日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

風や雲と語るのが一番なのか

 

こういう話が好きである。<どういう局面で長考するのか>との問いで、昭和の名人・大山康晴さんは即座に答えたという。「うまくいきすぎている時だ。落とし穴はないのか、と」。棋士はときに手番の一手を指さず、深い瞑想に沈む。

ノートに書いたことは消しゴムで消してはいけない。“山びこ学校”の無着成恭(むちゃくせいきょう)さんは子どもたちにそう教えたらしい。そして、「消さずに赤鉛筆でバツをつけなさい」と。

消しゴムで消してしまうと、はじめに自分はどういう考え方をしたのか。どういう間違いをしたかが分からなくなる。消しゴムで消す人は同じ間違いを何度でも繰り返す・・・とも。

具体的でとてもわかりやすい教えである。

 

 

こちらは具体的ではいけないらしい。昔にあって今はない気象用語の“梅雨入り宣言と梅雨明け宣言”である。気象庁が発表の方法を見直して今年で25年目だという。

ときに、梅雨前線はプロの予報官をだますような動きをするため、代わりに登場したのが「梅雨入りしたとみられる」などの推測調の表現である。宣言を取り消すなどの混乱を避けるための処置らしい。変更当時は曖昧で評判もよくなかったようだが、今はそれほど気にならない。

それにしても、最近の天気予報はあてにならない。昨日も地元では21時くらいから雨だと言っていたが、14時あたりから降り始めた。こちらも予報を信じて外での用事を予定したがキャンセルになってしまった。

直近の気候変化なら雨雲レーダーが正確で役に立つが、前日や早朝の天気予報にはよく裏切られる。

昔の人は南の風と会話をしたという。もちろん、天気予報などない時代だろう。黒い雲が雨を落とす黒南風(くろはえ)や強く吹きすさぶ荒南風(あらはえ)。そして、ほんのり空を白くする白南風(しらはえ)が順に訪れ、梅雨が終わるらしい。

 

 

長雨で川を渡ることがかなわず仕方なく、安宿に長逗留する浪人者の夫婦。山本周五郎さんの『雨あがる』は、そこでの貧しき人々の交流を描いている。映画化された作品も秀作で何度も観たくなる。

優しい心を持つ浪人は腕があるのに仕官がかなわない。降りやまぬ雨が、この浪人の人生とオーバーラップする。

長雨で心がすさむ同宿者たちに宴(うたげ)を開いて癒やしたい。浪人は道場へ向かい賭け試合に勝つ。その矢先に、運が向き始め仕官が決まりかかることになるが、せっかくの話も立ち消えとなった。賭け試合が問題となったからだ。

ついに雨があがり、夫婦は再び旅に出る。ぬか喜びだった士官を思えば、雨がまだまだ心に降り続いているだろう。なのに、希望を捨てず前を向く夫婦の表情は清々しい。

この作品のみならず、“雨という枷”がもたらすドラマは多いような気がしてくる。