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日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

秋の夜は更けて“からだ”と“こころ”の寿命の差について考えてみた

 

東京・国鉄蒲田駅の操車場で、身元不明の他殺体が見つかった。
殺害されたのは誰か・・・。ご存知、松本清張さんの『砂の器』である。
新聞連載が始まったのは1960年5月だった。
判明した被害者は、51歳の元巡査。「すでに50を過ぎた老人」と書かれている。

今より15歳ほど平均寿命が短かった時代の小説である。50代で晩年に差しかかるというのが、日本人に共通する感覚だったのであろうか。
その時代に、<還暦を壮年と呼ぶべき世の到来>を言い当てたとすれば、慧眼(けいがん)といえるかもしれない。

当時、40年先の日本の姿を予測した『21世紀への階段』(弘文堂)には、<今、20歳の青年は60歳になっても楽隠居になれない>と記されてあった。少子化と老化現象が進むことも予測し、人口増加策の必要性にふれているが、半世紀後もなお手をこまぬいているとは、残念ながら書かれていない。

 

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名優・中村伸郎さんが随筆に書いている。
晩酌のさなか、ふいに気がつき夫人に告げた。「おい、金婚式らしいぞ今夜」。
「50年?」 「そんな気しないな」 「しませんよ」 「うむ・・・」
「ずいぶん引っ越しましたね」 「ああ」 「いろんな犬、飼いましたね」
「ああ」 「トニイなんて奴、どうしようもないバカ犬だった」 「ああ」。

明後日は「いい夫婦の日」だ。
結婚生活で、このような味わいのある会話を、交わせるようになるまでがむずかしいとか。

昨年の生命保険会社のアンケートで、配偶者にプレゼントを贈った回数は、年平均1.5回と前年を上回り、それまでの8年間で初めて増えたという。これも「アベノミクス」の効果かどうか。しかし、8%消費増税の影響で今年はどうであろう。

 

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野外の虫捕りに必要な要素の一つに、<気配を感じ取ること>があるという。
最近は、子供の時分に虫を捕らなかったため、人の気配を察する能力の衰えている人が多いとか。書店で、目当ての本のコーナーに立ち尽くす者の中には、すぐ近くに立っても、なかなか場所をあけてくれないことがある。わざとではなく気づかないのである。

同じもどかしさを、雑踏や駅のホームで味わうことも少なくない。
そのもどかしさを感じる頻度は、スマホの普及後に増えたといえば、うなずける。
「歩きスマホ」を標的にしたひったくり事件もあるそうだ。

そうなると、自分を守るためにも「気配への感度」を取り戻すべく、冬ごもりの準備を始めた虫を、枯れ枝に訪ねることもよさそうだ。

 

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前からずっと思っていることであるが、ひとりの人間の中には“こころ”と“からだ”で別々の寿命があるように感じている。
<“こころ”は永遠で、“からだ”は消耗品>。そう言うと極論すぎるかもしれぬが、“からだ”より“こころ”の方がはるかに長寿なのではないだろうか。

小説などの著書の中では、作者は常に生きている。もうこの世に肉体が存在していないのに。映画の中でも俳優たちは生きている。すでに亡くなられた方たちも、その残像でハッキリと生きている。あたかも、役者の“こころ”が「演じる役柄」に乗り移り、肉体化されていくような気持ちにさせられる。

 

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黒澤明監督が、80歳でアカデミー名誉賞を受賞した際、「私は、まだ映画がよくわかっていない。まだ映画というものを、はっきりとつかんでいない気がする」とスピーチした。喜劇王チャップリンは、記者に「(今までの)あなたの作品の中で、最高傑作は?」と聞かれ、「ネクストワン(次の作品さ)」と応えた。高倉健さんも83歳で、次回作の準備をしていた。

“からだ”の寿命よりはるかに長い“こころ”の寿命を強く感じさせられる。
そういえば、生前の黒澤監督が、<やりたいことが多すぎて時間があまりにも短すぎる>と話していたのを思い出す。そして、「3回分くらいの人生(時間)がないと追いつかない」と。

自分の体験では、20歳代や30歳代でも時間のたつのが早いと感じていた。
若いときから年輩の方ともよくお話をしたが、いくつになっても“気持ち”は“年相応”に追いつけていない方ばかりであった。
そして、50代、60代であっても、30代、40代の意識を飛び越えて、20代の続きだと思っている方は多い。それは70代、80代になってもかわらないのではないだろうか。