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日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

ノーベル選考の日本作家たち

創作・作家


ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表されるそうだ。

鎌倉の川端康成邸を訪ねた三島由紀夫さんは、茶の間のテレビでロカビリーの番組を一緒に観た。1958年(昭和33年)3月のことである。

ロカビリーという激しいリズムの音楽は、(この年2月に開催した)第1回日劇ウエスタン・カーニバルを引き金に一世を風靡した。

「一度劇場で見たい」
川端さんは三島さんに言ったという。
数年後、ノーベル賞候補に名を連ねるふたりである。

長嶋茂雄選手がプロ球界にデビューし、石原裕次郎さんの主演映画『嵐を呼ぶ男』が大ヒットした昭和33年は、戦前の香りを持たない若者たちが時代を闊歩した年であろう。

 

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三島由紀夫さんが1963年(昭和38年)のノーベル文学賞のゴール目前、有力候補6人のなかに入っていたという。ノーベル財団が(50年を経て)公式サイトで発表した。

そして、その5年後(1968年)に川端康成さんが日本人として初めての受賞者となる。
三島さんが後退した背景はよく分からないままである。第1回のノーベル文学賞ではトルストイが選に漏れている。さまざまな文学観が衝突する選考過程は、かんたんに説明できる性格のものでもないようだ。

川端さんと三島さんは互いに尊敬し合っていたという。下界の詮索を、川端さんはトレードマークの目玉でギロッとにらみつけ、三島さんはお得意の豪傑笑いで笑い飛ばしていることであろう。

 

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つい最近、1965年までのノーベル文学賞の選考経過が記された記事を見つけて読んだ。そこには谷崎潤一郎さんの名前が記されていたのである。同年7月に亡くなられた谷崎潤一郎さんの作品が、日本人初となる68年の川端康成さんの受賞へ向け、日本文学の理解を深める先導的な役割を果たしたことがわかったという。

谷崎さんは、58年と60~65年の同賞で、最初の段階の候補に入り、60年代前半には、詩人の西脇順三郎さん、三島由紀夫さん、川端さんも候補に挙がったという。
そして、谷崎さんは60年と64年に(数人に絞られた)最終候補にも残り、受賞に最も近い位置にいたそうだ。

64年の選考で、“テクニックは高度であるが、それが受賞に値する程すばらしいと確信することができない”とのことだった。『細雪』の英訳では、谷崎さんの<繊細なニュアンス表現を得意とする芸術性>を表現しきれておらず、不利だという指摘があるとも記述されていたらしい。

たとえば、『春琴抄』は単なる“サド・マゾごっこ”、『刺青』は“暴力的な話”にとらわれがちになり、複雑な文体や日本の風土への理解が抜け落ちれば、起伏に富むものを好む欧州の文学観と合わなかったのではないか、とも評されている。

 

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三島由紀夫さんは日本文化の研究者ドナルド・キーンさんとの文通で、戯れに<鬼院さま>と書いたそうだ。キーンさんは対して<魅死魔幽鬼夫さま>と返した。

<小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は学問的に正確でした>。

この最後の手紙は1970年(昭和45年)11月の自決直前に書かれたものであったといわれる。

ドナルド・キーンさんはニューヨークに生まれ、戦時下の米国海軍で日本語を学んだ。日本の兵士が戦場に残した日記を翻訳する仕事に従事した。<初めてできた日本人の友だちは皆、死んでいった人たちでした>。

古典や近代文学に親しむ以前、名もなき兵士が残した魂の声を聴いていたのだ。
その体験が後年、日本の精神文化を洞察する視点に独特の深みを増し、三島さんをはじめとする数多くの作家の心をひきつけたのだろう。

1965年のノーベル文学賞では90人の候補に、谷崎さん、川端さん、三島さん、西脇さんの日本人4人が入った。しかし、最終候補には残らなかった。同年の川端さんに関する記述では、<谷崎が亡くなったことで川端が日本人の中で単独首位にたった>と明言されていたという。

 

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