日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

悪魔のように細心に!天使のように大胆に!

 

私が初めて買った黒澤明監督の本のタイトルが『悪魔のように細心に!天使のように大胆に!』である。たしか、黒澤監督の好きな言葉だったと記憶している。その後も、黒澤監督に関する書物を多く収集している。ただ、今は家の中のどこにしまってあるのかわからない。探すと混乱が予想されるため、インターネットで資料検索をした。すると、どうだろう。さすがに黒澤監督。たくさん検索ヒットをして、十分すぎる資料となった。ここでは自分の記憶や感じたことを中心に書いている。ネットからの資料はあくまでも確認用ということで。

黒澤明監督は、1943年から1965年の22年間に23本撮っているが、資金不足のため1966年から1998年の30年間余りに7本しか撮ることができず、それらも旧ソ連、フランス、アメリカという海外の協力で完成した。私がリアルタイムで観られた作品も資金不足以降のものばかりである。

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小津監督の目線が私の性に合う』でも書いたが、小津安二郎監督のローポジションによるカメラワークや作品作りとはまったく対照的で、比較してみるとおもしろい。

小津監督を「静」だとすると、黒澤監督のカメラワークはまさに「動」である。

超望遠レンズからのパンフォーカスの映像や、複数カメラ、ハンディカメラの機動力を駆使した映像が思い浮かぶ。
超望遠による撮影は、子役などでもカメラを意識させない自然な表情を導くためという目的もあった。また、複数のカメラを同時に回し撮影する、マルチカム手法を取り入れたのは、ワンシーン・ワンカットの撮影で、役者、スタッフの緊張感を高め、リアルで迫力ある映像に結びつけるためである。撮り直しのきかない大スペクタルシーンでももちろん使われた。普通の会話シーンでも複数カメラを使い、話をする側ではなく、聞く側のカットばかりをつないでいくという。いかにも黒澤監督らしい表現である。

ハンディカメラは、『赤ひげ』では、井戸の中へ深く潜るカメラ目線がおもしろかった。『天国と地獄』の走る特急電車の中の動きを撮るときはハンディカメラも活躍していたと思う。身代金を渡す約4分間のために、列車を丸ごと借り切り、8台のカメラで同時撮影を敢行とのこと。それらのカメラワークの効果として迫力のある画面の張力や、まるで絵画をみているような場面が随所に表現されていた。

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撮影後の処理にしても、黒澤監督自らいろいろなことを試している。
七人の侍』で馬の決闘シーンの編集をしていて、シーンの数が物足りないからと、右から左へ走り抜ける騎馬のシーンのフィルムをわざと裏焼きにして、左から右へ走り抜けるシーンに作りかえて付け加えたりした。

『天国と地獄』は白黒作品であるが、煙突からの煙だけに色が付く。今ではデジタル処理でかんたんにできるが、あの時代にはそんなことができるわけがない。黒澤監督は、フィルムの煙のカットすべてに直接色を塗ったそうである。後日談で、映画館で上映されて日にちがたつにつれ、塗った煙の部分がくすんできて色が変わってしまうそうだ。「花見ではないが、本日は見頃と映画館に貼り紙しなくちゃいけない」と豪快に笑いながら(テレビで)言っていた。

演出面でも、『七人の侍』で志村喬さん演ずる勘兵衛によるスローモーションのアクションシーンがある。後にサム・ペキンパー監督など、他のアクション映画でも多用されるようになったが、黒澤明監督が生み出した手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。雨や風、水といった自然描写のうまさや、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさも、多くの外国映画監督たちに影響を与えている。
羅生門』では、どしゃぶりの雨の質感を出すために、墨汁を混ぜた水を放水車で降らせている。骨太のヒューマニズムや、鋭い映像感覚も忘れられない。
徹底したリアリズム。完璧なシナリオ。映像の美学。壮大なスケール。単純明快さ。これらのすべてが黒澤監督の持ち味といえるであろう。

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作品構成では、『生きる』と『天国と地獄』の二分割にはおどろいた。やっと上映館を見つけて、路地裏の映画館で観た『生きる』という作品。平日の昼間であったのか、お客さんもほとんどいない中で始まったが、最初は抹香くさい物語だと思った。それが、二分割構成で途中から流れが変わった。映画のテンポがまったくちがっているのである。あの構成にはおどろいた。また、冒頭にレントゲン写真のアップで余分な説明を省くシーン。その後どこでも見られるようになったが、あれも黒澤監督が生み出したシーンであるようだ。ちなみに、この二分割の構成は、『ジョーズ』などでおなじみである。人間が海で襲われるが、その正体がわからない。それが判明してから、巨大ザメの捕り物へと展開が変わる。

黒澤監督は、クラシック音楽の「起承転結」も映画の構成に似ている、とよく言っていた。それと、能にも興味があったようだ。能の構成は「序破急」の三部構成である。構成とは別に、舞台での動きでも、歌舞伎よりも能がお好みだったようだ。

「良いシナリオから駄作が生まれることがあっても、悪いシナリオから傑作が生まれることはない」
これも黒澤監督の名言で、私も大好きな言葉である。やはり、映画やドラマを観るときは、シナリオを必ず意識している。
有名な話であるが、『七人の侍』を創るとき、黒澤監督は、大学ノート7冊に七人の生い立ちと人生。七つの物語を書いているのだ。
私は、『野良犬』という黒澤監督が書いたシナリオを早いうちに読んでいた。ただ、その映画を観るチャンスがなかなか得られなかった。まだビデオもない時代である。何年も過ぎてやっと観ることができた。その感想として初めて観た気がまったくしなかった。たしかに前に観てる。どのシーンもちゃんとわかっているのだから。でも、実際はシナリオを読んだだけで映画は初めてである。裏を返せば、それだけに黒澤監督のシナリオはすばらしいということになる。具体的であり、頭の中にすぐ映像が浮かぶ。

フランシス・F・コッポラ監督が『地獄の黙示録』を撮影中、ロケ先のジャングルの奥地のテント内で、毎日『七人の侍』を上映してスタッフやキャストたちと観ていたそうである。そうすることの意味がよくわかる。
黒澤監督が映画を創れないとき、次回作のためのシナリオと絵コンテを描いていた。
『影武者』の絵コンテが画集として出版されたが、すばらしかった。『影武者』は公開されるとすぐにリアルタイムで観たが、映画を観てその絵コンテの完成度におどろいた。ひとつ残念であったのは、勝新太郎さんが降板せずに、主演でやってほしかった。絵コンテのそのお顔は、勝さんそのものであったのであるから。
黒澤監督は、当たり前が当たり前でない時代に、新しいことをやった方である。CGにはない手仕事の味。そして、映画は活動写真である、ということを認識させてくれる。
今の映画には写真やフィルムといった概念がないのであろうか。