日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

インスタ映えの隠し味は何?

 

“ロー・ポジ(ロー・ポジション)”は、カメラの仰角をアオル(上げる)“ロー・アングル”とはちがい、カメラの位置を下げること。ロー・ポジ映画の名手といえば、小津安二郎さんだ。その作品は、カメラをほとんどアオらず、低い位置にすえて、わずかにレンズを上にあげていた。

大人の膝位置よりカメラを低く固定して、50ミリの標準レンズで撮った。静かで観やすい作品が多く、細かい演出を随所に感じる。役者さんたちに対する演出は、(ハードボイルドで)人物の感情が表情にほとんど表れない。

張力のある黒澤明監督の画面が鋭角ならば、小津監督の画面はゆったりとした鈍角。このふたりの巨匠は正反対のような感覚で、対比される。

黒澤監督の作品は、物語のテンポの良さとダイナミックな画面。顔のアップも多く、豪雨のシーンも有名。迫力のある時代劇や人間ドラマ、サスペンスを描いた。

 

 

小津作品は、特別な事件が起きたりドラマがあるわけではなく、市井の生活がいつも淡々と描かれるだけ。それでも格調高く本物志向でもある。少しだけ映る絵画も東山魁夷さん、橋本明治さんなどの本物を使用した。強烈な印象が残るということは少ないのに雰囲気に酔わされてしまう。演出を前面に押し出す黒澤作品とは真逆である。

映画界ならぬ写真界では、木村伊兵衛さんと土門拳さんの関係もおもしろい。同時代に生きた2人の写真家は、小津さんと黒澤さんに喩えられることがある。

執拗に対象を追いつめ、カメラに収めようとする土門さんに対して、木村さんはことさらにテーマを強調するのではなく、演出のない自然な写真を撮る。

土門拳さんは深い被写界深度で、女性のシワやシミなどもはっきりと写し出すため、嫌われることが多かったらしいが、木村さんは浅い被写界深度でソフトに撮り、女性ポートレートの名手とうたわれたとか。

 

 

<いつも洒落ていて、お茶を飲み、話しながらいつの間にか撮り終えているのが木村伊兵衛さん>。<人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳さん>。女優の高峰秀子さんは著書に記した。

アナログだけの時代にものすごい人達が同時期に活躍されていたようだ。

数ヶ月前、久しぶりに乗った電車内でふしぎな光景を見た。若い女性が並んで座り、それぞれのスマホで自撮りやツーショット撮影を続けていた。これが“インスタ映え”というやつなのか。撮ってすぐにSNSへ投稿していたようだ。

プリクラ全盛時に育った人たちは我々と違い、合成などのデジタル機能への感性が強い。あらゆるポーズで熟知した効果を狙っている。ただ、なにか違和感をおぼえた。

ふたりの女性はシャッターを押すたび、ポワッ、ポワッと口を開けているのだ。柔和な笑顔が撮れる効果でもあるのだろうか。私はなぜか、口をパクパクさせている金魚を連想してしまった。

 

もはや現金主義のガラパゴス

 

一昨年の通信利用動向調査で、個人がインターネットを利用する際に使う機器の割合は、54.2%のスマートフォンが、パソコン(48.7%)を初めて上回った。世帯による保有割合でも、スマホは75.1%で、72.5%のパソコンを上回っている。

スマホがネット接続の主要機器となっているということだ。子どもたちにも、深夜までスマホに向き合い生活リズムが乱れているケースが少なくないという。大阪府堺市の中学校で調査をしたら、午前0時以降に就寝する生徒は全体の3割超で、長期欠席の生徒に限れば8割にも上ったらしい。

睡眠不足が健康に与える影響を考慮して、就寝と起床の時刻を記録する活動を続けた。解説した独自教材を作り指導したり、生徒に面談で助言もした。その成果として、1年後に全国平均を上回っていた不登校の生徒の割合が大きく減り、学力向上の傾向もみられたとのこと。

 

 

ヒトがITを利用して音楽に新たな地平を開きはじめた時代でもある。千本桜、いろは唄、地球最後の告白を・・・。音声合成ソフト「ボーカロイド」で生まれたボカロ曲は、奔放なメロディーと独特の世界観を背景にした鮮烈な歌詞で、その創造力に目を見張る。

あの初音ミクがデビューしたのは2007年夏だという。わずか10年と少しで数々の名曲を世に送り出してきた。今は、多彩な音楽を(かつてなく)気軽に楽しむこともできる。

その原動力の一端となるのはコンピューターとインターネット等、IT(情報技術)にあるのはまちがいない。自ら曲をつくりたい人たちにとっても、格好の道具が提供されるようになっているのである。

 

 

海外ではキャッシュレス化が急速に進んでいる。やはりITの後ろ盾は大きい。韓国のキャッシュレス決済の比率は9割と断トツだが、欧米でも5割は超えるという。

韓国では、どんな小さな店や食堂でも、レジで現金のやり取りがほとんどないとか。クレジットカードや電子マネー、さらにはQRコード読み取りも幅をきかせ、およそお札の出番がないのだと。

かたや、2割程度という日本はもはや、現金主義のガラパゴス状態とさえいわれるらしい。ATM網の発達をもたらしたのが、日本人の現金主義である。それがまた“信仰”を増幅してきたのか。

この先10年以内に4割という政府目標もどうなることか。海外からの観光客も増やしたいことだろう。キャッシュレスに慣れ切った外国人は、日本での現金買いが枷になり、“財布の紐”が堅くならないことを祈る。

こうなれば、2024年度発行予定の新札のお披露目をかねて、「安全で美しいお札」の体験ツアーでも企画して、外国人に売り込むのがよろしいのだろうか。

 

視点はミステリーのごとくで

 

<万引きで 奪い取ったよ 最高賞>(関根 悟さん)。昨春、新聞にあった時事川柳である。是枝裕和監督の『万引き家族』が第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに選ばれた。

その授賞式で、ケイト・ブランシェット審査委員長が、コンペ部門の作品は「目に見えない人々に声を与えた」と述べた。是枝監督も記者会見で<見過ごしてしまったり、目を背けたりしてしまいがちな人々をどう可視化するかは、映画を作る上で常に自分の中心にある>と語っている。

万引き家族』という作品は、都会の片隅で、生きていくために犯罪を重ねる家族に焦点を当てたのである。“目を背けたりしてしまいがちな人々”こそが、是枝監督にとってミステリーなのかもしれない。

 

 

歴史家の磯田道史さんは、テレビなどで歴史の謎解きに関するお話をしているときに“活き活き”とされている。それを聞いて、こちらも興味が湧いてくる。

三方ヶ原の戦いで、京に向かう武田信玄徳川家康が迎え撃つ。大敗した家康は浜松城に逃げ込むが、信玄はなぜか追討していない・・・のだと。磯田さんは自著でその謎を解いている。

織田信長からの援軍を調べると、通説では3000人であったがそれを大きく上回る2万人が分散配置されていたとみられ、信玄は容易に手が出せない状況にあったらしいのだ。江戸幕府が伝えた秘蔵文書が歴史に光をあて、それにもとづく推論だという。

さて、昨年の平昌(ピョンチャン)冬季五輪では、カーリング女子日本代表チームのメンバーが試合中に発した「そだねー」が、“いやされる”、“かわいい”などと開催中から各種メディアをにぎわせた。

そだねー」の言葉自体は私たちもなにかのときに使っている。それがあれほどに騒がれた、というのがふしぎでおもしろい。

 

 

そだねー」が北海道弁かどうかとの論争もあったが、メンバーらも「方言とは思わなかった」とのこと。ご本人たちが“そだねーブーム”に驚いていた。

“方言”は近代期の国語政策のあおりをうけ、長らく恥ずかしくて隠したいものであったという。1980年代にはテレビなどの普及にて、共通語が誰でも使える普通の言葉になったため、だれもが使えるものではない“特別な言葉”としての価値を持つようになった。

インターネットの時代には、キーボードでの“打ち言葉”が普及した。話すように打ちたいという感覚で“方言”の人気が拡がった。

2000年代では、女子高生の方言ブームがマスメディアに取り上げられ、女子が“かわいさ”を求め、携帯メールに“方言”をあえて盛り込むということになる。それは“方言に萌える”という感覚だったとか。

カーリング女子に関しては、ピンマイクにより(聞こえないはずの)選手の“声”を耳にすることができるようになったことが大きかった。それも、“もぐもぐタイム”での会話だったからあれほどまでにウケたのであろう。

 

今週のお題「アイドルをつづる」

一つの出来事を巡るエフェクト

 

<わけがわからん>。超ワンマンの永田雅一大映社長は言い放った。黒澤明監督が撮った『羅生門』の試写を見たときのことだ。その作品は1951年のベネチア国際映画祭でグランプリを獲得。

戦争の傷が癒えぬ世の中も大いに沸いた。クロサワの名が世界にとどろく大きな契機となった。もちろん、永田社長も受賞作を一転して激賞した。

羅生門』の原作は芥川龍之介さんの小説『藪の中』である。一つの殺人に四つの異なる証言がなされる映画の内容が由来で、「ラショーモン・エフェクト」という国際的な心理学、社会学用語までもが誕生した。

ラショーモン・エフェクトをわかりやすく言えば、“真相はやぶの中”の喩えがなじみ深いかもしれない。

 

 

黒澤明監督の反骨的エピソードは多い。映画『赤ひげ』で、杉村春子さん演じる女主人がおかみさん連中から大根で頭をぽかぽか殴られるシーンもそうだ。

相手は大女優のため殴る方はどうしても遠慮する。撮影は難航したが、監督は満足できず何度も撮り直した。杉村さんは最終的にどれだけ殴られたのか。

創作には、強い思い入れが必要なのだろう。ニーチェは説いた。“人間は赤い頬をした動物”に分類され、しばしば羞恥を感じなければならなかった。歩みを止めて、省みては自分を恥じる。人が人たるゆえんだ・・・と。

<特別なことは何もない。ただタイプライターの前に座って血を流すだけだ>。こちらは、文章を紡ぐ苦しみを言い当てたヘミングウェーの言葉である。

 

 

辞書にも名文があるという。個性的な記述で知られる新明解国語辞典の「世の中」は、有名らしい。<個個の人間が、だれしもそこから逃げることのできない宿命を負わされているこの世>なのだと。そこには複雑な人間関係がもたらす矛盾や、許容しうる面と怒りや失望をいだかせる面とが混在する・・・と続く。

歴史ある旅館などで<文人墨客に愛された>とのフレーズを目にすることがある。昔の芸術家はよく長逗留して小説を書き、絵などの作品を描いた。神奈川県茅ケ崎市にある「茅ケ崎館」は明治32年創業の旅館で、日本映画の巨匠、小津安二郎監督の仕事場としても有名だったらしい。

<やっぱり映画は、ホームドラマだ>との言葉を残した小津監督は、家族の映画を撮り続け、今も世界中で根強い人気を誇る。『東京物語』や『早春』など名作のシナリオは、茅ケ崎館で生まれた。

私の住居から茅ヶ崎は、クルマでも電車でもそう遠くはない。この旅館の付近を仕事で訪れた時期もあったが、その旅館のことは最近知ったばかりである。目先のことに追われる我が身も(この世に関して)疎いことばかりのようだ。

 

五月の蝿はなぜうるさいのか

 

ドイツの思想家、ゲオルク・リヒテンベルクいわく<蠅は叩かれたくなければ蠅叩きの上にとまるのが安全である>のだと。能の囃子方の話では、蚊のなかにも知恵の回るのがいて、鼓を持つ手ではなく、打つほうの手にとまる・・・らしい。

さて、昔の小説などでは「五月蠅い」と書いて、“うるさい”と読むことがよくあった。今月は5月であるが、蝿がうるさいとはとくに感じられない。昔と今はちがうのだろうか。

“うるさい”との言葉には、“物音が大きすぎて耳障り”や“面倒くさくていや”などと不快感に通じる意味にもなるが、“技芸が優れている”や“物事に対して見識を持ち細かいところまで気にする”などと、マニアックな意味合いもある。

 

 

今、日本の流行歌を「歌謡曲」とは呼ばない。歌謡曲のイメージといえば、“昭和”やアナログの“レコード盤”が思い浮かぶ。今の演歌やJポップなどとの共通は、部分的には見つけられるが、ジャンルを超えて一括りになった楽曲の集まりだったのかもしれない。

<おそろしくフトコロの広い、大きな器>だと、歌謡曲の定義を試みたのは作詞家の阿久悠さんであった。

謡曲全盛は1970年代であっただろうか。この時期にシンガー・ソング・ライターが多く現れて、“私たちのウタ”が“私のウタ”へと切り替わる。専門の作詞家と作曲に依頼していた楽曲も、シンガー・ソング・ライターが流行歌の歌手に提供してヒットを連発する。

今は、個人的な他愛のない独り言をボソボソ歌っているようなものばかりに思えることもある。だから、CDを買って保存する気にならず、データの配信(ダウンロード)が主流に取って代わられてしまうのか。音楽市場の分裂化はますます進みそうだ。

CDが全盛前の、LPレコードのジャケットも立派だった。直径30cmサイズで、写真や楽曲情報などアナログの付加価値も豪華だった。

 

 

レコード盤の時代、音に五月蠅(うるさ)いオーディオマニアの人がたくさんいた。お気に入りのレコードは2枚買って、1枚はまったく針を落とさず保存用にした。また、ある人は買って一度だけレコードで聴くが、そのときにオープンリールやカセットのテープに録音して、その後はテープで何度も聴く。

アナログのレコード盤はテープより音がいいが、難点は針を落として傷がついたり、ホコリやカビも大敵。回数を重ねて聴くにはリスクが伴うのである。

謡曲とは別に、クラシックやジャズ、ポップスの名曲を、幼いころからなんらかの形で聴いていた。小学校の放送でもクラシックが流れていた記憶がある。

無意識のうちに擦り込まれ、左脳で捉えていないので曲名や作曲者のわからないものがほとんどである。よけいなウンチクがないまま、クラシックやジャズを楽しく聴いてしまう。

どこかで聴いたことがあるようでない曲が一番いい、と玉置浩二さんが語っていた。夢の中や寝起きに曲が浮かび、あちこちへ確認して他にないと判明してから曲ができるのだ。ポール・マッカートニーの『イエスタデイ』も同じであった。

 

時は流れずに積み重なるもの

 

切れ味が悪いと刃を折り新しい刃先を使う。カッターナイフは1959年に日本で誕生した。当時の靴職人が使っていた“ガラス片”と“板チョコ”の組み合わせが着想のヒントになったという。

靴底を削り取るのに、職人はガラス片を打製石器のように先端を割って使った。切れにくくなったナイフも同様に、刃先を板チョコのように折れば、何度も1枚の刃が使えるのでは・・・と。開発したのは、(当時)印刷会社に勤めていた岡田良男さん。

仕事を終えると岡田さんは研究を続け、1956年に試作品が完成。その3年後に岡田さんも製造・販売に乗り出して評判になる。60年後の今も使われ続けている長寿商品だ。

<きょうから春、今こそ秋、身にしみてそう感ずる瞬間が年に何度かあるものだ>。随筆家・白洲正子さんは『人間の季節』の一文に書いた。新しいアイデアを感ずる瞬間と自然は似ているのか。自然を生業とする人や職業も多い。

 

 

昨年から気象庁は、降雨や台風などの気象予報を改善。1時間ごとの降水量予報を、それまでの6時間先から15時間先までに延長。気象予測の計算をする新型のスーパーコンピューターの運用で、従来より処理速度が10倍、データ量も30倍向上した。

夕方の時点で翌日の明け方までの大雨が予測できるため、避難などで早めの対応につなげられ、屋外での作業やイベント、販売業などでも、食材や商品の(事前の)仕入れ調整がやりやすくなる。

<時は流れない。それは積み重なる>。サントリーの名コピーである。

ウイスキーは、原酒の熟成を待つ。やはり、自然との関わりが大きい商品だ。連続テレビ小説『マッサン』のモデルになった竹鶴政孝さんは“日本のウイスキーの父”と呼ばれた。

1934年、北海道余市町に「大日本果汁株式会社」を設立した。ウイスキーをつくる仕事は、何年か先を目標とする気長な事業。よい原酒を熟成するまで事業がもちこたえるかどうか・・・と。

 

 

まず、竹鶴さんは地元産のリンゴの果汁からジュース作りを始め、ジュースが事業の支えとなった。待望となる“ニッカウヰスキー”の第一号はその6年後に完成。“ニッカ”の名称は“大日本果汁”の略である“日果”から生まれた。

十数年に及ぶ時の積み重なりを味わう酒こそがウイスキーである。しかし、嗜好には年々変化が伴う。世紀の変わり目の時期、日本でウイスキー離れが起こった。焼酎類がもてはやされ、日本酒やビールも落ち込む。ウイスキーの原酒の仕込みは当然、控えめにせざるを得なかった。

10年前、ハイボールの人気が再燃した。テレビCMが話題になったのだ。また、日本産ウイスキーの評価が国際的に高まりブームに拍車がかかった。朝ドラでウイスキーブームも「マッサン効果」、「マッサン特需」と頂点に。

さて、チャンス到来・・・とばかりにいきたいが、原酒に限りがありすぐ増産に応じられない。十数年先のウイスキー人気がわかるスーパーコンピューターがあれば、なんとかなったのだろうか・・・。

 

宅配ビジネスの原型は天秤棒

 

夕方ニュースの『Nスタ』(TBS)を見てホラン千秋さんのファンになった。メインキャスターを務めて2年というが、頭の回転がよく、とにかく上手いのである。

芸能界入りは中学生の時で、初めての仕事は『魔法戦隊マジレンジャー』という戦隊モノだという。それはヒロインではなく、悪役だったそうな。以前、テレビのトーク番組でご本人がおっしゃっていた。

その後の芸能活動は順風満帆というわけでなく、オーディションを受けて落ちてばかりだったとか。

同じ歳では、新垣結衣さんや戸田恵梨香さん、吉高由里子さんたちがいて、売れっ子になっていくのを見て、焦りと嫉妬が続いたという。

 

 

仕事がないまま大学生活を鬱々と送り、就活ではテレビ局を選考。すべての民放キー局アナウンサー試験を受けるも全敗だったとか。語学も堪能なホランさんの才能を、(当時の)各局の試験官は見抜けなかったようだ。

転機が訪れたのは女優を諦め、情報番組やバラエティーの仕事をやりだしてからであった。私も今は、ホランさんの出る番組を見つければ、必ずチャンネルを合わせるようにしている。

さて、卒業後も仕事が決まらないホランさんは、寿司屋のお茶運び、スーパー銭湯の受付、スーパーのレジ打ちなどとバイトに明け暮れたそうな。

ホランさんのバイト時代のスーパーやコンビニは、今のような宅配サービスをまだ行っていなかったと思う。食品などを宅配するビジネスが広がっている。私も便利に使わせていただいているが、そのビジネスのスタートは、最近かと思いきやそうでもないらしい。

 

 

その原型は、江戸時代にあったという。当時の人々も、自宅に居ながらにして買い物をしていたのだ。江戸落語の名作『芝浜』では、客の前で“振り売り”の熊さんが、魚を見事にさばいて刺し身にするシーンが演じられる。

江戸の暮らしの中で、籠や桶を天秤棒にぶら下げた“振り売り”の行商は日常的だったようだ。時代劇ドラマでも見たことがある。

醤油に味噌。魚や野菜などの食材や生活用品はたいてい買えた。冬には、熱かんやおでんを売り歩いた商人もいたらしい。

現存の文献では、万治2年(1659年)に幕府は<50歳以上などに限り振り売りを許可する>とのお触れを出しているという。振り売りなら、店舗や専門技術がなくても始められて、体調に合わせて自由に働ける。高齢者にふさわしいと幕府は考えた。

宅配サービス・高齢者支援などと、「昔も今も同じことをやっている」というところが興味深くておもしろい。

 

視覚的な文章にはスピード感

 

アクションは小説においても、視覚的に“見せる”ものらしい。作家・矢月秀作さんのコラム記事にあった。その大事な要素にあるのは“スピード感”だ。

アクション小説ならではの手法として、文章でスピード感をどう表現するのか。まずは、“センテンスの切り口”とのこと。文章にリズムを出すため、長短のセンテンスを使い分けて、短い文章でスピード感 を出すのである。

<右ストレートを相手が放つ。とっさに身を低く避ける。すかさずフックとボディーを叩き込む>。こんな具合に、短く切るとスピード感が変化する。なんだかシナリオのト書きみたいで楽しい。

あと、注意をするのは、一ページの“白み”だという。改行がなく文字を続けると、紙面が黒くなる。そうなるとせっかくの軽快なシーンも重くなってしまう。長短の文章を並べて白みを見せ、横の流れでもスピード感を演出する・・・という。

 

 

昭和の時代に読んだ吉川英治さんの『宮本武蔵』にも、“スピード感”あふれるシーンがいくつもあった。武蔵の武勇伝での戦法が描かれるシーンや、ライバルであった佐々木小次郎の凄さを表現するシーンなどである。

小次郎が岩場で「燕返し」の鍛錬をするシーンでも、かなりのスピード感を受ける。それからは、今でもツバメを見るたびにそのスピードに酔いしれてしまう。

<燕啼て 夜蛇をうつ 小家かな>(蕪村)。(はりなどに巣を作る)ツバメの鳴き声でヘビが家に入ったのを知り、退治したとのこと。ツバメと(ヘビの侵入を教えてもらった)人の共存共栄がここにある。

大昔に人が洞窟で暮らしたころから、ツバメは人目のあるところに巣を作ってヘビやカラスなどの天敵から身を守ってきた。

<燕が巣を作るとその家は繁盛する>。西洋、東洋にもツバメの巣は家に幸福をもたらすという俗信はある。

 

 

1654年、武蔵の死後9年目に(小倉の)顕彰碑「小倉碑文」が建立された。そこには、宮本武蔵佐々木小次郎の巌流島での決闘のことが刻まれている。<岩流(佐々木小次郎)は“三尺の白刃”を手にして決闘に挑み、武蔵は木刃の一撃でこれを倒した>と。

刃長3尺余(約1メートル)の野太刀「備前長光」の小次郎に対して、武蔵は滞在先の問屋で貰った艫を削り、小次郎の長刀より少し長い木刀を振り落として破った。小次郎の死因は頭部打撲である。

ツバメの飛行速度はおよそ50~200kmといわれ、とびぬけて高い飛翔能力である。小次郎の剣はその速さにも対応する・・・との話であった。

ツバメは帰巣本能も優れている。3月下旬~4月上旬ごろに渡来するが、主な越冬地である東南アジア諸国から日本までの飛行距離は数千kmにもなる。しかも、その長い距離を集団ではなく1羽ずつ飛んでくるというから恐れ入る。

 

常識はずれで制する巧みな技

 

“オープナー”なる野球の戦法を最近知った。リリーフ起用される投手が先発登板して1、2回の短いイニングを投げたのち、本来の先発投手をロングリリーフとして継投する変則の投手リレーだ。2018年のMLBで、タンパベイ・レイズが先発投手の足らない状況を補うために編み出した苦肉の策らしい。

剛速球のリリーフ投手が、初回に当たる上位打順の強力な打者と対戦。上位打線を抑えれば、本来の先発投手は打力の落ちる下位打線から始められる。上位打線との対戦を減らすことで被打率を低く抑える可能性が高まるからだ。

オープナーの採用後、レイズは平均防御率が減少。チームの最終成績は90勝72敗と大きく勝ち越した。

 

 

岡田彰布監督時代、阪神のJFKもすごかった。(J)ジェフ・ウィリアムスさん、(F)藤川球児さん、(K)久保田智之さんの3人のリリーフ投手の組み合わせをセットで使い、前半のリード点を確実に“モノにする戦法”である。

JFKの誕生は球界の革命ともいわれた。2005年に阪神はリーグ優勝したが、6回までにリードしている場合の勝率は9割を越えた。そして、JFKの3人が揃って登板した場合の勝率は実に8割を占めたのだ。2005年のチーム奪三振数は1208で、当時の日本記録1126個を大きく上回った。

今もMLBのシフト守備は画期的であるが、日本で半世紀以上前にすごい光景があった。広島の白石勝巳監督(当時)が1964年頃に考案した王シフトである。合理主義者の白石さんは巨人との戦いで、ON砲のどちらかだけでも抑えたいと思案した。

そして、直感力に長けた長嶋さんより、王さんの方が対策を見出しやすいのでは・・・と。王さんの打球が極端に右方向に多いのを試合中に感じてデータ分析させた。デビュー戦以来の全打席の打球方向を集計すると、7割がセンターから右方向だった。それならば、守備位置を右に寄せればいいとの結論を得た。

 

 

王さんが流し打ちをしてきたらどうするか。自軍のコーチ陣から異論が出た。しかし、監督には確信があった。

一本足打法はタイミングが命。もし流し打ちをしたらバッティングフォームを崩す。修正するには時間が掛かる。王さんは絶対に引っ張ってくるはず。白石さんは王さんの自尊心を見抜いていたのだ。

一塁手を一塁線へ、二塁手をより一塁側へ、遊撃手は二遊間へ。そして、三塁手は遊撃手の守備位置へ、外野手はそれぞれ右方向へと移動する。フィールドの右半分に野手が6人という極端なシフトが完成した。

思えば王さんの“一本足打法”と、イチローさんの“振り子打法”も常識はずれの産物であった。どちらも、打撃のタイミングをつかむための練習用の打法であった。公式戦で使ってはみても、当時の監督から直すように何度も命じられた。

王さんとイチローさんは拒否を続けた。それがあったからこそ、世界記録を更新する活躍へと導かれることになるのである。

 

あのヒーローのベストシーン

 

この名を聞くと今も胸躍る。テレビが物珍しい昭和33(1958)年に、『月光仮面』という変身ヒーローが登場して夢中になった。また同じ年には、スーパーヒーローがプロ野球にデビューしている。イチローさんの語録は有名であるが、このヒーローも(語り継がれる)多くの語録が尽きない。

長嶋茂雄さんである。ご自身のキャリアの中で“ベストシーン”と振り返る試合は、伝説のあの試合。1959年6月25日(後楽園球場)の巨人―阪神戦。プロ2年目の長嶋さんは、昭和天皇香淳皇后を迎えて行われたプロ野球初の“天覧試合”で、サヨナラホームランを放った。

開幕から安打を量産し、打率首位をキープしていた長嶋さんも、大舞台を意識したのか、直前の2試合は無安打だった。天覧ゲームの前日、午後10時に床に就いたが、寝入ったのは午前1時頃。翌朝に試合で使うバットを決めた。

その決め手は“音の形”だったという。その1本はスイングをして<振った瞬間の音(おと)の音(ね)がとてもよかった>のだと。

 

 

午後7時に試合開始。開始が近づき陛下、陛下と気持ちが向かっていく。プレーボール後に、貴賓席を見上げた時の光景が鮮明に残る・・・という。長嶋さんの守る三塁から貴賓席がほぼ正面にみえて、上を向くと陛下、下を向けばボールと全てが視界の中にあった。

スター選手が揃う巨人と阪神の試合は、ただでさえビッグゲームであった。それが初の天覧試合なのだからなおさらだ。

5回裏、名投手の小山正明さんから長嶋さんは同点ソロ本塁打を放った。続く坂崎一彦選手も連続本塁打で勝ち越した。しかし、阪神は6回に3点を挙げて逆転。7回には新人の王貞治選手がホームランを打ち同点にした。ONのアベック本塁打は初で、華々しい(コンビの)活躍がスタートをした。

阪神は新人の村山実投手を救援に送った。長嶋さんにとって、かけがえのないライバルになる熱血漢であった。7回の打席で長嶋さんは三振を喫した。

 

 

村山投手と長嶋さんの次の対決は9回裏、先頭打者として迎えることになる。<打者に対してピッチャーはいろいろ研究して、いろんな方法で投げてきますが、バッターはね、来た球を打つんだという意識。それだけ>と長嶋さん。

2ボール2ストライクから勝負の5球目、胸の内は無心であった。強気の村山投手が決して逃げないことも熟知している。(予想通り)インコース高めに速球がきた。見逃せばボールだ。それを思い切って振った。打った瞬間にホームランという高い打球が左翼へ・・・と。

一塁へ走りかけて長嶋さんは「ファウルになるかも」と立ち止まったが、左翼上段への着弾を見届け、最高の笑みを浮かべた。身を乗り出して観戦される昭和天皇香淳皇后

サヨナラ本塁打による終了は午後9時10分。両陛下の退出予定時刻の5分前だった。長嶋さんがホームへ帰ってきたときには、<陛下がね、(ご退出のために)お立ちになってました>とのこと。

一進一退の攻防は巨人5―4阪神。村山投手はがっくりしたまま動けなかった。その後、61歳で亡くなるまで<あれはファウル>と訴え続けた。

60年前のあの名シーンを、私はリアルタイムのテレビでは見ていない。『月光仮面』は見た記憶があるのに・・・残念だ。