よそ見
私は「よそ見」をするのが好きである。いつも見慣れている場所では、「よそ見」をするのが楽しくてたまらない。似たような言葉で、「わき見」、「わき目」がある。(ネットで)それらの共通する意味をひもとくと、「他のものごとに気をとられて、本来見るべきものとちがうところに目をやる」ということである。
同じような意味でも、やはり、「わき見」と「わき目」より、「よそ見」の方が好きである。「わき目」もふらず遊んだり、仕事もしたけれど、それでもどこかで、「よそ見」はしていた。集中力がないのかと思うこともあるけれど、「よそ見」をしている方が集中できるような気もする。
そのニュアンスのちがいはどこにあるのかと考えていたら、おもしろい記述があった。「よそ見」は、「幼児、子供の動作についてよく使う言葉」だそうだ。そうなると、「よそ見」には子ども目線による「好奇心」のエッセンスが、たっぷりと含まれているのではないか。
散歩がてらに訪れる江ノ島や横浜も、私にとって「よそ見」がとても多い所である。急に行きたくなり、行ってみると、着いてすぐに満足して帰ることもよくある。帰りがてら、いったいなにをしに行ったのだろうと思い起こせば、「よそ見」をしていたことしか浮かばない。もちろん、観光ポイントにも足を運ばない。それ以外のところばかりをキョロキョロしている。
写真を撮ろうと、カメラを用意していても、まったく絵にならないところを数枚だけ撮るのみ。写真を撮ることさえ「よそ見」の延長なのである。そう思うと、楽しいこは「よそ見」の数と比例するのかもしれない。その裏には、童心に帰れる心地よさがたっぷりとあるからなのであろう。