日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

映画に対する言葉や想い入れ

 

<映画は芝居ではない。ドキュメンタリーである>と語ったのは高倉健さん。「演じる」と「生きる」のちがいについて語ったのはアラン・ドロンさんである。<修行を積んだコメディアンは役を演じる。経験なしからの俳優は役に生きる>。

ビートたけし(北野武)さんは、黒澤明監督の映画について“小説のような作品”と言っていた。映像では小説のように気が付かない場面がいくらでもあるが、細かい演出の積み重ねで、小説を書いているような映画にしてしまうのが黒澤監督なのだと。

北野映画には独特のテンポがある。過程を省略した演出が特徴で、いきなり車が画面に入ったらもうパーキングエリアにいる。その間は全部無視して思い切りカットする。たとえ、一週間かけた映像でも・・だ。

 

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たけしさんは『アナログ』という恋愛小説を書いた。アナログ時代の情緒とデジタル社会で失ったものを思うと、楽しみ時間を削られているような気がするという。

小説と映画の違いには、言葉と想像力の世界観がある。映画と小説の間にあるのが脚本だ。それはカメラで撮るための準備稿ともいえる。

小説は言葉だけで映像を頭に描かせるが、想像力を使って映像を見せる作業というのは、映画のカメラで10秒のことを小説に書いたら2、3ページかかる。たった5、6秒で終わるシーンを永遠とやっている場合もある。そしてその文体がきれいかきれいではないか。言葉使いがおかしいとか、評論家に怒られる。

時間とお金をかけた映画は捨てていいときでも撮っておく。そのまま並べていくとテンポが悪い場合はスパッと切る。貧乏なやつは映画が撮れないよ、と たけしさん。大金をかけたやつをみんな捨てるのだから。切って大失敗もあるが・・・。

 

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小説ではほんの数行の描写の部分を、見事なクライマックスに昇華させた映画もある。『砂の器』という名作である。

作品の最高潮となる回想シーンでは、少年が父と長距離を放浪していたとき、施しを受けられず自炊しながら生活する様子や子どものいじめにあい小学校を恨めしそうに見下ろす姿。そして命がけで父を助け、少年が怪我を負う場面などを淡々と描写している。

そこへ劇的に流れる音楽が、『砂の器』のテーマ曲である(ピアノと管弦楽のための)組曲『宿命』なのである。その根底にあるのは「悲しみ」か。

黒澤監督が演出した映画『羅生門』(1950年)にて橋本忍さんは脚本家としてデビューした。黒澤組のシナリオ集団の一人として、『生きる』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆した。

「橋本プロダクション」を設立後、1974年に第1作として山田洋次さんとの共同脚本で『砂の器』を製作。興行的に大成功で映画賞を総なめにした。原作者の松本清張さんも「小説では絶対に表現できない」と、この構成を高く評価したという。