日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

ことばの表現はわかりやすく

 

<世の中は三日見ぬ間に桜かな>(大島蓼太)。江戸中期の一句である。3日ほど見ていなかったその間、桜の花が咲いていた・・との情景。そろそろ、この時期である。

転勤、引っ越し、卒業の時期でもある。門出を祝い贈る品物やお金、言葉などに使われる“はなむけ”の“はな”は“花”ではなく、向けるのは“馬の鼻”だという。昔、旅人は乗った馬の鼻先を、これから進んでいく方角に向けて安全に旅ができるように祈ったとのこと。

<世の中は三日見ぬ間の桜かな>。こちらは、すぐ花の散る桜に世の変化の激しさを喩えた警句だ。

谷川俊太郎さんの言葉にある。<成人とは人に成ること>。政府が成人年齢を20歳から18歳に引き下げても、今の世に起きている多くの事件では、いくら歳を重ねようとも人となることはむずかしいようだ。

何事にもわかりやすい表現は大事だ。

 

 

<本来は大統領や首相が受けるべき平手打ちや蹴りを、彼らに代わって受けさせるために巧妙につくられた政治的な仕組み>。『悪魔の辞典』の著者である米国の作家アンブローズ・ビアスは、「行政府とは、何のために存在するか」について、こう説明した。

また、英国の作家バーナード・ショーは、“うそつきが受ける罰”について<人に信じてもらえなくなることではない。他人を誰も信じられなくなることである>と言った。

1945年(昭和20年)8月、終戦前の霞が関の官庁街で、建物の庭先から煙が上がった。資料や文書を焼却せよとの指示が政府から出たからだ。何日もその作業が続き、あの戦争で誰がどんな指示を出し、どう決まったのかという多くの真実が葬られた。

しかし、そのことが日本にとり、重大な失敗になっていく。他国から戦争中の行いを非難されたとき、「そんな記録はない」と反論しても「焼き捨てたんだろう」と言われればそれで終わり。政治・軍事の当事者たちには、歴史に対する責任感がなかったようだ。

 

 

“文書主義”といえば、わずらわしい役所の書類仕事が思い浮かぶ。8世紀の日本では大宝律令で、唐をまねた文書主義が導入。中央と地方の連絡などに膨大な文書が作成された。

昨年、財務省の森友文書「書き換え/改ざん」問題で、麻生財務相は改ざんにかかわったのは理財局の一部という。役人の勝手な小細工が悪いのだと。その役人を租税徴収のトップに厚遇し、率いる行政の病理にうわべを取り繕い、国民の信頼を失墜させた責任は眼中にない。これが上述の“政治的な仕組み”なのか。

安倍首相はこの財務相に真相解明を委ねた。本来、受ける立場の平手打ちや蹴りなど、どこ吹く風の如くに。

物事にはやり始めがある。“出はな(出ばな)”は“出鼻”とも書く。顔から突つき出た端(はな)の部分が“鼻”である。馬の鼻先を向けて、安全に旅ができそうな舵切りには長けているが、蹴った後ろ脚にどれだけの人が埃をかぶればいいのだろうか。