歌にまつわるいくつもの想い
かつて、永六輔さんが用事で京都を訪ね、タクシーは三千院の前を通った。「昔はいい所でしたがね」と、運転手さんがつぶやいた。続けて「くだらない歌のせいで混雑して困ったものです」とも。
<♪ 京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり・・・>。『女ひとり』のことらしい。運転手さんは、乗せた客が作詞した当人だとは気づいていない。
京都へ行くと、私も頭の中でこの歌が必ず流れる。人を引き寄せてやまないほど、心にしみ入る名曲である。それで観光客が増えると、道路が渋滞するとの現実問題もあるが。
楽曲に関して忘れられない話は多い。一年前、読売新聞のコラム『時代の証言者』にあった一文も興味深い。
音楽評論家であり、作詞家としても大活躍の湯川れい子さんの体験談である。あのマイケル・ジャクソンと“エルビス論争”をされたというのだ。
1972年、映画『ベン』の主題歌を歌うマイケル・ジャクソンのピュアな歌声に惚れ込んだ湯川さんは、翌年にマイケルへインタビューする機会を得た。「ジャクソン・ファイブ」が、東京音楽祭に特別ゲストとして初来日のときである。
14歳のマイケルは茶色の三つぞろいとハンチング帽で、ホテルの部屋へマネジャーの父親と一緒に現れた。そして、目を輝かせながら、質問にはきはきと答えた。
好きなアーティストは、ジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン・・・など次々に挙げ、彼らの音楽を聴いて熱心に勉強している様子が伝わってきた。ただ、湯川さんが気になったのは、答えるたびに(壁際で)腕組みをしている父親の反応をうかがっていることだ。
次にインタビューしたのは1982年3月、グループ名が「ジャクソンズ」に変わり、マイケルが23歳の時だった。
81年に全米ツアーの成功後、マネジャーの父親と決別。パートナーを自ら選び、音楽活動のやり方を根本的に変えつつあった。言葉にも力強さが感じられた。
忘れられない会話の発端は、アルバム『トライアンフ』の中にある『ハートブレイク・ホテル』という楽曲だ。
「エルビスのファンにとって、彼の代表曲のタイトルは神聖な存在なのに、なぜ同じ題名の曲を作ったの?」。エルビス・プレスリーの熱烈なファンである湯川さんは、うっかり聞いてしまったらしい。
「神聖でも何でもない。エルビスは、僕たち黒人の音楽を盗んで有名になったんだ」と、マイケルはキッとした目で言い切った。
「エルビスが社会からバッシングを受けながらも、黒人の音楽を自分の中に取り入れてロックンロールとして爆発させた土台があったから白人社会でも黒人音楽への理解が進んだのではないか」と湯川さん。
湯川さんの目を見据え、マイケルは言った。「僕たちは何も変わっていません。黒人のスーパーマンはいますか? 黒い肌のピーター・パンはいますか?」と。
差別への強い怒りが彼を奮い立たせ、数々のヒットを生んできたのではないか。湯川さんはそう思ったという。