日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

人と違うすごさを発揮する人

 

往年の名優・加東大介さんは東宝映画『次郎長三国志第5部』(1953年11月公開)で、主役の“三保の豚松”を演じるため、ロケ地の京都にいた。マキノ雅弘さんが監督である。

撮影開始の前夜、マキノさんのもとに電報が届いた。文面は「ブタマツコロセ」。東宝の幹部からだった。加東さん...もとい、豚松を早く殺し(加東さんを)黒澤(監督)に渡せという。加東さんは黒澤明監督の『七人の侍』に出演が決まったのだ。

「何とかしてくれと頼られとるんや」からと、マキノさんは憤るスタッフたちを説き伏せ、注文通りに早々と主役の豚松を殺した。シナリオは白紙になり、筋とせりふを撮りながら考える綱渡りで1本を撮り終えた。

「監督はなめられた」と熱くなるスタッフに反して、“いかようにも撮ってみせる”というマキノさん流の才能への自負であった。

 

 

マキノ雅弘さんは19歳のときの監督作品『浪人街』でいきなり、キネマ旬報の年間第1位に輝いた。それからも娯楽映画の王道を歩いた監督なのである。

年齢、監督歴とも、黒澤さんよりも上の人が堪忍袋の緒を引き絞ったその力には、頭が下がる。

約4万キロを歩いて測量を終えた時、伊能忠敬さんは71歳だった。この方にも頭が下がる。高齢化といわれて久しい今の時代、伊能さんから学ぶことは多い。

伊能さんは下総の佐原(現千葉県香取市)で、事業家として成功した。そして49歳で隠居し家業を息子に譲り、50歳のときに天文学や測量技術を学ぼうと江戸に出る。

伊能忠敬さんの日本地図作りはこうして始まった。

 

 

伊能さんは地球の大きさを知りたかった。そして測ってみたかった。実測は「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれた北海道に始まり10次にわたる。

旅は苦闘続きで、入り組んだ海岸線の踏破にてこずり、現地案内人が藩の機密漏れを恐れて地名を言わないこともあったらしい。

今風にいえばシニア世代の17年を費やし、日本全土を実地測量した。そしてついに、(初めての実測による)日本全図の作成という壮挙を成しとげた。隠居後に在職中を遥かに上回る大仕事を達成したのである。

測量日記には1万2000人の名が残るという。その裏で、現地で作業を手伝ったり、宿を提供したりした人たちの存在があった。その数は、伊能忠敬さんという人物の熱意で、動いてくれた人たちの多さを物語る。

今は、人工衛星を利用するナビやインターネットの地図で、世界中の地域をかんたんに検索ができる時代である。私の世代だと最近という感覚で、仕事や旅行、ドライブでは地図がなくてはならないものであった。それだけに、伊能忠敬さんの偉業はすごい。