日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

今も昔も知らないことだらけ

 

デジタル機器の進化で、その応用はめざましい。
小売店で“顔認識システム”が、万引き防止や客層把握に使われ始めているという。
<カメラで撮影した顔の特徴から同一人物を自動的に検知する>というものだ。

それは、本人の気付かぬうちに、顔データが活用されているケースが、ほとんどなのだろうか。

個人情報保護法で個人識別符号と位置づけられ、取得にあたり利用目的を示さなければいけない個人情報なのではあるが、どこまで実施されているのかは不明である。

たとえば、商品を選んでレジに来た客の顔を、店員の背中側にあるカメラがとらえると、レジ裏のパソコンに「男性35歳 ID・・・」などと表示されたりするのだ。

 

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全国約100店を数える某書店では、全店舗での顔認識システム導入を進めているそうだ。データベースに万引きした疑いのある客の顔データを登録し、来店するたびに検知する仕組みなのだという。

「防犯カメラ作動中」との告知が店にはあるが、顔認識機能があることは触れられていない。“顔認識”の市場は拡大しているが、まだルールは不明確な状態のままらしい。

それは、通常のカメラも顔認識カメラも撮影目的は同じなので問題ない、との考え方に基づくからだという。

日常で見慣れている防犯カメラではあるが、その用途も拡大され、知らぬは撮られるお客さんご本人たちだけなのだろうか。

  

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知らぬといえば、正月にのむ「お屠蘇(とそ)」の正体もつい最近知った。
「お屠蘇」についてのアンケートでも、はっきり答えられる人はほとんどいなかったという。

「お屠蘇」とは、日本酒や本みりんに屠蘇散(とそさん)と呼ばれる生薬を一晩漬け込んだものをいい、ルーツは中国にあるとのこと。平安時代に日本へ伝来し、宮中で使われるようになり、一般に広まったのは江戸時代だ。

一年の健康を願う(体にいい成分がたっぷりの)屠蘇は<邪気を屠(ほふ)り、心身を蘇らせる>という意味があり、元旦に飲むことで一年間元気で過ごせると信じられてきた。

昔の庶民には「七味五悦三会(しちみごえつさんえ)」と呼ばれる風習があった
この1年間で体験した<7つのおいしい味、5つのよろこばしい話、3つのいい出会い>。それがあったかどうか、大みそかの夜に家族で披露し合うのである。

さてさて、除夜の鐘が聞こえるまでは、あと少し・・・。
皆様、よいお年をお迎え下さい。<(_ _)>"ハハーッ

 

宇宙エレベーターのスタート

 

炭素繊維「カーボンナノチューブ(CNT)」は、(近年開発が進む)日本発の先端素材である。髪の毛の1万分の1の細さなのに、鋼鉄より丈夫で軽いという特徴がある。

炭素は、温度や光など条件のちがいで、電気の通りやすさが変化する“半導体”の性質を持つ。地球上の様々な物質をつくる基本元素の一つである。人間や動物の体をつくるたんぱく質や脂質にも(炭素が)含まれるという。炭素に水素などが結びつくと、石油などの化石燃料になる。

CNTは、炭素が六角形に結びつき、筒状に丸まった極細の炭素繊維である。
直径は1ナノ~数十ナノ・メートル程度だという。ちなみにナノの単位は10億分の1。
軽くて柔らかいが、両端を引っ張った場合の強度は鋼鉄の20倍、熱の伝わりやすさは銅の10倍だという。

電気や熱を伝える効率が高いCNTは、デジタル機器に使われる集積回路の小型化や、送電線、耐熱ゴムなどの改良に役立つ。

 

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CNTは、瞬時に充放電する蓄電装置「キャパシター」の電極に使うと、性能が大幅に向上するといわれる。それは、ハイブリッド車電気自動車などの重要な部品への応用はもちろんのこと、宇宙でも応用の場が広がる。

今月の9日に日本の無人補給船「こうのとり」6号機が、種子島宇宙センターから打ち上げられた。“こうのとり”には、実験用の超小型衛星が積まれている。

役目を終えた衛星が、宇宙ごみ(デブリ)にならないようにと、落下させる方法を実験する衛星。また、3Dプリンターで作った長距離通信試験用衛星なども搭載されている。
そして、来年早々には未来技術である「宇宙エレベーター」の基礎実験が始まるというのだ。

 

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宇宙エレベーター”は、高度3万6000キロ・メートルの静止軌道上から、上下それぞれに数万キロ・メートルのケーブルを延ばし、人や物資を往復させるという壮大な計画である。大手ゼネコンの大林組が大学などと共同研究して、2050年の完成を目指している。

それには、鉄よりはるかに強くて軽い材質のケーブルや、宇宙で数万キロ・メートルに及ぶケーブルを真っすぐに延ばす方法などを開発する必要がある。

衛星は、縦横と奥行きがそれぞれ10センチの箱形を2基 合体させた形で、片方に太さ0.4ミリ・メートルの釣り糸を巻いたリールが入っているそうだ。
ISSから放出した後、宇宙空間で二つに分離し、糸を最大100メートル延ばす。

<宇宙で糸が予定通りに延び、データが得られればとても貴重だ>とのこと。
私には、空想でさえ及びもつかない遠大な計画に思えるが、もうすぐその第一歩が現実化されるという。今のタイミングで、「カーボンナノチューブ(CNT)」という夢のような先端素材が開発されたことへの縁にも、感慨深いものがある。

 

師走に口ずさむ歌は何だろう

 

赤と緑のクリスマスカラーに華やぐ街。
(ずっと以前の)今ごろは、自らの1年と共に、この1年で流行った曲は何か? と振り返りたくなった。しかし、(頭に浮かび)口ずさめる歌が見当たらなくなって久しい。

かつてのように、街のどこに出かけても聴こえてきて、世代を問わず多くの人が口ずさめるヒット曲がなくなっている。

今やCDの存在感も薄れ、ネット配信や動画配信など、幅広いチャンネルで音楽が楽しめる時代だ。リスナーの趣向も多様化し、世代ごとやジャンルそれぞれに一定のファンがいても、幅広い年代が横つながりで親しめる曲はない。

師走に流れる曲を見知らぬ酔客どうしが合唱していた時代、音楽業界にはヒット曲の仕掛人なる人たちが裏側で活躍していたという。

以前、音楽機関誌のコラムに、レコード各社の「レジェンド」たちが登場されていた。
当事者だけに含蓄が深く、実績に裏打ちされた説得力にあふれている。

 

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人気歌手から音楽プロデューサーになった飯田久彦さんは、『スター誕生!』に出場したピンク・レディーを発掘した。フォーク志向だった2人の女性を、歌って踊れる女性デュオに大変身させ、ヒット曲を連発。その要因は、ザ・ピーナッツの引退で、どうしても再現したいとの思いからだった。

日本初の女性ディレクターだった武田京子さんは、若手トップ女優の吉永小百合さんを担当し、橋幸夫さんとのデュエット曲『いつでも夢を』を実現した。

浅沼正人(Johnny)さんは大きなヒットに恵まれず、歌手の契約終了の交渉に出向いた帰り際、ある歌を聴いて感動した。そして、その奇跡の一曲『トイレの神様』(植村花菜さん)が世に出るきっかけとなった。

ヒットを支えた人たちに共通するものは<「決してあきらめない」、「これまでにないものをつくりたい」、「いいものはいい」>との思いを貫く姿勢である。

 

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口ずさめる歌が見つからなくとも、クリスマスはやってきた。

「切無刀(せつむとう)」という言葉を最近知った。
なんのことやら? と調べたら、僧侶の世界での数字の符丁らしい。
「切」の「刀」がなくて七になる。

ちなみに一は「大無人(だいむじん)」。大から人をなくすとたしかに一である。
同様に、二が「天無人(てんむじん)」で、天から人を取るからだ。

「数え日」という季語はちょうど今の時期に当てはまるとか。
今年もあといく日と、指折り数えるほど暮れが押し詰まる。

クリスマスが過ぎれば、まっしぐらに仕事納めから大みそかへと急ぐ。
去りゆく時を惜しむのなら、「切無刀」式で数えてみるのもよさそうだ。

指折り数えてみたら、今年も残すところ「切無刀」の7日になっている。

 

忘れられない等身大の作詞家

 

袋に福と書かれていても、中身はわからない。
「だれも、福袋を持たされてこの世に出てくるのでは・・・」。
短編小説『福袋』(角田光代さん)にて、主人公の独白である。

あのときの音楽アルバムも福袋に似ていた。題名を見て選んだとしても、聴いてみなければ中身まではわからない。曲によって人間の弱さや醜さも詰まっていて、人の世の深いふちをのぞかせてくれる。

フォーク黎明期に活躍したアーティストのほとんどが、まだ20歳代の若者たちだった。
全共闘の時代が去り平穏が訪れたとき、若者の心をつかんだのが吉田拓郎さんである。

 

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1972年7月にリリースしたオリジナル・アルバム『元気です。』で、吉田拓郎さんは時代の寵児になった。アルバムが売れない時代、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録した。

『元気です。』の参加アーティストとして、石川鷹彦さん、松任谷正隆さん、後藤次利さんたちが名を連ねた。

オリコンアルバムチャートでは14週連続(通算15週)1位を独走。アルバム・セールス時代の先鞭をつけた。そして、その流れに乗った井上陽水さんが、1973年12月にリリースしたアルバム『氷の世界』で日本の音楽史上初の100万枚を売り上げた。

 

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『元気です。』の新鮮さは軽妙なアレンジと、強く印象に残る言葉であった。
このアルバムで初めて、岡本おさみさんを知ることになった。岡本さんの書かれた詞は6曲であった。

フォークを変えたのは拓郎さんといわれるが、岡本さんの詞の貢献も大きい。
作曲者としての吉田拓郎さんとのコンビで知られ、数々の名曲が生まれた。
森進一さん歌唱で、日本レコード大賞を受賞した『襟裳岬』もこのコンビの作品だ。

『落陽』、『旅の宿』、『祭りのあと』、『野の仏』、『ビートルズが教えてくれた』、『ひらひら』など、今も歌い継がれている曲ばかりだ。この秋の拓郎さんのコンサートでも、岡本さんの言葉を堪能させていただいたばかりである。

“浴衣のきみ”は、岡本おさみ夫妻が青森の温泉に新婚旅行で出向いた折の「色っぽいね」らしい。吉田拓郎さんは『旅の宿』の歌詞のネタ元を長年知らずに歌い続けていた、という。

生真面目な雰囲気の岡本さんと「色っぽいね」がどうしても結びつかなかったそうだ。それを知って以来、『旅の宿』を歌うたびに新婚旅行中の岡本さんの顔が浮かんできて、複雑な胸中に陥るらしい。数年前、ラジオで拓郎さんが語っていた。

旅好きな岡本おさみさんは、岬近くの民家で老夫婦から「何もないけれど」とお茶を出してもらった。その体験が「♪何もない春です」の『襟裳岬』になったという。
前から、温かみのある雰囲気を思い浮かべるサビだと思っていたが、こういう逸話があったのだ。

素敵な言葉をたくさん残してくれた岡本おさみさん。
2015年11月30日、73歳で惜しくも死去された。

 

2週間の風景を綴る時速とは

 

今年もあと2週間。
毎月、2週間はすぐに過ぎ去るが、今月の2週間はアッという間だ。

この時期に必ず思い浮かべるのは、昭和の作家・池波正太郎さんである。
千枚近くの年賀状を初夏の頃から少しずつ書き進め、一人ひとりを思い浮かべ、その名を直筆で記した。

手書きの味わいをわかっていても、自分では宛名、文面ともパソコン印刷で、添え書きは奥さんにまかせっぱなし。

ネットでの友人宛てにいたっては、20年前からメールだけの年賀状。最近はもっとお気楽なLINEでのご挨拶である。実に情けない。

 

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野坂昭如さんによると、コラムは「3つの“み”」で書くそうだ。
<ねたみ。ひがみ。そねみ。>である。

しかし、「3つの“み”」にも限界はある。
池波正太郎さんはもちろんのこと、今年メジャーで3千本安打を達成したイチロー選手などと、彼我の力量の差があり過ぎるものは、ねたむにねためない。

手当たり次第にねたんでいけば、人生がいくつあっても足りなくなる。

「ギャグ(gag)=面白いもの」と思い込んでいたが、その意味はまったく違っていたようだ。
物が言えないよう口に押し込む物。さるぐつわ。言論圧迫。などである。
そのあとでやっと、“冗談”という単語が出てくる。

年がら年中、ギャグのようなことを繰り返すだけなので、新年こそ変わらなければ。
といっても、この時期のこの思いは毎年繰り返されているだけなのだが。

<ほんまにもう、ムチャクチャでござりまするがな>。
昔懐かしい昭和のギャグにあったような気がする。

 

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人間の歩行速度は(個人差はあるだろうが)時速4キロといわれる。
人類が授かった時速4キロは、それ以上速くても、遅くても、物足りない絶妙のスピードなのらしい。

現代の社会では、移動手段としてほとんど当てにならないスピードでありながら、都会の雑踏や大自然の中、 普通の住宅街をのんびりと歩いていると、いくつもの発見がある。

車を運転するときとちがい、徒歩から得られる視覚、聴覚、嗅覚が楽しい。
それらの刺激で、日々の生活や仕事について考えをめぐらせたり、頭の中を空っぽにしたり・・・と。

自分の足で道を行くことは生活の基本で、日常の小さな喜びの“みなもと”なのかもしれない。今年残された2週間という時間。時速4キロで自分探しをしてみるのも悪くはない。

 

原人の登場は最後の2センチ

 

冬の噺(はなし)に、古典落語の名作が多いという。
その代表格としては、『芝浜』や『富久』か。

財布を拾ったり、富くじに当たる。
ほんの偶然から大金を手に入れるなど、ツイている人物が落語には登場する。

立川談春さんによると、「改心して、努力して、必死に懸命に生きた結果、つかんだささやかな幸せ、なんていう話は、ただの一つもない」ようだ。

現実では、なかなか財布も拾わず、宝くじの大当たりとはいかない。
絵空事だと分かっていても、つらい真実よりも優しい嘘が慰めになるのかもしれない。

 

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脚本家・倉本聡さんは「ナスの呪い揚げ」を食べるとか。随筆『愚者の旅』に書かれていた。それは、自作のドラマを批評家から(理にかなわず)酷評されたときの儀式のようだ。

ヘタを取り、刻み目を入れる。そして、批評家の名前を唱えながら、(先のとがった)割り箸でくし刺しにする。油の煮立つ鍋で揚げ、ショウガ醤油で食べる。
その食物は、心によく効くらしい。

誰の心にも相性の悪い相手がいる。やけ酒、このような特異な料理も、感情の清算をつけるために人が作り上げた知恵だろう。

大人になるということは、この“知恵の引き出し”をいくつも用意することなのだろうか。

 

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先週末、時間調整で横浜の港を散歩した。
気温も下がっていたので真冬の格好をしていたら、大汗をかいた。
電車の中も暖房が効きすぎて、上着を脱いだが暑かった。

<暖冬よ ちらちらちらちら蝶(ちょう)とんだ>。
コピーライター・土屋耕一さんによる回文だ。
上から読んでも下から読んでも同じ綴りになる文句である。

温室効果で悪玉のようにいわれる二酸化炭素
しかし、二酸化炭素がもし無ければたいへんなことになるようだ。
地球の平均気温が15度くらいの場合、零下18度ほどになってしまうという。

微妙な自然のバランスの中で、多くの生命と人間の文明も栄えてきた。
バランスが狂いだしたのは産業革命からという。化石燃料の消費が急激に増えた。

先進国はこれまで二酸化炭素を出して繁栄してきた。
途上国はその責任を指摘しつつも、これからの発展を前に歯止めをかけられては困る、と消極的だった。

1億年を1メートルとして、地球の歴史46メートルの中では、原人の登場が最後の2センチ。近代の歴史はミリにも満たないそうだ。

人生、現実は良いことばかりではないし、“知恵の引き出し”を駆使しなければ渡り歩けないこともある。その中で、いくつもの感情や喜怒哀楽を授受している。
それも地球があればこそだ。

文明が引き起こした気候変動は、人間が解決するほかに術はない。
ミリにも満たない存在で、(地球や他の生きものにとっての)疫病神でありたくはない。

 

岡林さん弾き語りは爆笑の渦

 

岡林信康さん。若い頃、カリスマ性を強く感じたアーティストである。

1960年代後半に、多くの学生や若者たちによる“フォークゲリラ”と称された反戦集会が行われた。駅前などで反戦的なフォークソングなどを歌った。そのときの定番曲が岡林さんの『友よ』である。

社会の不合理にめざめ、社会主義運動に身を投じた岡林さん。
それらの運動と、創作される反戦歌が受けて「フォークの神様」とも呼ばれた。

70年代になり、若者たちは「私たち」から「私」、「ぼく」になった。

神様と崇められた岡林さんは、ファンの想いとのギャップから、京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活をしていた。

5年間の農耕生活を経たある日、演歌路線の新アルバム『うつし絵』をひっさげ、1975年に復活コンサートを中野サンプラザで行う。

私にとっては初の生歌が聴けるチャンスで、2日連続で堪能した。

 

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先週、41年ぶりに岡林信康さんの弾き語りコンサートに行ってきた。

ファンも歳をとり場内和気あいあいで、爆笑の渦だった。若い頃よりゆったりと楽しみながら盛り上がった。

相変わらずの、落語トークのMCがおもしろい。
さだまさしさんのMCは有名であるが、岡林さんはさださんより早くからやっていたことになる。

お馴染みの名曲を続々と披露してくれたが、何十年も聴いていなかったはずなのに、自分の中の感覚ですぐに蘇るのがふしぎでならなかった。かつては、自分でも岡林さんの曲をさんざん歌っていたから、擦り込まれているのかもしれない。

ステージ後半で、ピアノセッションの相方がなかなか出てこなかった。
ピアノの方が遅れて出てきて、岡林さんのトークが始まる。

だいぶ話し込んでから岡林さんはハタと気付いた。その前の1曲を飛ばしてたのである。だから、ピアノの方が出てこなかったのであろう。相方をまた楽屋に引っ込ませてから歌った。

その曲『チューリップのアップリケ』を聴き逃すところであった。

『橋~"実録"仁義なき寄り合い』でも終始笑いっぱなしで、場内は大爆笑だった。
曲はよく知っていたが、まさかステージで披露してくれるとは思ってもみなかった。

農耕生活での実話をリズミカルで親しみやすいメロディに乗せたコミック・ソングである。
登場人物はすべて実名だと言っていた。しかし、時の移ろいで生きている人はひとりだけになっているそうだ。

過疎村での寄り合いの議事録を歌詞にしているのだが、実にうまく書けている。
歌詞のすべてをご披露したいところだが、問題になっても困るので私が適当にアレンジして書いてみた。

 

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◎ 『橋~"実録"仁義なき寄り合い』の概要

寄合いの席で 区長さん。
「村のあの橋ゃ もう駄目だ。耕耘機を通すのも怖いほど」。

先日、役場に願うたところ村でもなんぼか銭出せ、と言われた。
「なんとしょう? 銭は惜しいし命も惜しい。何ぞよい思案はないかえ?」

すると、万次郎さんが身を乗り出した。

「皆の衆、聞いておくれ。台風なんぞの災害で橋がポキリと いったときゃ、お上が全額 持つそうな。そこでどうじゃろ、大水が出た時みんなでのこぎりを持ち出し、橋げた切ったらば」。

岩太郎さんが煙草をふかしながら言った。

「それはまずいぞ 。それそれ隣のあの村じゃ。去年の大水の時、区長の号令でみんながのこぎりもち出して橋げたギコギコやったのが、お上にばれて大騒ぎ。やばい橋なぞ 渡れんぞい」。

居眠りしていた長さんがむっくり起きて、「皆の衆どうじゃろ、冬の雪かきにかいた雪をば橋の上へみんなで捨てたらよかろうが」。

大あくびしながら続けた。

「村中の雪をせっせとひと冬集めりゃかなり重いもの。そうすりゃポッキリと落ちて流れて、うまくゆくのではないじゃろか」。

それは良いと、みんなが賛成 しかけたら、綱ちゃんひとりが青い顔で必死に訴えた。

「待っておくれよ皆の衆。俺らの家だけ川向こう。橋をば雪でふさがれりゃ、家の出はいり何とする。おまけに、あの橋が落ちりゃええけど落ちぬ時は、馬鹿をみるのは俺らひとりじゃ」。

そんなわけであれこれと、真面目な意見は出たけれど、思案はなかなかまとまらない。

そして、橋は流れずお話は、下の方へと流れてく。あそこの後家はん、だれそれと。ああでもこうでも何でもない。

そのうちみんなで酒を呑み、歌をうたって サヨウナラ・・・♪♪。

 

言語明瞭なる独り言の時代

 

<行く年や猫うづくまる膝の上>。
師走の作なのであろうか。夏目漱石さんの一句である。

今日は漱石さんが没して100年の命日だという。
また本年は、(『吾輩は猫である』にもその名が登場している)英国のシェークスピアが、没後400年の節目を迎えている。

ご両人による数々の作品は、時間という風雨に古びず、今なお色落ちすることがない。

 

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10年ほど前、小説や漫画の世界で“死神(しにがみ)”のブームがあったという。
伊坂幸太郎さんの小説『死神の精度』などがよく読まれたそうだ。

かつて、気のすすまない縁談を受け入れようとする童謡詩人・金子みすゞさんに、弟がたずねたらしい。

「ほかに好きな人はいないの?」。
みすゞさんは「いる」と寂しそうに言い、
「黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」、と答えたという。

不幸な結婚生活を経て、26歳でみずから命を絶つ人の短い後半生が思い浮かぶ。

生きていることの手応えや“生”の実感が希薄な時代ゆえ、死の恐怖が造形化された死神に心ひかれたのであろうか。

 

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独り言なるもの、たいていはボソボソ聞き取りにくいものだが、言語明瞭の場合には“悲喜劇”も生まれる。作曲家・曽根幸明さんの随筆にあった。

勝新太郎さんの事務所に勤めていた方の失敗談である。
徹夜でマージャンをしている勝さんがその方に言った。
「おい、ラーメンを頼んでくれ」。

そして、事務所の人の独り言が全員の耳に届いた。
「こんな早朝に何を言ってやがんでぇ。スープにゴム管でも刻んで食いやがれ」。

お茶目な勝さんはその独り言を聞き流し、翌日にゴム管入りのスープを持参したそうな。
「さあ、食ってみろ」と。

現代人は、聞き取られては困る独り言を言語明瞭に、大音量で発信してしまう時代を生きているのではないだろうか。ネットやSNSでの独り言が大声で拡散して、取り返しのつかない状態に陥ることも多いだろう。

そのせいか、私にはSNSへ近寄り難い思いが強い。いらない独り言をかんたんに口走ってしまいそうだから。

独り言はボイスレコーダーに囁く程度が、ちょうどいいのかもしれない。

 

大晦日の夕方に人類が現れる

 

“驚くこと”を表現する慣用句がある。
たとえば、“やぶから棒”、“寝耳に水”、“ひょうたんから駒”。

“やぶから棒”と“寝耳に水”が使われる場面では、対応にあたふたする姿が浮かぶ。
“ひょうたんから駒”は、普通で起こりえないような意外性が加味される。

“青天の霹靂”もある。
組織などの人事で何人も飛び越え抜擢されたり、噂や批評もないうちに受賞したりするケースに使われる。私にとって、ボブ・ディランさんのノーベル文学賞が、まさしくこれであった。

“青天の霹靂”の語源がおもしろい。
中国南宋陸游の詩が出典なのだという。

病んで床に就いたまま秋を過ごした詩人が、突然起きて書き出す様子から生まれた。
それは、土中に潜んでいた竜が雷鳴を轟かして現れるのに喩えられ、その詩人“筆の勢い”が“青天の霹靂”に結びついた。

 

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木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力を発見したニュートン
その瞬間は、“青天の霹靂”の気持ちになったのだろうか。

リンゴの話の真意は別にして、ニュートンの功績にはまちがいないだろう。
<壮大な天体の運行も、リンゴが地面に落ちるのも、同じ法則に支配されていると発見した>。別の世界と思われていた地上と天界は、これでつながったという。

<引力の やさしき日なり 黒土に 輪をひろげゆく 銀杏の落ち葉>。
昭和期の日本の歌人・大西民子さんが、日常の風景をあらわした短歌である。
見慣れた景色と宇宙が融合するような、のどかでふしぎな世界だ。

地球の誕生から46億年。その時間を1年に凝縮してみれば、1月1日午前0時に生まれた地球に人類が姿を現すのは、12月31日の晩だという。この師走もアッという間に大晦日を迎えることだろう。今の時期から、あと少しで人類誕生の瞬間だ。

 

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今年も“新たな生命”が多く誕生している。
「今年生まれた赤ちゃんの名前ランキング」(明治安田生命保険より)というのがある。

男児の1位は“大翔くん”と書いて、“ひろと”、“はると”“やまと”などと読むそうだ。
女児は“葵さん”がトップで、“あおい”、“ひまり”、“あお”と読む。

新生児に限らず、今の幼児の名前は難しい漢字や読み方がわからず、思わず訊き返すことがよくある。

昭和のおじさんから見て、名前ランキングで気になるものもあった。
女児の名前で、「子」のつく名は100位までに、莉子さん、桃子さんしか見つからなかった。(私の孫娘にも「子」はついていないのであるが)。

かつて、ガリ版刷りのクラス名簿には、「子」がずらりと並んでいたものだ。
「子」のつく女の子がこれほどまでに、希少化することは想像もできなかった。
まさに、“青天の霹靂”の思いである。

しかし、どの名前も親心がこもったすてきな贈り物であり、どの子も気に入ってくれたらうれしい。

名前は人生そのもので、<人は名前を生きる>といってもいいように思う。
人類の歴史を絶やさぬためにも・・・。

 

鬼太郎とねずみ男を従えつつ

 

昨年、亡くなられた水木しげるさん。そのお墓に鬼太郎ねずみ男の石像があるとか。

悪事を働くもうまくいかず、時には反省ものぞかせるねずみ男を水木さんは好んだ。
私も、ねずみ男と目玉の親父の大ファンである。

「俺は人気者だ」。ねずみ男鬼太郎に告げる。
「これから“ビビビのねずみ男”として売り出すからな」、と。

“ビビビ”とはビンタの音だと、水木さんは語っていた。
やたらにビンタを張るねずみ男のキャラには、いまいましい古兵の記憶がイメージされている。

軍隊時代、上官のご機嫌取りを一切しない水木さんは、誰よりもたくさん殴られた。

同様な話は岡本太郎さんにもあった。
ご本人も語られていたが、私の父親の知り合いに、太郎さんの上官だった人がいた。
太郎さんはどれだけ殴られても、何度も何度も起き上がる。その姿を見て上官は怖くなったという。

水木しげるさんと岡本太郎さんには、共通の気概があるようだ。

 

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21歳で応召した水木さんは、南方の激戦地ニューブリテン島へ。
理由なく殴られ、敵襲から生きのびて戻れば、「なぜ死ななかったのか」と上官に責められた。

マラリアの高熱に苦しみ、飢えと渇き、爆撃で左腕を失った。
部隊は全滅し、多くの戦友を失った。

昨今のニュースでも、いじめやパワハラは後を絶たない。

江戸の俗曲に<旅は心、世は情け、捨て子は村の育(はぐく)みよ>とある。
捨て子があれば村の皆で育てるのだ、と。

水木さんいわく、「私の描く漫画にメッセージがあるとすれば<少年よ、頑張るなかれ>ですかね」。

水木語録をプリントしたTシャツにも<人のうしろをあるきなさい>との言葉が。

 

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日本人には外国語を4字に縮めて使う得意技があるそうだ。
パソコンやリモコンなど、実に多彩だ。

「ハラ」のつく(言葉の)原点のような“セクハラ”という言葉。
最近かと思いきや、意外と古いようだ。1989年(平成元年)から使われているという。

セクハラという言葉が長く使われるだろう、と予言したのは作家・井上ひさしさんである。セクとハラの2拍が重なる語は、安定した構造を持っているから、との持論であった。

以来、「ハラ」のつく他の言葉がいくつも登場した。
上司からのパワハラ。酒をめぐるアルハラ

生まれては消える。泡沫のような新語・流行語だが、根付いて生きのびていくものは、社会と切り結び響き合う(それぞれの)理由がありそうだ。

水木さんの残した仕事の量と質をみれば、ご自身が勤勉だったことは一目瞭然。
ところが、水木さんの言葉には、ホッとできるものが多い。

「なまけ者になりなさい」、「けんかはよせ 腹がへるぞ」などと。
そういえば、吉田拓郎さんの楽曲にも、『ガンバラナイけどいいでしょう』というのがある。

効率や成果ばかりへと神経をとがらせる日常に、自由な空気を吹き込み、人のこころの奥底に訴えて争いをいさめる。異界を知る先達の言葉は、現代への警句でもありそうだ。