娯楽性の中にあるべき芸術性
数年前テレビで、漫画家のさいとう・たかを さんが、黒澤明監督の話をしていた。
その黒澤論がおもしろかった。
黒澤明監督作品から学んだものは多いと言う。
その続きで、娯楽作品があんなにすばらしいのに、社会性やメッセージを前面に押し出した芸術作品には興味がまったくわかない、とのこと。
『野良犬』、『七人の侍』、『隠し砦の三悪人』、 『用心棒』、『椿三十郎』、『天国と地獄 』、『赤ひげ』・・・。たしかにおもしろい作品ばかりである。
『七人の侍』は、本場であるアメリカ西部劇の『荒野の七人』として生まれ変わり、シリーズ化された。『用心棒』も焼き直され、クリント・イーストウッドさん主演の『荒野の用心棒』が世に出た。
この作品がきっかけで、マカロニ・ウェスタンのブームが起こり、クリント・イーストウッドさんに大スターへの道が拓けて、さらに名監督にもなった。
『七人の侍』製作時のエピソードがある。
撮影の段階で、当初の予定の上映時間がどんどん伸び、予算もはるかにオーバーした。
映画会社の東宝から中止を告知された。
撮影済分だけをとりあえず試写することになり、重役陣たちも集まり渋い顔で観始めた。
その試写は、野武士の一団と戦う七人が寄せ集められ、その対決を一致団結して臨む・・・というシーンで終わっていた。
そこまで観せられ、おもしろくなってしまった重役たちは、次が観たくてたまらない状態になっていたそうだ。
そして、完成させることが決定した。
「上映時間を削らないと中止だ」と言い渡された際の黒澤さんのコメントがふるっていた。
<フィルムを切るなら縦に切れ!!>と。
クラシック音楽も古典落語同様に、元は娯楽目的の芸術だったのではないのか。
バロック時代までの音楽家は、王や貴族といったスポンサーあってのモノだったが、18世紀後半になるとコンサートが盛んになり、市民にも音楽が浸透したそうだ。
出版社から楽譜を発売することで、才能のある音楽家は自分自身でお金を稼ぐことができたという。
話し変わるが、私は“X JAPAN”というバンドの大ファンである。
ヴィジュアル系ロックバンドとしてのデビューだったらしいが、そんな風に見たことは一度もない。
スピード感あふれる楽曲もさることながら、あの美しいメロディーラインがたまらないのだ。
いつもクラシック音楽のつもりで聴いてしまう。
聴いていると娯楽感などなくなり、芸術的にさえ思えてしまう。
クラッシック、民謡、ジャズ、演歌・・・。
思えば、どんなジャンルの名曲も、作者の鼻歌から始まったのであろう。
音楽 のみならず、すばらしい作品は身近にたくさん埋もれているのかもしれない。
それは娯楽的であり、また芸術的でもあるようだ。きっと・・・。