夕暮れ時は寂し嬉しの雑感
<夕暮時というのが嫌いだった。昼間の虚勢と夜の居直りのちょうどまん中で、妙に人を弱気にさせる>。
向田邦子さんのシナリオ作品『冬の運動会』にて、主人公である青年の独白が印象深い。
夕暮れ時は、“どうにかする”の虚勢が“どうにでもなれ”の居直りに転じる境目なのかも知れない。仕事をしていても、尻の落ち着かぬ時間帯であることは否めない。
フランスの食通・ブリアサヴァランいわく、<晩餐の会食者はいずれも、いっしょに同一の目的地に着くべき旅人同士の心持でなければならぬ>のだと。
旅人どうしは、縁があり同じ団体になったり、同じ乗り物に乗り合わせたりした人たち。
ひとときの時間と空間をともにする。たとえ一期一会の隣席でも、気分を害し合わずに過ごしたいのが人情だ。
列車の旅では、他人の哀しみや喜びと隣り合うこともある。まるで、人生の交差点のように。
評論家・小林秀雄さんは急行の食堂車で夕食をとっていた。上品な老夫婦が同じテーブルについた。夫人の小脇には、(背広を着、ネクタイを締めている)人形があった。
夫人はスープを人形の口もとに運んでから、自分の口に入れた。
小林さんは察した。人形は亡くなった息子さんだろうと。
小林さんが昭和37年に書いた『考えるヒント』内のエッセイ『人形』である。
会食は穏やかで、静かに続く。
その後、小林さんのテーブルへ、大学生らしき若い女性が相席になった。
女性はひと目で状況を悟り、人形との会食に順応したという。
その“観察眼”に、小林さんは心惹かれたようだ。
イラストレーター・益田ミリさんのエッセイにも夕暮れの列車風景があった。
出張帰りか、一日働いた“がんばった匂い”で車内はいっぱい。
<寝ている人が大半だった。空席を挟んだわたしの隣の男性は、パソコンのキーボードに両手を乗せたまんま熟睡していた>。
無防備な寝顔を見せて列車に揺られる。あたりまえのやすらぎがとてもいとおしい。
<梅の花さくころほひは/蓮さかばやと思ひわび/蓮の花さくころほひは/萩さかばやと思ふかな>。島崎藤村さんの詩『別離』にあった。
この花が咲けば、あの花も見たい。その花が咲けばまた別の花が待ち遠しい。
“無い物ねだり”はだれにもありそうだ。
四季の移ろいも同様で、冬の木枯らしに夏を慕い、夏の炎暑に冬を懐かしむ。
傘の持ち歩きや滑りやすい舗道。鬱陶しさと小さな面倒くささがつきまとう。
梅雨明けが待ち遠しい時期ではあるが、明けたら明けたで熱帯夜に愚痴も出てくる。
“萩さかばや”などと、秋の花を“無い物ねだり”するにしても、夕暮れには寂しくもうれしい雑感がわいてくる。