リットル。

赤血球数の総計は、4.5×5×1012=2.25×1013個(22兆5千億個)という計算になるらしい。

新たに発表された細胞総数37兆個のうち、赤血球だけで全体の60%を占めることになる。ただ、37兆個という数字が血液細胞を除いた構造部分の細胞だとすれば、赤血球の割合がもっと低くなるはずだが。

地球人口を70億人とすると赤血球数はその3000倍になるとか。その赤血球の通路となる血管をつなぎ合わせると10万キロで地球2周半になるという。

なんと、地球2周半に及ぶ通路を、地球人口の3000倍の個数の細胞が行き交っているのである。

途方もない数の赤血球が体中のどんな細胞に対しても酸素を送り届け、老廃物である炭酸ガスと交換する作業を続けているというからすごい。その膨大な数は想像もできないくらいに曖昧ではあるが・・・。

まだまだ寒い季節である。温かい風呂に入ったり、よく運動することは大切なこと。
曖昧ながらも肝に銘ずるようにしていきたい。

 

雑煮から味噌汁のよもやま話

 

<こんなに揃って雑煮を食ふのは何年振りですかなア、実に愉快だ、ハゝー松山流白味噌汁の雑煮ですな。旨い、実に旨い、雑煮がこんなに旨かったことは今迄ない。も一つ食ひませう・・・>。

正岡子規さんの随筆『初夢』にある。

正月にて年賀のあいさつであろう。
他家を訪れて通された座敷に、3つ、4つと雑煮の膳が据えてある。

子規さんがこの随筆を書いたのは亡くなる前年の1901年(明治34年)の1月である。
すでに寝たきりの身で、年始回りはできない。
大いに談じ、大いに食い、<夢が覚めた>と結ばれている。

ちょっと切ない覚めぎわではあるが、雑煮への想いは今の時代でもよくわかる。
関東のしょうゆ、近畿の白味噌、中部以東の角もち、近畿以西の丸もちなどと、それぞれの土地やその家に違いはあれど、十人十色の顔がうれしい。

 

1784

 

この正月わが家で「雑煮を正月しか食べないのはもったいない」との会話を家族と交わしたが、なかなか正月以外に食べるきっかけがない。

雑煮の話の関連でふと脳裏に浮かんだものがある。

味噌汁である。子どものころから大好きで、毎日食卓に並んでいた。それがいつしか失われている。雑煮ほどの間隔は開かず年間で何杯も食してはいるが、今年に入って何杯食したかの記憶が薄い。

インターネットネットの閲覧で、『ジャパン味噌プレス』という月刊の情報紙があることを知った。

2014年に横浜を拠点に創刊され、“味噌”の良さと活用法を様々に紹介し、5万部を発行とのこと。「味噌汁は若い女性の味方」などとの見出しが興味深い。

編集長の藤本智子さんは2011年に「ミソガール1号」を名乗り、ネットで発信を始めた。
それまでは華やかなアパレル関係の仕事に就き、炊飯器もない生活でダイエットざんまいだったそうだ。

めまいや肌荒れに悩まされたときに、味噌の健康効果を解明する研究者らと出会い、味噌汁に開眼したのだという。食生活の改善で体調が戻った。

 

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藤本さんの活動は、味噌業界の目にとまり、PRのためのイベントに呼ばれるようになった。味噌とダシや具材を混ぜて団子状にしたものを「みそまる」と名づけ、お湯を注いでふるまえば、会場に笑顔が広がる。その仲間たちも増え、全国を回るまでになっている。

若者の味噌離れが進む中、藤本さんはミソガールになって以来、味噌にどっぷりとハマり、その美味や楽しさを実感しているそうだ。

おいしくて、人を幸せにしてくれる味噌の魅力を、たくさんの若者や子どもたちへ伝えていきたいとの熱意で、ミソガール、ミソマザー、ミソボーイのイベント出演(ステージ、出前教室、講演会等)をこなしている。

味噌でまちおこし、メディアタイアップ企画など、<味噌に関係することなら何でもやらせていただく>との覚悟で、味噌普及活動や年間約100本も開催するイベント実績を持つ。

業界でつくる「味噌健康づくり委員会」も、彼女らの活動を歓迎し<業界が元気になるよう、力を借りている>とのコメントを発信していた。

これらの話で、雑煮や味噌汁へのときめきを想い起こし、(目の前にあるはずの)健康食品に気づかなかった自分が、とても損をしていたような気になってきた。