しょせん人生は活動する写真
明治から大正時代、映画は「活動写真」と呼ばれていた。
「写真が動いているぞ!」ということからの呼称のようだ。
スクリーン投影方式の映写機であるフランス製のシネマトグラフ、アメリカ製のヴァイタスコープが、明治30年(1897年)頃に日本で公開された。
モノクロの無声映画だったが、作り手も観客も“写真”が“活動”することに、大きな喜びと驚きを感じていた。
その時代、フランスで制作された『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、列車が駅のホームに到着するだけの作品だが、そのまま客席に突っ込むのではないかと、叫び声を上げた観客もいたそうだ。
無声映画に対して、画面に応じたせりふや音楽などが伴うトーキー映画(発声映画)が最初に上映されたのは1900年のパリで、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要したという。
当時の活動写真館は現在の映画館よりもずっと活気があり、スクリーンに向かってかけ声をかける観客もいた。スクリーンの横で全配役を演じ分ける“活動写真弁士”や生演奏をつける“楽士”がいたため、日本独特のライブ感で発展したそうだ。
思えば、溝口監督、小津監督、黒澤監督たちの名作には、無声映画の要素がふんだんに感じとれる。
車にファクス、ビデオデッキ、ワープロにパソコン、インターネット・・・と続き、
<そんなに情報集めてどうするの そんなに急いで何をするの 頭はからっぽのまま>。2006年に亡くなられた茨木のり子さんの『時代おくれ』という詩にある。
持ちたくないもの、触れたくないものを並べ、<もっともっと時代に遅れたい>と書いた。
<ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて>。こちらは『自分の感受性くらい』と題する一編である。
<自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ>と。なかなか小気味が良い。
茨木のり子さんの詩『笑う能力』は、手紙の一節からはじまる。
<先生 お元気ですか 我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました>。
漢字の書き間違いは、読み手の想像力を刺激しておもしろい。はたして“柿”の誤字か、“気”の脱字なのか。
劇作家・宇野信夫さんも、知り合いの大学生からもらった手紙を随筆に記した。
<故郷へ遺産争続のために帰りました…>。“相続”が“争続”にかわると穏やかではいられない。
人事異動の季節も近い。<餞別を銭別と書いて本音ばれ>(サラリーマン川柳)。
大好きな川柳のひとつである。
今はコンピュータの変換ミスが大手を振っているようだが、(心をこめて書いた)手紙でのミスはおもわず微笑んでしまいそうだ。
デジタルはなんでもできて便利だが、フィルム写真が動いて活動するようなアナログ感覚はまだまだ捨てがたいものである。