日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

この時期 想うは寺山修司さん

 

本年もよろしくお願い申し上げます。いつも読んでいただき、ありがとうございます。そして、皆様のすばらしい記事をたくさん読ませていただけることに感謝しております。

明けて新春。366日、8784時間のまっさらな1年はすでに始まっている。
明治の文人・斎藤緑雨さんいわく、<12月31日、敵ありて味方なし。1月1日、味方ありて敵なし>。昔、大みそかには掛け売りの集金人が押しかけるが、わずか数時間寝て目覚めれば、めでたい元日にクリアされ、まっさらな1年が始まるとか。

昨秋、『寺山修司からの手紙』という単行本が刊行された。寺山修司さんと山田太一さんの若き日の往復書簡である。寺山さんが山田さんに宛てた46通と山田さんからの9通が、山田さんの編集で書籍として公開された。

のちに表現者として大成するふたり。政治や芸術について語り、恋の悩みを打ち明けたりと、切磋琢磨した姿が浮かんでくる。

 

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1954年、早大教育学部に入学したふたりが手紙のやりとりを始めたきっかけは、寺山さんが腎臓を患い長期入院したときだ。

<フラレタ、フラレタ・・・ひでえ女だ。魚を引きずってやがる。魚は病気です。魚は、僕だ>。寺山さんからの悲恋を吐露するハガキである。

<少しの憂鬱と少しの怠惰だけだった>。こちらは、寺山さんに自殺を心配させたことをわびた山田さんからの書簡。

<みずみずしいころの、飾りのない日々がここにあります>と、出版に際し山田さんはコメントを寄せている。

寺山修司さんはコラージュ的な表現の名手だといわれる。俳句と俳句を組み合わせて一つの短歌を作り、その短歌のイメージから芝居の脚本を作る。そして、それが後世の人間に上演される。

ひとつの発想、アイデアが形を変え、いつまでも生き続けることになる。寺山さんは表現に永遠の命を与えられるクリエイターなのかもしれない。

 

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<百年たったら帰っておいで/百年たてばその意味わかる>と書いた寺山さんについて不思議な現象がみられるという。

没後30年以上になるが、毎年のように新しい本が出版される。再編集されたものもあるが、初めて世に出るものも多いという。ここ1年の間にもいくつかの未発表作品が刊行された。

生前に手掛けたジャンルの広さと未発表作品の多さ。そして、関係者の思いの強さに加え、新しいファンが増えているともいわれている。

月光仮面の「おじさん」も、少年探偵団も、与えられた「正義」のためにばかり働いてきて、それを見きわめる「正義観」など、もつことができなかったのである。だが、正義の為働こうとするものは、自らの正義を作りださなければならない、というのが、私の月光仮面への最初の注文である>。

『書を捨てよ、町へ出よう』の中の『月光仮面』の一節である。正義の味方なのに、なぜ素顔をさらさないか。誰もが知っているキャラクターを使い、抽象的な問題、正義の本質に迫っていく。

 

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寺山修司さんが残した言葉は風化するどころか、読者の心に根を下ろしている。
1982年(昭和57年)秋、寺山さんは『懐かしのわが家』という詩を発表した。

<昭和10年12月10日に/ぼくは不完全な死体として生まれ/何10年かかゝって/完全な死体となるのである>。

この詩を世に送った翌年の春に、寺山さんは47歳で死去した。
亡くなる3ヶ月前に絶筆の『墓場まで何マイル?』を「週刊読売」に寄せた。

<私は肝硬変で死ぬだろう。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分>。

寺山修司さんは死を前にして書いた。しかし、言葉の墓に詣でる人はいまも絶えない。
寺山さんは“墓”どころか、彼の「ことば」と共に永遠の命を生き始めているのである。
それは、まるで“まっさらな年”のように・・・。