名前に宿るふしぎな魂と心
江戸から明治に移ると、人々は以前ほど泣かなくなった。
柳田国男さんの説である。
教育の普及で、人々は感情を言葉で伝える技術を磨き、涙という“身体言語”の出番が減ったそうだ。とはいえ、“身体言語”のDNAはかんたんに消せず、なにかの拍子に現れることもある。
前評判の高いクラシックコンサートが外れた。
ある巨匠が来日し、高額の出演料なのに演奏の出来は悪かったという。
それでも客席からは、ブラボーの声が鳴り響く。
ひとりだけ<ベラボー、ドロボー>と叫んだ人がいた。
作家・三浦朱門さんの知人であった。
そのことを三浦さんがエッセイに書いていた。
<仏(ほとけ)作って魂入れず>。
すばらしい仏像を作っても、作った者が魂を入れなければ、単なる木や石と同じである。それが欠けたら、作った努力もむだになる。
古代では、女性に名前を問うことは求婚を意味したらしい。
名前にはその人の魂がこもり、名乗ることは魂を相手に渡すことになり、結婚を受け入れることになるからだという。
また、名前には不思議な力が宿る。
作家・三島由紀夫さんの本名は平岡公威(きみたけ)さんである。
若々しいペンネームに比べ、本名はとても荘重である。
もし、本名で作品を書いていたら、あの若さで亡くなることがなかったのでは、との見解もあるようだ。
人生を、名前で大きく左右されたり、あるいは呪縛される。そこまでいかなくとも、なんらかの影響は受けるかも知れない。
昭和の時代は“子”のつく名の女子が多かった。
名前の方も、時代の影響を被らざるをえない。
名づけには、子どもの幸せを願う親の愛が映るといわれる。
女の子の場合には、耳に心地よい“音”を大切にする傾向があるそうだ。
若い世代の女性の名前によく使われている音は「ゆみなまりあ」の六つ。
それを複数組み合わせ、“りな”、“まゆ”などと読む名前が多いらしい。
(飯田朝子さん著『ネーミングがモノを言う』より)
批評家・小林秀雄さんいわく、<他人と間違えられないために、が命名の根本条件>なのだ。世の中にたった一つという個性の追求は今も変わらない。。
試しに自分の名前をFacebookで検索してみたところ、私と同姓同名で漢字もまったく同じ人が8人も出てきた。姓名ともポピュラーではないはずなのに、たった一つという個性は、もろくも崩れ去ったのである。