日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

ほめてほめてほめちぎれ検定

 

職業を訊かれて「人間だ」と答えたのは、芸術家・岡本太郎さんである。
日本画家の千住博さんは、その話を著書に記し「究極の正しい発言」と絶賛した。

人はコミュニケーションすることで生きている。こころの奥底にある想像力、創造力を駆使して、(自分らしい表現手段で)伝えようとする時に芸術が生まれる。芸術は人間の本質そのものであり、千住博さんにとってそれは最上のほめ言葉だった。

時代の流れで、今や人工知能(AI)が人間らしさの“聖域”である芸術にさえ踏み込みつつある。故人作家の作風をまねて短編小説を創作したり、自動的に作曲をしたりと。

AIはどうなのか知らぬが、人間 ほめられて悪い気はしないものだ。

ネット内では、なじる、けなすなどのネガティブな言葉が飛び交うこともあるだろう。
現実の社会も昔よりとげとげしい時代になっている。叱られてばかりでは自己肯定感もどんどん低くなりがちである。

 

1763

 

目の前の小さな価値を見つけることを大切にし、短所も前向きにとらえる。おべんちゃらやおだてあげとは違う、ほめ上手の達人たちの検定があり、じんわり人気なのだという。

その「ほめ達」検定では、「自分が言われてうれしいほめ言葉」を5分以内で30個書き出すのを目標にしたり、5分間で(会社の上司などを思い浮かべ)「普段あまりほめない人の素晴らしい点を探すこと」を書き出す。

<ほめるということは、人、モノ、出来事の価値を発見すること>であり、<あら探しをやめて、プラスの面を探して光を当てること>でもある。

自分が正しいと思うことに照らし合わせ“ダメだし”するのではなく、物事を多面的にとらえて「いいね!」の評価をしあうのだ。

 

1764

 

普段、嫌だと思っていた人でも、いっしょに呑めばその人の良いところしか見えてこない。
私である。なんどかエントリでも書いているが、私は“ほめ上戸”であり、お酒が入るとマメになり目の前の人がものすごくいい人に見えてしまう。

かつての職場に酒癖の悪い四天王がいて、4人ともすぐに呑み相手に絡み、駄々をこねたり、ケンカなど、数えきれないほどのエピソードがある。それまでの呑み仲間からは煙たがられ、仲間もいなくなる。

私だけは彼らと抵抗なく呑めていたので、ためしに全員を集める実験を試みた。

酒癖の悪い者同志だから、ぶつかる可能性が大きい、と思いきや、癖の悪い者同志でおたがいを理解し合えている。まさに<毒には毒をもって制す>の結果であった、

車の自動運転や介護ロボットなど、10~20年後には国内の労働人口の49%の仕事がAIやロボットに置き換えられるとの推計がある。「ほめ達」検定を常に満点で通過するロボットも出てくるだろう。

私もその検定に挑戦してみたいものの、お酒をたらふく呑んでいるときしか実力が発揮できない。そんな弱点もロボットにはないはずだ。

それでも私はほめ上手のロボットに興味がある。いっしょにお酒を呑んだら“ほめ殺し”のせめぎ合いになりそうだ。そうなれば、うれしくて手放せなくなることだろう。

 

人を理解し共に成長する車?

 

「この頃は化け物どもがあまりに居なくなり過ぎた」と嘆いたのは、物理学者・寺田寅彦さんである。(『化け物の進化』より)。

妖怪でも鬼でも、不可思議な存在への憧憬や戦慄こそが、科学に対する少年の興味をふるい立たせたものだという。科学の目的とはむしろ「化け物を捜し出す事」なのだ・・・と。

昨年、トヨタ自動車は他のメーカーやアプリ開発会社に対し、共同開発への参加を呼びかけ、“つながるクルマ"を大幅拡大する意向を示した。顧客の運転状況などのビッグデータを収集し、製品開発や新サービスの提供に生かす。

“つながるクルマ"はカーナビなどの車載通信機を通して、トヨタのサーバーから道路状況の変化に応じた地図を更新したり、事故時には場所や状況を自動で通報もする。

 

1761

 

2014年12月には世界初のセダン燃料電池自動車MIRAI(ミライ)も発売された。
本格的な普及には(燃料補給の)水素ステーション拡大がカギを握る。現状で水素スタンドはまだまだ足りないという。

IoT(物のインターネット)ブームの昨今、家電も車もインターネットにつながるご時世のようだ。大量の情報が蓄積された複合機も、プリンターのセキュリティー対策が講じられなければ、インターネット上でかんたんに見えてしまう。

多数の機能が一体化した利便性の陰で、危機意識の希薄さが改めて浮き彫りにされる。

しかし、パソコンやスマホがインターネットにつながることは理解できても、物がネットにつながることは理解しにくい。その意識を持てる前から、“つながる新商品"に触れさせられるユーザーたちはたまったものではない。

 

1762

 

この年明け早々にトヨタは、(米ラスベガスで開幕した)家電・技術見本市「CES(セス)」で、人工知能(AI)を搭載したコンセプトカー「コンセプト・アイ」を公開した。

AIはドライバーと、会話などのやりとりをするそうだ。緊張や疲れがあると判断すれば
ゆったりした音楽をかけたり、危険な運転状態になった場合は、自動運転に切り替わる。
ドライバーの好みも記憶して、それに合わせた走行ルートも提案してくれる。

トヨタは人の感情を読み取るAIを搭載したコンセプトカーを、<人を理解し、ともに成長するパートナー>と位置づけるそうだ。

AIが運転者の表情や声のトーン、動作、やり取りなどのデータを分析し、気持ちや好みを学習するからだ。そして、<運転すればするほど、人工知能が成長する>という。

野生のイメージの強いカラスは、人の言葉をまねることもあるらしい。
「トーちゃん、トーちゃん」、「オカア、オカア」などと。
都市の鳥を研究する唐沢孝一さんが、『カラスはどれほど賢いか』に書いている。

話をするのは、けがなどで人に保護されたカラスばかりとか。
言葉を発すると人が異常に反応することを見抜き、生き延びるため語彙を身につけるという。

どういうわけか私には、これらのカラスと人工知能が、ソックリに感じられてしかたがないのである。

 

言葉を獲得する以前のコミュ

 

人工知能」や「ロボット」という単語が氾濫する昨今、(すでにある)身の周りのものを見ても、私にはロボットのように感じてならない。

たとえば全自動洗濯機。スイッチひとつでなんですべてができてしまうのだろうか?
使う度に感心する。二槽式洗濯機に比べたら格段の進歩である。二槽式にしても、「たらいと洗濯板」から見れば、夢のような道具であったはずだ。

調理家電の自動化もめざましいものがある。油なしで(熱風で)加熱して揚げる「ノンフライヤー」におどろいていたら、レシピは“ほったらかし”で「煮る・揚げる・いためる」を自動でこなす電気無水鍋なるものも登場。

食材から出てくる水分を用いて、適当な大きさに整えた食材と調味料を入れれば、手を加えなくても調理してくれる家電なのだ。

肉じゃがは、適当な大きさに切ったタマネギ、ニンジン、肉、ジャガイモと調味料を入れ蓋をするだけ。出来上がり希望時間などを設定し、あとはそのまま。

カレーも同様に具材とカレーのルーを入れボタンを押すだけ。食材が崩れないように硬さなどをセンサーで判断するそうだ。

 

1759

 

「ITを自己表現のツールに、世界を変える力を持つスマホ世代」などと言われて久しい。今のハイティーンは“スマホ世代”から進化した“動画世代”だとか。大人の目は介在せず、投稿は楽しいことを近くの友だちに見せるという感覚で。

一昨年の調査では、18~19歳の利用率はLINEが9割、ツイッターが8割で、スマホの利用目的は「友人や家族とのコミュニケーション」、「写真や動画を撮る」、「動画、ゲームなどを楽しむため」などだ。

編集技術がとても高く、何を発信するかをよく考えている一方、豊富な情報量に慣れて、文字情報の必要性すら感じなくなっている。SNSなどを通じて誰とつながっているかがわかり、人間関係が『見える化』されている。

ラクダが砂漠に棲めて、キリンが棲めないのはなぜだろう。「背が高すぎるんです」と登場人物が語る。推理作家ユッシ・エーズラ・オールスンの小説にあった。

「キリンの場合、見渡すかぎりここには砂しかないと悟ってしまいます。幸運にもラクダはそれがわかりません」。オアシスがすぐ先にあるかもしれない、と期待しながら進めるのだという。

人間もラクダに似て、見えるのは“今”だけで、あした何が起きるかは知らない。知らないおかげで、人生の旅が続けられる。

 

1760

 

人が一定の信頼関係を持てると思う知人の数は150人ほどで、それが脳の大きさに適する集団の規模だという。

人間は食物を仲間のところへ運び一緒に食べるようになった。バラバラで食べるサルに対し、“共感力”を発達させ、家族を営み150人程度の共同体をつくった。

(言葉を獲得する以前の)人間がもたらしたコミュニケーションは<一緒に食べること>だった。

現在も言葉以前の交流が大切らしい。握手し、抱き合うことなどの触覚は大事で、「実際に会わずネットだけでつながる」という近年の傾向に、人間の身体はまだ適応していないとか。

現代人のペット熱などもその裏付けで、人は効率性だけでは生きられない。
思えば自分も、生身の身体を使って人とつながる意識が希薄になっている。

家電やスマホも、被災などで電気がつながらなくなると使えない。
いったい今の生活はどうなるのだろうか。いつも気になる。

その状況では、全自動洗濯機より便利な道具は「たらいと洗濯板」であり、電気無水鍋も役立たずである。

 

人生に句読点を打ちやすい国

 

本年もよろしくお願い申し上げます。

いつも読んでいただき、ありがとうございます。
そして、皆様のすばらしい記事をたくさん読ませていただけることに感謝しております。

<7・2・3(なにさ)から 7・2・4(なによ)に変わる デジタルの 時計見ながら 快速を待つ>。俵万智さんの歌である。

デジタル時計はよくしゃべるらしい。短い言葉でも口数は多い。
その点、アナログ式は寡黙のようだ。歌の中の時刻とすれば、長針と短針が“へ”の字口のままなにも言わない。

パソコンと向き合う時間の長いわが身としては、アナログ脳の退化に一抹の不安を隠し切れない。デジタルでは1秒足らずで解答が出せる「数独(ナンクロ)」の難問に、長い時間を費やしてしまうのもその思いがあるからだろう。

 

1757

 

1年の移り変わりのこの時期に、思うことはいつも同じである。
生まれてから死ぬまで時間はずっと流れていくだけで、時の流れに特別な区切りはないはずなのに、なんで年末年始はいつもの月替りとちがう気分になるのか?

人間は、(時間の流れの中に)句読点を求める習性のある生物らしい。
とくに日本は、四季の変化に恵まれた国であり、夏の暑さや冬の寒さなどと自然の変化をハッキリと感じとれる。時間の経過を体感で受け止めることができるように、擦り込まれているようだ。

年末年始には、いろいろな飲み会やイベントなどが集中するのも、年が改まるという意識にかられてのことである。

四季の移り変わりで、人生の句読点を打つことに慣れている日本人が、四季の乏しい国で暮らすと不満のタネにもなりうる、と訊いたことがある。

1年が過ぎたはずなのに、過ぎた感じがしない。それはまるで、人生に句読点がないような気分なのだという。我々は、四季の変化で知らないうちに「脳トレ」をしているともいえそうだ。

 

1758

 

脳には、自分が置かれた状況や論理的な関係の変化に合わせて活動を変える回路が存在するという。その回路は、活動に“句読点”が打たれる度に、活性化されるそうだ。

暑い夏にぼんやりと過ごしていても、秋のひんやりとした空気に触れると身が引き締まる思いに変わる。年末年始の忘年会や新年会といった会では、自分を振り返り未来に思いを馳せる。季節の節目にやる儀式は、脳の回路の切り替えにもつながるのである。

月日が経っても、同じ時間が続いているだけでは、当然のことながら人生に句読点がなく、脳も活性化できない。

この数年私は、特別なことを何もせずに新年を迎えるようにしている。根っからのものぐさなのであるが、日ごろと変化のない正月もそれなりに味があって楽しめる。

もともと人間は短期的な変化に過剰反応しがちな反面、中長期的な変化の意味を過小評価しがちのようだ。そういう意味では、行事が重なる年末年始を平常心で過ごしてみるのもいいものだ。今だからこそ、曇りのないレンズで時代を見られるような気になれるから。

 

今も昔も知らないことだらけ

 

デジタル機器の進化で、その応用はめざましい。
小売店で“顔認識システム”が、万引き防止や客層把握に使われ始めているという。
<カメラで撮影した顔の特徴から同一人物を自動的に検知する>というものだ。

それは、本人の気付かぬうちに、顔データが活用されているケースが、ほとんどなのだろうか。

個人情報保護法で個人識別符号と位置づけられ、取得にあたり利用目的を示さなければいけない個人情報なのではあるが、どこまで実施されているのかは不明である。

たとえば、商品を選んでレジに来た客の顔を、店員の背中側にあるカメラがとらえると、レジ裏のパソコンに「男性35歳 ID・・・」などと表示されたりするのだ。

 

1755

 

全国約100店を数える某書店では、全店舗での顔認識システム導入を進めているそうだ。データベースに万引きした疑いのある客の顔データを登録し、来店するたびに検知する仕組みなのだという。

「防犯カメラ作動中」との告知が店にはあるが、顔認識機能があることは触れられていない。“顔認識”の市場は拡大しているが、まだルールは不明確な状態のままらしい。

それは、通常のカメラも顔認識カメラも撮影目的は同じなので問題ない、との考え方に基づくからだという。

日常で見慣れている防犯カメラではあるが、その用途も拡大され、知らぬは撮られるお客さんご本人たちだけなのだろうか。

  

1756

 

知らぬといえば、正月にのむ「お屠蘇(とそ)」の正体もつい最近知った。
「お屠蘇」についてのアンケートでも、はっきり答えられる人はほとんどいなかったという。

「お屠蘇」とは、日本酒や本みりんに屠蘇散(とそさん)と呼ばれる生薬を一晩漬け込んだものをいい、ルーツは中国にあるとのこと。平安時代に日本へ伝来し、宮中で使われるようになり、一般に広まったのは江戸時代だ。

一年の健康を願う(体にいい成分がたっぷりの)屠蘇は<邪気を屠(ほふ)り、心身を蘇らせる>という意味があり、元旦に飲むことで一年間元気で過ごせると信じられてきた。

昔の庶民には「七味五悦三会(しちみごえつさんえ)」と呼ばれる風習があった
この1年間で体験した<7つのおいしい味、5つのよろこばしい話、3つのいい出会い>。それがあったかどうか、大みそかの夜に家族で披露し合うのである。

さてさて、除夜の鐘が聞こえるまでは、あと少し・・・。
皆様、よいお年をお迎え下さい。<(_ _)>"ハハーッ

 

宇宙エレベーターのスタート

 

炭素繊維「カーボンナノチューブ(CNT)」は、(近年開発が進む)日本発の先端素材である。髪の毛の1万分の1の細さなのに、鋼鉄より丈夫で軽いという特徴がある。

炭素は、温度や光など条件のちがいで、電気の通りやすさが変化する“半導体”の性質を持つ。地球上の様々な物質をつくる基本元素の一つである。人間や動物の体をつくるたんぱく質や脂質にも(炭素が)含まれるという。炭素に水素などが結びつくと、石油などの化石燃料になる。

CNTは、炭素が六角形に結びつき、筒状に丸まった極細の炭素繊維である。
直径は1ナノ~数十ナノ・メートル程度だという。ちなみにナノの単位は10億分の1。
軽くて柔らかいが、両端を引っ張った場合の強度は鋼鉄の20倍、熱の伝わりやすさは銅の10倍だという。

電気や熱を伝える効率が高いCNTは、デジタル機器に使われる集積回路の小型化や、送電線、耐熱ゴムなどの改良に役立つ。

 

1753

 

CNTは、瞬時に充放電する蓄電装置「キャパシター」の電極に使うと、性能が大幅に向上するといわれる。それは、ハイブリッド車電気自動車などの重要な部品への応用はもちろんのこと、宇宙でも応用の場が広がる。

今月の9日に日本の無人補給船「こうのとり」6号機が、種子島宇宙センターから打ち上げられた。“こうのとり”には、実験用の超小型衛星が積まれている。

役目を終えた衛星が、宇宙ごみ(デブリ)にならないようにと、落下させる方法を実験する衛星。また、3Dプリンターで作った長距離通信試験用衛星なども搭載されている。
そして、来年早々には未来技術である「宇宙エレベーター」の基礎実験が始まるというのだ。

 

1754

 

宇宙エレベーター”は、高度3万6000キロ・メートルの静止軌道上から、上下それぞれに数万キロ・メートルのケーブルを延ばし、人や物資を往復させるという壮大な計画である。大手ゼネコンの大林組が大学などと共同研究して、2050年の完成を目指している。

それには、鉄よりはるかに強くて軽い材質のケーブルや、宇宙で数万キロ・メートルに及ぶケーブルを真っすぐに延ばす方法などを開発する必要がある。

衛星は、縦横と奥行きがそれぞれ10センチの箱形を2基 合体させた形で、片方に太さ0.4ミリ・メートルの釣り糸を巻いたリールが入っているそうだ。
ISSから放出した後、宇宙空間で二つに分離し、糸を最大100メートル延ばす。

<宇宙で糸が予定通りに延び、データが得られればとても貴重だ>とのこと。
私には、空想でさえ及びもつかない遠大な計画に思えるが、もうすぐその第一歩が現実化されるという。今のタイミングで、「カーボンナノチューブ(CNT)」という夢のような先端素材が開発されたことへの縁にも、感慨深いものがある。

 

師走に口ずさむ歌は何だろう

 

赤と緑のクリスマスカラーに華やぐ街。
(ずっと以前の)今ごろは、自らの1年と共に、この1年で流行った曲は何か? と振り返りたくなった。しかし、(頭に浮かび)口ずさめる歌が見当たらなくなって久しい。

かつてのように、街のどこに出かけても聴こえてきて、世代を問わず多くの人が口ずさめるヒット曲がなくなっている。

今やCDの存在感も薄れ、ネット配信や動画配信など、幅広いチャンネルで音楽が楽しめる時代だ。リスナーの趣向も多様化し、世代ごとやジャンルそれぞれに一定のファンがいても、幅広い年代が横つながりで親しめる曲はない。

師走に流れる曲を見知らぬ酔客どうしが合唱していた時代、音楽業界にはヒット曲の仕掛人なる人たちが裏側で活躍していたという。

以前、音楽機関誌のコラムに、レコード各社の「レジェンド」たちが登場されていた。
当事者だけに含蓄が深く、実績に裏打ちされた説得力にあふれている。

 

1751

 

人気歌手から音楽プロデューサーになった飯田久彦さんは、『スター誕生!』に出場したピンク・レディーを発掘した。フォーク志向だった2人の女性を、歌って踊れる女性デュオに大変身させ、ヒット曲を連発。その要因は、ザ・ピーナッツの引退で、どうしても再現したいとの思いからだった。

日本初の女性ディレクターだった武田京子さんは、若手トップ女優の吉永小百合さんを担当し、橋幸夫さんとのデュエット曲『いつでも夢を』を実現した。

浅沼正人(Johnny)さんは大きなヒットに恵まれず、歌手の契約終了の交渉に出向いた帰り際、ある歌を聴いて感動した。そして、その奇跡の一曲『トイレの神様』(植村花菜さん)が世に出るきっかけとなった。

ヒットを支えた人たちに共通するものは<「決してあきらめない」、「これまでにないものをつくりたい」、「いいものはいい」>との思いを貫く姿勢である。

 

1752

 

口ずさめる歌が見つからなくとも、クリスマスはやってきた。

「切無刀(せつむとう)」という言葉を最近知った。
なんのことやら? と調べたら、僧侶の世界での数字の符丁らしい。
「切」の「刀」がなくて七になる。

ちなみに一は「大無人(だいむじん)」。大から人をなくすとたしかに一である。
同様に、二が「天無人(てんむじん)」で、天から人を取るからだ。

「数え日」という季語はちょうど今の時期に当てはまるとか。
今年もあといく日と、指折り数えるほど暮れが押し詰まる。

クリスマスが過ぎれば、まっしぐらに仕事納めから大みそかへと急ぐ。
去りゆく時を惜しむのなら、「切無刀」式で数えてみるのもよさそうだ。

指折り数えてみたら、今年も残すところ「切無刀」の7日になっている。

 

忘れられない等身大の作詞家

 

袋に福と書かれていても、中身はわからない。
「だれも、福袋を持たされてこの世に出てくるのでは・・・」。
短編小説『福袋』(角田光代さん)にて、主人公の独白である。

あのときの音楽アルバムも福袋に似ていた。題名を見て選んだとしても、聴いてみなければ中身まではわからない。曲によって人間の弱さや醜さも詰まっていて、人の世の深いふちをのぞかせてくれる。

フォーク黎明期に活躍したアーティストのほとんどが、まだ20歳代の若者たちだった。
全共闘の時代が去り平穏が訪れたとき、若者の心をつかんだのが吉田拓郎さんである。

 

1749

 

1972年7月にリリースしたオリジナル・アルバム『元気です。』で、吉田拓郎さんは時代の寵児になった。アルバムが売れない時代、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録した。

『元気です。』の参加アーティストとして、石川鷹彦さん、松任谷正隆さん、後藤次利さんたちが名を連ねた。

オリコンアルバムチャートでは14週連続(通算15週)1位を独走。アルバム・セールス時代の先鞭をつけた。そして、その流れに乗った井上陽水さんが、1973年12月にリリースしたアルバム『氷の世界』で日本の音楽史上初の100万枚を売り上げた。

 

1750

 

『元気です。』の新鮮さは軽妙なアレンジと、強く印象に残る言葉であった。
このアルバムで初めて、岡本おさみさんを知ることになった。岡本さんの書かれた詞は6曲であった。

フォークを変えたのは拓郎さんといわれるが、岡本さんの詞の貢献も大きい。
作曲者としての吉田拓郎さんとのコンビで知られ、数々の名曲が生まれた。
森進一さん歌唱で、日本レコード大賞を受賞した『襟裳岬』もこのコンビの作品だ。

『落陽』、『旅の宿』、『祭りのあと』、『野の仏』、『ビートルズが教えてくれた』、『ひらひら』など、今も歌い継がれている曲ばかりだ。この秋の拓郎さんのコンサートでも、岡本さんの言葉を堪能させていただいたばかりである。

“浴衣のきみ”は、岡本おさみ夫妻が青森の温泉に新婚旅行で出向いた折の「色っぽいね」らしい。吉田拓郎さんは『旅の宿』の歌詞のネタ元を長年知らずに歌い続けていた、という。

生真面目な雰囲気の岡本さんと「色っぽいね」がどうしても結びつかなかったそうだ。それを知って以来、『旅の宿』を歌うたびに新婚旅行中の岡本さんの顔が浮かんできて、複雑な胸中に陥るらしい。数年前、ラジオで拓郎さんが語っていた。

旅好きな岡本おさみさんは、岬近くの民家で老夫婦から「何もないけれど」とお茶を出してもらった。その体験が「♪何もない春です」の『襟裳岬』になったという。
前から、温かみのある雰囲気を思い浮かべるサビだと思っていたが、こういう逸話があったのだ。

素敵な言葉をたくさん残してくれた岡本おさみさん。
2015年11月30日、73歳で惜しくも死去された。

 

2週間の風景を綴る時速とは

 

今年もあと2週間。
毎月、2週間はすぐに過ぎ去るが、今月の2週間はアッという間だ。

この時期に必ず思い浮かべるのは、昭和の作家・池波正太郎さんである。
千枚近くの年賀状を初夏の頃から少しずつ書き進め、一人ひとりを思い浮かべ、その名を直筆で記した。

手書きの味わいをわかっていても、自分では宛名、文面ともパソコン印刷で、添え書きは奥さんにまかせっぱなし。

ネットでの友人宛てにいたっては、20年前からメールだけの年賀状。最近はもっとお気楽なLINEでのご挨拶である。実に情けない。

 

1747

 

野坂昭如さんによると、コラムは「3つの“み”」で書くそうだ。
<ねたみ。ひがみ。そねみ。>である。

しかし、「3つの“み”」にも限界はある。
池波正太郎さんはもちろんのこと、今年メジャーで3千本安打を達成したイチロー選手などと、彼我の力量の差があり過ぎるものは、ねたむにねためない。

手当たり次第にねたんでいけば、人生がいくつあっても足りなくなる。

「ギャグ(gag)=面白いもの」と思い込んでいたが、その意味はまったく違っていたようだ。
物が言えないよう口に押し込む物。さるぐつわ。言論圧迫。などである。
そのあとでやっと、“冗談”という単語が出てくる。

年がら年中、ギャグのようなことを繰り返すだけなので、新年こそ変わらなければ。
といっても、この時期のこの思いは毎年繰り返されているだけなのだが。

<ほんまにもう、ムチャクチャでござりまするがな>。
昔懐かしい昭和のギャグにあったような気がする。

 

1748

 

人間の歩行速度は(個人差はあるだろうが)時速4キロといわれる。
人類が授かった時速4キロは、それ以上速くても、遅くても、物足りない絶妙のスピードなのらしい。

現代の社会では、移動手段としてほとんど当てにならないスピードでありながら、都会の雑踏や大自然の中、 普通の住宅街をのんびりと歩いていると、いくつもの発見がある。

車を運転するときとちがい、徒歩から得られる視覚、聴覚、嗅覚が楽しい。
それらの刺激で、日々の生活や仕事について考えをめぐらせたり、頭の中を空っぽにしたり・・・と。

自分の足で道を行くことは生活の基本で、日常の小さな喜びの“みなもと”なのかもしれない。今年残された2週間という時間。時速4キロで自分探しをしてみるのも悪くはない。

 

原人の登場は最後の2センチ

 

冬の噺(はなし)に、古典落語の名作が多いという。
その代表格としては、『芝浜』や『富久』か。

財布を拾ったり、富くじに当たる。
ほんの偶然から大金を手に入れるなど、ツイている人物が落語には登場する。

立川談春さんによると、「改心して、努力して、必死に懸命に生きた結果、つかんだささやかな幸せ、なんていう話は、ただの一つもない」ようだ。

現実では、なかなか財布も拾わず、宝くじの大当たりとはいかない。
絵空事だと分かっていても、つらい真実よりも優しい嘘が慰めになるのかもしれない。

 

1745

 

脚本家・倉本聡さんは「ナスの呪い揚げ」を食べるとか。随筆『愚者の旅』に書かれていた。それは、自作のドラマを批評家から(理にかなわず)酷評されたときの儀式のようだ。

ヘタを取り、刻み目を入れる。そして、批評家の名前を唱えながら、(先のとがった)割り箸でくし刺しにする。油の煮立つ鍋で揚げ、ショウガ醤油で食べる。
その食物は、心によく効くらしい。

誰の心にも相性の悪い相手がいる。やけ酒、このような特異な料理も、感情の清算をつけるために人が作り上げた知恵だろう。

大人になるということは、この“知恵の引き出し”をいくつも用意することなのだろうか。

 

1746

 

先週末、時間調整で横浜の港を散歩した。
気温も下がっていたので真冬の格好をしていたら、大汗をかいた。
電車の中も暖房が効きすぎて、上着を脱いだが暑かった。

<暖冬よ ちらちらちらちら蝶(ちょう)とんだ>。
コピーライター・土屋耕一さんによる回文だ。
上から読んでも下から読んでも同じ綴りになる文句である。

温室効果で悪玉のようにいわれる二酸化炭素
しかし、二酸化炭素がもし無ければたいへんなことになるようだ。
地球の平均気温が15度くらいの場合、零下18度ほどになってしまうという。

微妙な自然のバランスの中で、多くの生命と人間の文明も栄えてきた。
バランスが狂いだしたのは産業革命からという。化石燃料の消費が急激に増えた。

先進国はこれまで二酸化炭素を出して繁栄してきた。
途上国はその責任を指摘しつつも、これからの発展を前に歯止めをかけられては困る、と消極的だった。

1億年を1メートルとして、地球の歴史46メートルの中では、原人の登場が最後の2センチ。近代の歴史はミリにも満たないそうだ。

人生、現実は良いことばかりではないし、“知恵の引き出し”を駆使しなければ渡り歩けないこともある。その中で、いくつもの感情や喜怒哀楽を授受している。
それも地球があればこそだ。

文明が引き起こした気候変動は、人間が解決するほかに術はない。
ミリにも満たない存在で、(地球や他の生きものにとっての)疫病神でありたくはない。