日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

井上陽水さんがアカペラで都はるみさんの『涙の連絡船』を歌ってくれたそのときの音楽風景

 

井上陽水さんのコンサートを2度観てる。いずれも、陽水さんが20代の頃であった。初めて生で陽水さんを聴いたおどろきは忘れられない。相模原市の小さなホールで、モップス(The Mops)というバンドがメインのコンサートであった。その前座に登場したのが陽水さんである。その頃、『夢の中へ』が話題になり始め、名前だけは知っていた。モップスは、グループサウンズ(以降GS)でサイケデリック・ロックの草分けとして売り出したバンドで、当時は懐かしのヒーロー『月光仮面』の主題歌を、ユニークなアレンジで演奏して話題になっていた。そのモップスがお目当てで、前座に陽水さんが出ることもまったく知らなかった。そして、陽水さんのステージの幕が上がる前までも、モップスのことしか頭になかった。

 

702

 

ギターの弾き語りで陽水さんが登場した。最初の曲はなんであったのか憶えていない。ただ、静寂の中に響き渡る金属的なギター音と伸びのある陽水さんの高音に衝撃を受けた。会場のだれもが、陽水さんをよく知らなかったであろう。それでも、ただならぬ空気を感じたのではないだろうか。だれも無言で聴き入っている。曲が終われば歓声のない大きな拍手。

陽水さんはしゃべりが苦手らしく、曲名だけ淡々と告げる。会場の照明は、今と比べお粗末きわまりない。ピンスポットライトを浴びる陽水さんのアフロヘアが、拡大されて、巨大な生き物みたいにバックへ投影されている。不気味ともいえるビジュアルとは逆に、こころ打つハーモニカの音色で始まる『いつのまにか少女は』をしっとりと歌い上げる陽水さん。初めて聴く『傘がない』、『人生が二度あれば』もすごかった。

お目当てだったモップスはほとんど印象に残っていない。演奏中に電気のトラブルでボーカルマイクから音が出なかったりと、コンディションの問題もあったのであろうが、陽水さんのアコースティックな迫力のあとには、超える壁が高すぎる。

ザ・フォーク・クルセダーズで一世を風靡した北山修さんは、今でもラジオやテレビで語っている。「陽水が出てからやめようと思った。あの歌はプロだ。とてもかなわない」と。

 

703 704

 

2度目の陽水さんのコンサートは横浜文化体育館であった。まだ、横浜アリーナが出来る前の時代で、横浜の大きなイベント会場としてよく使われていた。初めてのコンサート以降、陽水さんは瞬く間に売れた。1973年発売の3枚目のアルバム『氷の世界』は、アルバムとして日本市場で初のミリオンセラーを記録した。吉田拓郎さんと双璧をなし、フォークソング界、ニューミュージック界を牽引するほどまでになっていた。

最初のコンサートのときとはちがい、こちらも陽水さんのレコードを買い込み、さんざん聴いていた。今度は会場のだれもが陽水さんを知り尽くしているため、掛け声や歓声でにぎやかに盛り上がった。

陽水さんはMCもうまくなり、間合いにも余裕を感じられた。そして、話の途中で急に「歌っちゃおうかな・・」と。どうやら、陽水さんは都はるみさんのファンだったそうで、アカペラで都はるみさんの『涙の連絡船』を歌ってくれた。陽水さんの歌声で聴く『涙の連絡船』はなかなかのもので、あらためて名曲であることを知った。

 

705

 

思えば、この時期は日本の音楽界の岐路であったのかもしれない。歌謡曲と呼ばれていた頃の体質からの脱却とでもいうか。それまでは、レコード会社専属の作詞家、作曲家が提供して専属の歌手に歌わせていた。GSブームで体質も変わるかと思われたが、大部分はプロの手による作品を歌い、演奏させられていた。目指していた音楽性とのちがいで解散するバンドも多かった。

陽水さんがステージで都はるみさんの曲を歌っていた頃、岡林信康さんは、美空ひばりさんや西川峰子さんと交流を持ったり、吉田拓郎さんは森進一さん、キャンディーズや女性アイドルに、自身の楽曲をどんどん提供していった。もちろん、陽水さんも沢田研二さんなどに曲を作っていた。シンガーソングライターたちの楽曲が、日本の音楽界にどんどん浸透されてきた、歴史的な時代といってもいいかもしれない。

他に思いつくだけでも、大滝詠一さんが小林旭さんや森進一さんへ、小椋佳さんは布施明さんへと歌謡曲のスターたちへの楽曲提供をしている。ユーミン山下達郎さんもアイドル歌手に提供して大ヒットさせている。中島みゆきさんの『春なのに』などはとても思い出深い。そして、クォリティの高いシンガーソングライターたちの提供楽曲が大きな賞を獲得して、ヒットの中心が(既成の作家から)変わっていくのである。

 

706 707

 

俳優の加山雄三さん、荒木一郎さん、(先代の)市川染五郎さんなどが自作の歌を発表していた頃は自作自演と言われていた。歌謡曲といわれた時代である。Wikipediaによると、「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは1972年で、吉田拓郎さんのブレイク以降らしい。となれば、陽水さんもシンガーソングライターの一期生といえよう。この頃のジャンルの名称がまた曖昧でもある。フォークソング、ニューフォーク、フォークロック、はたまたニューミュージックと呼ばれた。

ニューミュージックの定義を調べると、1970年代から1980年代にかけて、ポピュラー音楽の一部に対して使われた名称で、J-POPは、一般にアイドル曲、歌謡曲も含むが、これに対して、ニューミュージックは、歌謡曲ではないことが本来の基本であり、シンガーソングライターであること、とか。とても複雑なようであるが、要は、陽水さんや拓郎さんのような方たちの歌のことなのだろう。その終わりは1980年代末頃らしい。

 

708

 

1982年に登場したCDおよびプレヤーの爆発的な普及により、1992年頃から「ミリオンセラー」という現象が続発した。1991年のミリオンセラーは(シングル、アルバムの合算で)9作品、1992年は22作品、1994年には32作品である。トップ10のアーティストだけで年間売り上げシェアの4割を占めたそうだ。

CDをはじめとしたデジタル技術は音楽制作現場においても変化をもたらした。制作環境の変更に伴う大量生産による音楽制作と相まって、一握りの成功者とその他、という図式になった。また、制作環境のデジタル化に伴い、それまで製作現場で実際に楽器を演奏していたスタジオミュージシャンの仕事が激減するなどの弊害も生まれた。

シーケンサーやサンプリング・シンセサイザー、MIDIなどの技術により、楽器を実際に弾く事無く楽曲を作成する事も可能になり、デジタル技術による音楽制作は、人、時間、予算の大幅な削減をもたらし、楽曲の大量生産が可能となった。そして、ミリオンヒットが出現する確率は高まるが、没個性化やクォリティの低下が進み、音楽が消耗品として見られるようになる

 

709 710

 

それまで、作詞家の阿久悠さんが1977年に個人として記録していた1172万9000枚の売り上げ記録も、J-POPの時代に入り織田哲郎さんが1993年に更新した。

そのJ-POPも、2000年代後半に入るとミリオンセラーのCD自体が減少するようになった。2008年から3年連続でミリオンセラーとなるシングル盤がなくなり、2003年の「世界に一つだけの花」(SMAP)を最後に200万枚を超えるシングル盤が現れなくなった。

その一方で、音楽配信(デジタル・ダウンロード)の売上が増加している。CDやレコードという音源記録媒体を購入する時代から、音源そのものだけを購入するダウンロード販売が主体の時代へと移行したことを示している。

また、CD売上げ減少のもう一つの要因として、AKB商法やK-POP商法などといわれる特典商法のありかたにも問題があるかもしれない。熱心なファンがタイプ別版を揃えるだけでなく、同じ商品をさらに、複数枚買うように仕向けるセールス方法には、疑問を感じる。

さて、陽水さんはその後も1984年のアルバム『9.5カラット』が売り上げ100万枚。1999年のベスト・アルバム『GOLDEN BEST』は売り上げ200万枚を達成して、長いキャリアを通して高い人気を維持し、現在も活躍し続けている。

そして、歌謡曲の作詞で大活躍だった阿久悠さんが「本当は、プロの作詞家、作曲家で作る方がいいんだよ」と、亡くなる少し前の病院でふとつぶやかれたそうである。そのことを伝え訊いた。