砂時計を置きたい気分の時は
<部屋には時計でなく、砂時計を置きたい>。ドイツの作家ユンガーさんの『砂時計の書』にあった。静かで安らかな気持ちになれるから。機械時計にしばられない贅沢は、時計が生活に入り込んでいなかった遠い昔へのあこがれなのか。
1日が24時間なのは当たり前。そう思い込んでいたが、地球の誕生した46億年前頃は自転のスピードが速く、1日は5時間ほどだったらしい。
その回転にブレーキをかけたのが月の引力だとか。潮の満ち引きが起き、大量の水と海底の間に摩擦が生まれ、自転と逆方向の力が徐々に加わりいまの回転速度に落ち着いた。
地球時間からみれば日本の元号の期間は一瞬なのだろう。来年は改元で、私にとって3つ目の元号になる。
元号により子どもの命名に影響が出るという。明治安田生命が、大正から平成までの時代ごとに人気の名前を分析したらしい。
「明治」から「大正」に元号が変わった1912年、男の子の1位は「正一」で翌年の大正2年は「正二」、大正3年は「正三」が1位だったという。女の子は大正2年に「正子」が1位とのこと。
昭和元年は1週間しかなく変化は見られなかったが、昭和2年(1927)に男の子の1位が「昭二」で2位は「昭」。女の子の1位は「和子」だったが、この名前の人気は根強く昭和27年(1952)までの26年間で1位23回、2位を3回獲得している。
「平成」では大正や昭和に比べ、元号の影響力が薄れたようだが、平成元年(1989)に男の子は「翔平」「一成」、女の子は「成美」が、前年よりも大幅に順位を上げたそうだ。
十年ひと昔というが、十年前が最近に感じたり、一年前が昔に感じたりと、時間の感覚があいまいで困る。
今からちょうど十年前、卑しいタダ酒が問題になった。深夜に帰宅する多くの官僚が、公費で乗ったタクシーの運転手から、缶ビールやつまみ、果ては現金まで受け取っていたことが判明したのだ。
「身銭で飲まぬタダ酒ほど口に卑しい酒はない」と騒がれたが、あれからもう十年である。時のたつのは早い。
家が遠く距離の稼げる客には、引き続き指名してもらいたいと、運転手側からの接待攻勢であった。
のどや財布をさんざん潤した人の数は、判明しただけで財務省など13機関で520人もいたそうだ。今もゴタゴタの絶えぬ各省なので、よけいに昔とは感じられないのである。
ご本人たちだけほとぼりが冷めたつもりで、同様の接待を受けていなければよいのだが。
雨が空から降れば自然科学が
暑くなることだけが地球温暖化の問題ではないという。異常気象も引き起こし、台風も巨大化している。水害や干ばつも増えて、農業や生活、経済活動にも影響を及ぼす。
天気予報もたいへんらしく「晴れ・曇り・雨」の予報が多い。直近の天候の変化としては、“雨雲レーダー”が重宝している。スマホ、タブレット、PCですぐに確認できる。昨夜も徒歩で帰るため調べたら、家に着く少し前から降り始める予報だった。
折りたたみ傘を出せるように家へ向かうと、ポツポツときたところで帰宅。今回もピッタリと的中した。すぐに大きな雨音が聞こえてきた。
運動会は気候の安定性から秋に行うと思ったが、最近はそうでもないらしい。運動会に家族で弁当を囲まない小学校も増えているそうな。昼食時、児童は教室に戻り、親と別々に弁当を食べる。
5~6月に開催のところも増えている。秋は修学旅行など他の行事が多いのと、残暑が厳しい時期に練習するのを避けられるから、だとか。
<科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである>。寺田寅彦さんは『科学者とあたま』で、「頭の良さだけが科学者ではない」と著述している。
子ども時代に体得した発音や味覚は成人しても変わらないという。安らぎの作法も同じではないか。作家・星野博美さんはコラムで「バスタオルのマナー」に触れていた。
雨に降られたり蒸し暑さで、風呂やシャワーから上がり、バスタオルで体を拭く日常の一部がとても気持ちがいい。
星野さんは若い頃、外国人たちと船で島へ行ったという。そのとき、お気に入りのタオルを香港の友だちに褒められた。しかし、「日本製品がいいからといって、タオルが10年ももつわけがない。香港のタオルの寿命は、せいぜい1年」とも言っていた。
それから時が経ち、「彼にまた会う機会があったら、言いたい。10年どころか、あれからさらに19年も使っている」と星野さん。
バブルとは、評判の悪い時代ではあったが、悪いことだけでもなかった。その一つが、当時の日本製品の質の高さ。いちいち振り返ることもない日用品のタオルでも、愛着が湧く。
我々の祖先もずっと(生活に欠かせない)自然科学とお付き合いをしてきたことだろう。昨年、北アフリカで、約30万年前とみられる最古の現生人類の化石が発見された。その事実は、これまでの起源説を10万年もさかのぼって覆した。
現生人類はアフリカに起源を持ち、そこから世界に広がったのだ。生物としてはみな同じで、肌の色や骨格の差は行った先に適応したまでのことらしい。
さて、雨の話に戻そう。
随筆家・江國滋さんは、“絶対的雨男”を自任していた。雑誌の連載企画で2年間毎月旅行に出かけたが、普通の雨が24回のうち21回。残る3回は「雪・雪・集中豪雨」だったというからすごい。
その江國さんが“絶対的晴れ男”と豪語する作家・池波正太郎さんと北陸へ3日間の旅に出たそうな。その結果は「雨・快晴・雨曇晴雨曇」だったというから、文句なしの互角勝負だったとのことである。
今週のお題「雨の日の過ごし方」
赤木圭一郎とブルース・リー
もし、あの人気俳優が今もご健在であるのなら、今年79歳である。石原裕次郎さん主演の『紅の翼』で群衆の一人としてエキストラ出演したのが映画デビュー。
西洋的な風貌で、(当時のハリウッドスターであった)トニー・カーチスさんにちなみ、「トニー」の愛称で親しまれた。また、「和製ジェームズ・ディーン」と呼ばれることもあった。
赤木圭一郎さんである。
日活入社の翌年(1959年)に、鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演。その後、アクション俳優として『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演した。石原裕次郎さん、小林旭さんに続く「第三の男」である。
歌手としても、ヒット曲『霧笛が俺を呼んでいる』をはじめ、25曲をリリース。リアルタイムではなかったが、私も映画とレコードで夢中になった時代がある。
石原裕次郎さんがスキー場でのケガにより代役となる映画『激流に生きる男』のセット撮影の昼休憩時に、撮影所内でセールスマンが持ってきたゴーカートを運転。
1961年2月14日12時20分頃のことである。外国製の車で、アクセルとブレーキが逆だったことから踏み違え、60km/h以上のスピードで倉庫の鉄扉に激突した。
事故直前に『激流に生きる男』出演中で、撮影所にいた子役の江木俊夫さんは、赤木さんからゴーカートに誘われていたそうだ。通りかかった小林旭さんから「危ないぞ」と食堂へ誘われ、食事をしているところに大きな音を聞いた。
病院へ運ばれた赤木さんは、一時 意識を回復したが、一週間後に帰らぬ人となってしまった。享年21歳である。
1962年、18歳だった高橋英樹さんは、赤木圭一郎さんの代役で『激流に生きる男』の主演をした。大部屋の経験なしで、いきなり役付きの出演となった。当時の新人俳優としては異例のデビューだったそうだ。
赤木さんのプロマイドは、死後6年経った1967年まで、男優部門での売り上げ10位以内に入り続けたといわれる。
もし、武道家であり俳優としても輝いていたあの人がご健在なら、今年で78歳である。赤木圭一郎さんと(たったの)ひとつ違い。そのことを今知った。
ブルース・リーさんである。父親が役者だったこともあり、生後3ヶ月にサンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に出演したという。
1966年、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳を演武したフィルムがTVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢された。
1970年には、香港大手映画会社から独立したレイモンド・チョウさん設立のゴールデン・ハーベストと、1本1万香港ドルで、映画出演2本の契約を結ぶ。
1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開。香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットで、ブルース・リーさんは香港のトップスターに躍り出た。
1972年、2作目の『ドラゴン怒りの鉄拳』では主演と武術指導を行い、次の『ドラゴンへの道』で、自ら「コンコルド・プロダクション」を設立した。そして、製作・監督・脚本・主演の四役を担ったのだ。
ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。1972年秋からは、リーさんの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタート。
その時、ハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がった。それで『死亡遊戯』の製作は中断されることになった。
1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。リーさんの意気込みは熱く、エキストラへの武術指導、脚本や撮影にも細やかな意見を出した。
1973年7月20日に、リーさんは、『死亡遊戯』で共演予定の女優の自宅で頭痛を訴え、昏睡状態に陥った。病院へ搬送されたが、死亡が確認。32歳であった。
世界各国で大ヒットを収めた『燃えよドラゴン』であるが、(公開時期をみると)ブルース・リーさんはそのことを確認できずに他界されたのではなかろうか。
リーさん急逝のため未完だった『死亡遊戯』は紆余曲折の5年後に、『燃えよドラゴン』の監督ロバート・クローズさん、サモ・ハン・キンポーさんを起用。
ブルース・リーさんがクライマックスのアクション・シーンのみを撮影していたので、代役にユン・ワーさんやユン・ピョウさんを使い追加撮影して完成した。代役は本物出演カットとつないだり、後ろ姿やサングラスでリーさんらしさの演出が施された。
実は今、何十年ぶりかでその映画を観ながら、この記事を書いているのである。
参考:Wikipedia
自然の中に超えた何かがある
衣服関係の言葉は栄枯盛衰が激しいようだ。今でも愛用している“Gパン”はジーンズになり、最近はデニムと名を変えているとか。
セーターなどの“とっくり”はタートルで、“チョッキ”がベスト。アクション映画やドラマで出てくる“防弾チョッキ”などは、防弾ベストの名になっているのだろうか。
最近、お気に入りのベルトを2本購入したが、“バンド”と呼ぶ方が馴染みやすい。“ズック”はスニーカー。とくれば、“バッシュ”はいかがなものかとネット検索をしてみると、(バスケットシューズともども)昔の名前でがんばっているようだ。
名が変われど、昔のままの商品は落ち着ける。しかし、昔あったのに今はもう得られないものだと感慨深くなる。
昆虫少年であった作家・北杜夫さんは、珍種を含む標本を100箱以上所有していた。中学生のときに、空襲で自宅が焼けたという。その際、標本ではなく虫ピンの箱を抱いて避難した。
標本は灰になったが、自然も昆虫もふんだんにあった時代で、虫ピンのほうが貴重に思えたそうだ。
<戦後になって私は何百回となく愚痴をこぼした>と悔やんだ。(『どくとるマンボウ青春記』より)。身の回りにあったときは意識せず、なくして初めて“宝物”と気づくものがある。
1913年(大正2年)の夏、志賀直哉さんは山手線の電車にはねられ重傷を負った。養生のため訪れた兵庫県の城崎温泉で名作『城の崎にて』が生まれた。
「自分は死ぬ筈だつたのを助かつた、何かが自分を殺さなかつた・・・」。死と隣り合う生を見つめて書かれた作品である。
志賀直哉さんは、<神にであれ、仏にであれ、“何か”にであれ、「生かされている」という自覚>というものを持った。それは人間の力を超える“何か”だと感じたらしい。
<自然のなかに人間の力を超えた何かを感じることがあるか?>。新聞社が行った10年前の世論調査では56%の人が「ある」と答えていた。
地球46億年の歴史で、人類が存在できている時間は微々たるものだ。その間にそれぞれの寿命を与えられた人類が、生まれて死んでいく。
歴史上の人物だけが特別でもなんでもない。それを思えば時空間を超えて親しみも感じる。
膨大な数字はお金の単位にしてみるとわかりやすいという。1年という時間を1円に換算してみると、46億円のうちで70円や80円がそれぞれの人の持ち金になる。たとえば坂本龍馬は31円だった。それにしては、インパクトのすごい人であったが。
現金の嫌われる時代らしいが
アメリカの経済学者・ケネス・ロゴフ氏は『現金の呪い』にて、現金をなくす提案をしていた。それも、高額なお札から段階的に廃止して、最後は紙幣をなくすべき・・だと。
100ドル札で100万ドルを用意すると大きめの袋に入るが、10ドル札や硬貨ではたいへんな量になる。つまり、現金を大幅に減らすと、脱税や犯罪がやりにくくなるし、裏金としても不便である。
とはいえ、極端なキャッシュレス社会は可能なのか。
韓国では、小さな店や食堂でも、レジで現金のやり取りをほとんど見かけないらしい。クレジットカードや電子マネー、さらにはQRコード読み取りが多く、お札の出番がないらしい。
現金主義が強い日本は世界的なキャッシュレスの波に出遅れ、キャッシュレス比率が9割の韓国や6割の中国に比べ、2割弱にとどまっている。
日本人の“現金主義"は、偽札が少ない安心感と、24時間稼働のATMですぐに引き出せる便利さのためなのだろうか。
今年の4月に政府は、(決済全体に占める)キャッシュレスの比率4割への倍増目標を、2027年から25年に時期の前倒しをした。
その目標へも、クレジットカードや電子マネーの普及と、スマートフォンを使った新たな決済サービスがけん引役になることだろう。
とくに注目を集めるのが、バーコードに似た「QRコード」である。読み取り端末を用意する必要がなく、スマホで読み取って決済できるため脱現金化として世界へ浸透していく予測である。銀行界も、統一のQRコード規格を模索している。
急増する訪日外国人客の買い物需要などもキャッシュレス化への加速になるという。キャッシュレス決済に慣れた外国人の誘客にも、欠かせないサービスになっている。QRコード決済は、中国などでも急速に普及しているのだ。
無料通信アプリのLINEが提供する決済サービス「LINEペイ」の導入も増えているようだ。利用客はスマホにLINEのアプリをダウンロードし、銀行口座の登録などを済ませておけば、支払いの際にアプリを起動して、QRコードを表示するだけで利用できる。
私はほとんどのコンビニで、スマホをかざすだけのQUICPay(クイックペイ)を長年利用している。ただ、スーパーや居酒屋ではクイックペイの使える店が少ないため、カード決済にしている。
ワタミグループでは、全国200店以上でLINEペイなどQRコード決済を使えるようになるとか。他にもどんどん広がると使いやすくなりそうだ。
QRコードは、電子マネー専用の読み取り端末をレジに置く必要がない。店舗の導入コストは少なくて、電子マネーに対応していないスマホでも、アプリをダウンロードすれば利用できるのである。
使う側も、カードを出すよりスマホですべて決済ができたら一番かんたんである。
無現金社会となったこの国を想像してみて、お年玉の習慣やご祝儀に新札をそろえる心づかいはどうなっていくのであろうか。
歌にまつわるいくつもの想い
かつて、永六輔さんが用事で京都を訪ね、タクシーは三千院の前を通った。「昔はいい所でしたがね」と、運転手さんがつぶやいた。続けて「くだらない歌のせいで混雑して困ったものです」とも。
<♪ 京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり・・・>。『女ひとり』のことらしい。運転手さんは、乗せた客が作詞した当人だとは気づいていない。
京都へ行くと、私も頭の中でこの歌が必ず流れる。人を引き寄せてやまないほど、心にしみ入る名曲である。それで観光客が増えると、道路が渋滞するとの現実問題もあるが。
楽曲に関して忘れられない話は多い。一年前、読売新聞のコラム『時代の証言者』にあった一文も興味深い。
音楽評論家であり、作詞家としても大活躍の湯川れい子さんの体験談である。あのマイケル・ジャクソンと“エルビス論争”をされたというのだ。
1972年、映画『ベン』の主題歌を歌うマイケル・ジャクソンのピュアな歌声に惚れ込んだ湯川さんは、翌年にマイケルへインタビューする機会を得た。「ジャクソン・ファイブ」が、東京音楽祭に特別ゲストとして初来日のときである。
14歳のマイケルは茶色の三つぞろいとハンチング帽で、ホテルの部屋へマネジャーの父親と一緒に現れた。そして、目を輝かせながら、質問にはきはきと答えた。
好きなアーティストは、ジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン・・・など次々に挙げ、彼らの音楽を聴いて熱心に勉強している様子が伝わってきた。ただ、湯川さんが気になったのは、答えるたびに(壁際で)腕組みをしている父親の反応をうかがっていることだ。
次にインタビューしたのは1982年3月、グループ名が「ジャクソンズ」に変わり、マイケルが23歳の時だった。
81年に全米ツアーの成功後、マネジャーの父親と決別。パートナーを自ら選び、音楽活動のやり方を根本的に変えつつあった。言葉にも力強さが感じられた。
忘れられない会話の発端は、アルバム『トライアンフ』の中にある『ハートブレイク・ホテル』という楽曲だ。
「エルビスのファンにとって、彼の代表曲のタイトルは神聖な存在なのに、なぜ同じ題名の曲を作ったの?」。エルビス・プレスリーの熱烈なファンである湯川さんは、うっかり聞いてしまったらしい。
「神聖でも何でもない。エルビスは、僕たち黒人の音楽を盗んで有名になったんだ」と、マイケルはキッとした目で言い切った。
「エルビスが社会からバッシングを受けながらも、黒人の音楽を自分の中に取り入れてロックンロールとして爆発させた土台があったから白人社会でも黒人音楽への理解が進んだのではないか」と湯川さん。
湯川さんの目を見据え、マイケルは言った。「僕たちは何も変わっていません。黒人のスーパーマンはいますか? 黒い肌のピーター・パンはいますか?」と。
差別への強い怒りが彼を奮い立たせ、数々のヒットを生んできたのではないか。湯川さんはそう思ったという。
選ばれても出られない映画祭
<ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?>(なおまる御前さん)。第一生命恒例の「サラリーマン川柳コンクール」にて、昨年1位に輝いた作品である。
今年で31回目となるこのコンテストで大賞を獲得したのは、<スポーツジム 車で行って チャリをこぐ>(あたまで健康追求男さん)。
サラリーマン川柳は始まったときからの大ファンである。選ばれる方はもちろんのこと、選ぶ方もユーモアとセンスに溢れているようだ。
海の向こうでは、是枝裕和監督の『万引き家族』が、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門でパルムドールを受賞した。衣笠貞之助さん、黒澤明さん、今村昌平さんに次いで4人目となる日本人の最高賞受賞である。
是枝監督がコンペ部門に出品したのは5回目であり、『誰も知らない』で柳楽優弥さんが男優賞、2013年『そして父になる』では審査員賞を獲得している
昨年のカンヌ映画祭では珍事があった。動画配信サービス「ネットフリックス(Netflix)」製作のオリジナル映画2本がコンペに選出されたのだ。
開催前から物議を醸した。フランスでは劇場公開されず、配信のみとなるためだ。映画祭側は、ネットフリックス側と交渉したが事態は変わらなかった。
そして、本年以降は<コンペ作品がフランスの映画館で上映されなければならない>という新ルールが適用され、コンペティション部門への参加が認められないことになったのだ。
ネットフリックス作品であるポン・ジュノ監督と、ノア・バームバック監督の作品自体の評判はいずれも上々だった。
それでも、「私は、大きなスクリーンで見ることができない映画が、パルムドールはじめ、賞を受けることなど考えられない」と(昨年の)記者会見上で、審査委員長のペドロ・アルモドバル監督が発言した。
今年はネットフリックスが、新ルールに「参加する意味がない」との理由で、カンヌ国際映画祭に参加しないことを決めた。
もし、ネットフリックスがオリジナル作品を劇場公開するにしても、フランスで劇場公開された作品は公開から3年経たなければ、ストリーミング配信をできないという独自のルールがあるのだ。
そうなると、ネットフリックス上でそれらの作品を3年間も配信できなくなる。新しいオリジナル作品を“今すぐに"観られるのが売りのネットフリックスにとって、大きな制約になってしまう。
「私たちの作品をほかのフィルムメーカーと同じように公平に扱ってほしい」とネットフリックスのサランドス氏は主張した。
「コンペティション部門に出品できないのなら、(他部門で)カンヌ国際映画祭に参加する意味はない」とのことで“撤退"に至った。
わざわざ劇場へ足を運ばなくてもいいよね、という映画もあれば、ぜひ劇場で公開してほしいとのテレビドラマもある。そこへ、配信のドラマや映画が絡んで三つ巴になってくる。どのような形でも、上質な作品は後世へと繋いでほしいものである。
なぜ人が熱狂するかといえば
この方の筆力はすばらしい。井上ひさしさんである。
「蛇の前の蛙」、「フライパンに置かれたひと塊りのバター」。そこへ続けて「作新学院の江川投手の快速球を待つ非力な打者」・・・と。
短編『われら中年万引団』の中で、<圧倒的な強者の比喩として>妻の前にいる恐妻家の男の心境を表現した。
その小説が発表されたとき、江川卓投手は高校3年生。作家にそう思わせるだけの熱狂感を放っていた江川さんの凄さにおどろく。
1954年5月、ボクシングの世界フライ級王者・白井義男さんの4度目の防衛戦が行われ日本中が熱狂。
東京・中野駅前「丸井」2階売り場のテレビ前にも60名以上の客が殺到し、両者の打ち合いに興奮して足を踏み鳴らした。そして、第3ラウンドの開始直後に床が抜け落ちた。
戦後の日本人に、白井さんが元気を与えたことはもちろんのこと、テレビという新メディアの熱狂ぶりもその事故の大きな要因になったはずだ。
熱狂であふれていた時代は、人々の表情にも喜怒哀楽が多かった。無表情の人が珍しく、“ニヒル”などと呼ばれた。
気力や意欲は歳をとるごとに衰えるが、知力・体力は一般的に考えられているほど衰えない。大事なことは感情を豊かに保つことで、それがいつまでも元気な秘訣なのだ。
今は百科事典の知識も、ネット利用などで得やすくなっている。頭の中身も、知識量より回転数が重要になってきているのでは。
人に“間(ま)”を持たせて「人間」になる。その“間”とは、時間や空間などとの解釈もできそうだ。同程度の知識の競い合いより、個々の“間”の使い方で人間形成に違いが出るだろう。
また、モノの見方や発想を“斜に構えて”みると楽しめる。そういう人の話はおもしろい。
昨年の今頃、IT企業は競って会話型端末の開発・販売に乗り出すなどと言われていた。
家電やスマホなどを動かす方法が、“手動”から“音声”に切り替わるとの考えで、スマホのタッチなどを介さない音声の入力は多くなる、との予想であった。
人工知能(AI)を活用し、話しかけると、内容を理解して、その日の予定や天気などを音声で教えてくれる。話しかけるだけで様々なサービスに利用が拡大できる。
国内でグーグル、アマゾン、LINEによる三つどもえの対決が迫っているなどと、AIスピーカーという新製品の出現も強調され、今にも各家庭に普及するような勢いだった。
今、AIスピーカーを身近に置き、便利に利用している。しかし、テレビ登場のような熱狂はそこにない。そばにあって当たり前。なければなにもできなくなる、ということでもない。
テレビがない時代、その現場にいないと目撃できなかった。車や列車みたいに速く走れなかった。だから、その出現で熱狂した。
AIスピーカーは“以前からできていたこと”の代用品かもしれない。ただ、大きなメリットといえば、AIとの共同生活であり、AIを肌で感じられることなのであろう。
大風呂敷を広げて見えるモノ
蚊のなかにも知恵の回るのがいる。新聞のコラム記事にあった。能の囃子方の取材から得た情報らしい。その知恵とは、鼓を持つ手ではなく、打つほうの手にとまる。それなら叩かれる心配がないからだ。
ドイツの思想家・ゲオルク・リヒテンベルクは著書『雑記帳』で蠅の知恵に触れた。ハエは叩かれたくなければハエ叩きの上にとまるのが安全である・・と。
『ハエ男』は1993年6月に森高千里さんが発表した19枚目のシングルである。森高さんが作詞・作曲を手がけた初のシングルで、ドラムと左チャンネルのピアノも演奏している。
森高さんは、それ以前からご自身の曲の作詞をしている。『臭いものにはフタをしろ!!』では、何度もローリングストーンズを自慢する中年男を、女の子目線でコケ下ろす。「それって、オレのこと?」なんて言いながら、ノリノリで聴いていた。
ひとつのことを頑固に続け、なにかにこだわっている人の吸引力は魅力がある。『私がオバさんになっても』を森高さんは、今もテレビで歌っている。まったくオバさんに見えないと、いつも感心している。
<金持ちとは金を持った貧乏人>。昔の映画『恋をしましょう』にて、マリリン・モンローとイヴ・モンタンの会話からの言葉だったか。常識の枠から抜け出るような、記憶に残る“名文句”である。
人は、大多数の人がやらなければと、考えていることをやっている。常識に従っているのだ。常識から抜け出てみると、新しい自分を発見できるかもしれない。
「独断と偏見」はいい言葉にとられない。でも、人とちがう意見があってもいいはず。人はそれぞれいろいろな考え方がある。自分はこう思うからと相手を否定することも必要ない。
大いなる独断と偏見を持つ。そしてそこに説得力を持たせれば、立派なアウトプットになる。小説やドラマ、映画の創作なら、魅力あるテーマに化けることもあるのだ。
時に大風呂敷を広げてもいいはず。実力本位の社会では謙譲が必ずしも美徳にはならない。話の中身はコミュニケーションのわずか7%のウエイトしかないとの調査結果もある。
相手にインパクトを与え、話をしようと思ったら、話の内容よりも外見的な自分のスタイルにこだわると、やりやすくなることもある。
ハッタリを広げて、実行できなければ評価は落ち、カッコも悪い。それでも、その過程でついた力が人を大きくするはず。打たれ強さを持つ人はやはり得だ。力がついたら力が抜けて、自分のペースで走れる。
<言うものは知らず、知るものは言わず>。物事をよく知り抜いている人はみだりに言わないが、よく知らぬ者ほど軽々しくしゃべる。
<なぜか嫌いな人ほど、意外な長所が見つかる>とは、映画評論家・淀川長治さんの言葉だったと思う。
どんなつまらない映画でも、一ヶ所はいいところや教えられることがある。いいところを探すクセが大切で、ひとつでも本当にいいと思ったところをほめる。
今週のお題「あの人へラブレター」
宮崎駿監督から学ぶ ある流儀
釣り人には短気が多いらしい。以前、釣り好きの人からその理由をお聞きしたことがある。釣りという作業は、やることがあまりにも多いとのこと。釣り糸を垂らしてウキを、注視し続けるときも、気長にかまえていることはないらしい。私みたいな呑気者には向かない趣味のようだ。
<大事なことはたいてい面倒くさい>。宮崎駿監督の言葉である。あれほどまでに緻密な仕事をされているのに、(テレビの特集番組では)煙草を吸いながら「めんどくさい」の連発であった。
どうやら創作中は頻繁に出てくる言葉で、頭の中に、「面倒くさい」が駆け巡っているようである。
宮崎監督は、脚本なしでの制作が特徴である。準備段階でイメージボードを大量に描き、作品の構想を練り、絵コンテと同時進行で作品を制作していく手法なのだ。テーマについても、創りながら見つける。
宮崎監督が高校生のとき、東映動画『白蛇伝』を観て感動。アニメーションに関心を持ったという。そしてデッサンを独学で学び、ポール・セザンヌのような印象派に影響された。
1971年、高畑勲さん、小田部羊一さんと東映動画を退社。『長くつ下のピッピ』を制作するための移籍だったが、原作者の許諾を得られず立ち消えになった。
その後、宮崎監督と高畑監督は(視聴率が低かった)TVアニメ『ルパン三世』の演出の仕事を引き受けた。
2013年に、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開したが、同年9月1日に長編映画の製作から引退した。
『風立ちぬ』もそうであったが、『魔女の宅急便』や『風の谷のナウシカ』なども、宮崎監督の作品は空を飛ぶシーンが多い。
宮崎監督が描く空は、今の季節というより澄み渡った秋空に感じられる。<心の翼はいつでも持てる>という想いを、宮崎監督は空を飛ぶ場面で教えてくれているようだ。また、<世界は生きるに値する所で、美しいものが必ずある所だ>とも。
荒井由実さんの『ひこうき雲』や中島みゆきさんの『この空を飛べたら』などがBGMに使われ、宮崎アニメの青空はどんどん広がるようだ。
2017年2月、宮崎監督は長編映画制作に復帰すると発表。事実上の引退撤回である。また、監督にとって“めんどくさい”あの作業が始まるので、とても楽しみである。
2018年4月5日に、パクさんこと高畑勲監督が亡くなられた。5月15日のお別れ会は東京・三鷹の森ジブリ美術館で営まれた。 出席した宮崎監督が開会の辞を読み上げた。
<1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。初めて言葉をかわした日のことを今でもよく覚えています。たそがれ時のバス停で雨上がりの中、1人の青年が近づいてきた。それがパクさんに出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なんではっきり覚えているのだろう・・・>。
偉大なふたりの出会いを祝福する“雨上がりの空”が浮かんでくる。きっと澄んでいたのだろう・・・な、と。