何でもある国にもないものが
文豪・夏目漱石さんは無類の甘党だったらしい。学生時代には、汁粉の食べ過ぎで盲腸炎になり、教員時代は答案の採点中にビスケットを食べて止まらなくなる。
作家になってからも、自宅にアイスクリーム製造機まで備えた。そして、絶えず胃痛を訴えつつ、甘い菓子をやめられない。ついには糖尿病を患ったとのこと。
レストランやホテルで、最高三つ星の格付けで知られる「ミシュランガイド」は、客を装った覆面調査員により評価が示される。
知っているあの店にいくつの星が付くのかと興味は尽きないが、味の好みは人それぞれである。高い格付けに誘われて食べても、期待外れということもある。
ミシュランガイドをめぐり、調査員とレストランのなれ合いなどを指摘した暴露本が出て、話題になったこともある。
持ちつ持たれつの関係が、星の数に影響したことはなかったか。そういえば、“モリカケ問題”は騒がれなくなったが、根底の“持ちつ持たれつ”はよく似ている。
「百舌(もず)勘定」という言葉がある。自分の懐の痛まぬ算段を人に押しつけることだ。モズとハトとシギが15文の食べ物を買った。モズはハトに8文、シギに7文払わせ、自分だけ知らんぷり。
モズは小さな体なのに肉食系で、タカみたいに猛禽(もうきん)扱いされた。モズがどうして“ずるいけちん坊”に見たてられたのかはわからぬが、“百舌”の名のとおりいろいろな鳥のさえずりを上手にまねる習性から定着したそうだ。
モズからの連想で、“におい”という漢字の使い分けのややっこしさが浮かぶ。
サンマを焼いて漂うのは“匂い”で、鼻を突くのが“臭い”なのか。同じ鼻でもくすぐれば“匂い”ということらしい。そして、元から断ちたいのはやはり“臭い”なのであろう。
国を代表する方たちが、「モリカケ」と呼ばれる疑惑にて一生懸命で「臭いものにふた」をする動きは滑稽であったが。
<この国には何でもある>と始まり、<だが、希望だけがない>と結ばれる。村上龍さんの小説『希望の国のエクソダス』(2000年)の中にあるセリフだ。
大好きだった盲目の津軽三味線奏者・高橋竹山さんは若いころ、東北から北海道を門付けして歩いた。撥(ばち)の代わりにカミソリの刃で弾いたこともあるという。下手をすると糸が切れる。
「そこをどうやるかが芸で・・・」と、のちに語っている。行きずりの人に聴いてもらうには、そういう趣向も大事だったのだろう。
芸一筋だけでは食べていけない。しかし、“ないものだらけ”だからこそ崇高な芸は磨かれたのであろう。
百舌勘定が先行する政治家たちとは、(人としての)“味”と“におい”がまったく違う。