日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

聞くのも記すのもコツと経験

 

自分がなにかを書くようになると、自然と人の話に耳を傾けるようになっている。
それはネタ探しでもあるが、読むこととはちがう情報への興味が増しているからだ。
ネット時代で情報源は多彩になり、何を流行と感じるかも人それぞれであるが、人から聞くことがとても新鮮で安心できる。

年末によくある“年間大賞”というくくりとはちがい、流行は数か月単位で変わる。まして、メディア環境の変化は慌ただしい。それでも新しいことを見聞きして記すことの基本は、変わっていないはずだ。

新人の新聞記者は、なんでも初体験のためすべてがニュースに見え、原稿を書くが甘いと言われ、よく没になるという。経験不足のためだ。また、経験や先入観に縛られると、目の前にある新しい要素に気づかないこともあるという。知ったかぶりで、手抜き取材をしても痛い目にあう。これもまた経験の教えるところだとか。

 

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今は、医者の問診や記者会見などで、目の前に相手がいても、パソコンばかり見ながら文字を打つケースがよくある。話している人の表情を見て、表情やしぐさなど感じとらずに、“本質”をつかむことができるのだろうか。

心理学によれば、車のドライバーは車両の大きさを自己の大きさと錯覚し、歩行者へ対して無意識に優越感を抱く傾向があるそうだ。急に飛び出してきた人には、ふだん温厚な人も豹変してどなるケースもある。

パソコン機器等で得られるデータやネット記事を鵜呑みにする傾向が無きにしもあらずであろう。等身大の自分を見失わないためにも、今のスタイルに踊らされず、時代や人間の変わらぬ本質をキャッチできる感性を磨く必要性があるはずだ。

時代を通じて変わらないという“不易”と“流行”は表裏一体であり、矛盾するものではないだろう。

 

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<難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに書くこと>。作家・井上ひさしさんの名言である。

書く基本の大切さは、今も昔も変わらないはず。
<飛び回り話を聞くことは大切だけど、それは取材の半分であり、その成果に見合う日本語を、膨大な言葉の海から探し出し、選択することもまた取材。もっと文章の吟味を>と、新聞記者さんが修行時代に諭された、という話を読んだことがある。重みのある言葉だ。

昨年8月に94歳で亡くなられた作家・阿川弘之さんの随筆集『食味風々録』には、楽しい聞き間違いのお話が記されている。

阿川さんはうまいもの好きのため、食べ物の名前に聞こえるという。
“世の中”が「最中(もなか)」、“無地の着物”が「アジの干物」、“3分の1の値段”が「サンドイッチの値段」というふうにである。

取材で聞く技術は相手があるため、ただ受け身で聞いているだけでは足りない。質問という能動的行為も必要で、聞くタイミングや質問の言葉の選択も難しく、発言を理解する教養も問われるという。<どう聞くか>それは相手次第で、試行錯誤の連続だそうだ。

 

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ノンフィクション作家・沢木耕太郎さんが、インタビューの際に注目するのは、相手が自分を語るときの主語と語尾の変化だという。“私は”とかしこまって話していた人が、ざっくばらんに“俺”がなどと主語が変化する瞬間、その発言内容と表情の変化に着目する。

語尾が“である”などの断定調から“かもしれない”などと、自信なげで曖昧になる瞬間も見逃さないようだ。ある質問に相手の言葉が詰まったときは、次の言葉が出て来るまでじっくりと待ち、相手の目の動きなどのしぐさやからだでの表現を追う。

沢木さんにとって聞くということは、相手の言葉を“意味”として理解することではなく、相手の本質をつかみ取るための営みなのだという。