日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

“言葉少な”の嫌われ方好かれ方

 

以前、<身近な人の嫌いな口癖は?>という内容のアンケートをしていた。
約2万の回答の中から、2位は「お金ない」で1934票。そして、4540票という大差で1位に輝いたのはたった一語の「は?」であった。4~5人に1人の割合である。

納得できない、または怒りを表すときに使う人が多いという。
短いだけに伝染してほしくない口癖かもしれない。年齢に偏りもないそうだ。
この社会、言い過ぎもいけないだろうが、「は?」だけでは侘しい気もする。

それでも<完璧が達せられるのは、付け加えるものが何もなくなった時ではなく、削るものが何もなくなった時である>。『星の王子さま』の作者サンテグジュペリさんは言ったとか。

<一人の日々を深くするものがあるなら、それは、どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで、どれだけ多くの言葉でではない>。こちらは、昨年75歳で亡くなられた詩人・長田弘さんの、重みある言葉だ。

 

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詩、散文とも簡潔な美しさの際だつ長田さんのお話はおもしろい。
<にぎやかの反対は、静かじゃない。さびしいなんだ>とも。

『言葉のダシのとりかた』なる詩まで残している。

<まず言葉をえらぶ はじめに言葉の表面の カビをたわしでさっぱりと落とす。そして 血合いの黒い部分から 言葉を正しく削ってゆく 言葉が透きとおってくるまで削る>。

そのあと火にかけた鍋へ、言葉の意味を沈め、沸騰寸前に素早くすくい取り、そっと漉しとるそうだ。そこから抽出された詩と文には、ぜい肉をそぎ切った言葉の数々と、ハッとする一行が静かにたたずんでいた。

 

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ガリガリ君」が25年ぶりの値上げで話題になっていた。
そのお詫びのTV・CMで、フォーク歌手・高田渡さんの『値上げ』がCMソングに起用された。放映期間は2日間のみだったため、私は観られなかった。

高田さんが急逝されて11年。56歳であった。
1969年にデビュー。山之口貘さん、草野心平さんらの現代詩に、フォークのスタンダードを組み合わせ、時事の話題を滑稽に、ときには辛辣な作風が懐かしい。

歌と酒と吉祥寺を愛した高田さん。時の流れにかかわりなく飄々と歩き、寡黙な印象でエピソードも多い。

酔ったステージで、黙ったままギターのチューニングを続ける。音が整うと、歌わずに去った。伝説的すぎるため、真意の程は定かではない。

送る会が都内で開かれた際、1400人のファンが集まり、立ち見客がロビーにあふれたという。その人を慕う心は、別れを告げる場面に表れるのだろうか。

井上陽水さん、なぎら健壱さんら音楽仲間40人以上が高田さんの持ち歌を7時間も歌い継いだという。出演者も観客と同額の入場料1000円を払い、楽屋もなかった。
多くの人が舞台に花を供え、酒を手向けた。

寡黙で酒好きの“フォーク界の吟遊詩人”に派手さはまったくない。
ガリガリ君」のおかげで、その歌声がテレビに流れていたことに感謝である。

 

その金は果たして清潔なのか

 

小説家・三浦綾子さんは雑貨店を営んだことがあるそうだ。

手記の『わたしは手洗いおばさん』によると、<客が菓子を買おうとする。わたしはすぐに手を水道の水で洗って菓子を袋に入れる。金をもらい、つり銭を払う。そこで、また手を洗う>。

客が1人来れば、手を2回洗うペースである。
昭和という時代にかぎらず、そこまでする店は珍しい。潔癖性ではないし、病気をうつされたくないという気持ちでもない。ただ、他者への気遣いにあふれているだけ。

金(きん)の自動販売機が登場して話題になったことがある。その商品はグラム売りで手軽な贈り物サイズとはいえ、中身を合わせれば相当な金額となりそうだ。
自販機ごと盗まれるのでは、と心配になってくる。

欧州の開発企業がその懸念に対してコメントしたそうだ。
<爆薬を仕掛けても壊れないほど頑丈に作ってある>とのこと。
大胆で見事な(金への)気遣いを感じてしまう。

 

http://www.flickr.com/photos/101406145@N04/26917437526

 

日本年金機構サイバー攻撃を受け、個人情報125万件が流出した事件からもう1年。こちらは爆薬どころか、ドライバーでかんたんにこじ開けられたようなものだった。

メールの送受信と年金事務の作業をする端末を分けておらず、ウイルスの侵入をいともたやすく許した。それ以前にも防ぐ手立てはあったはずなのに。

どう見ても単なる情報なのに、そこに宝の匂いをかぎ分けるのが犯罪組織の習性。詐欺がはびこり、情報がカネに変わる。その供給と需要で成り立つ嫌な世の中である。

舛添要一都知事が、政治資金規正法違反の疑いで、マスコミに騒がれている。
3つの政治団体の政治資金収支報告書(2012~14年)を精査した結果、いくつか疑惑が浮上。

会計責任者の単純ミスではなく舛添氏本人の意図的なものと考えざるを得ないとか。
政治資金規正法の虚偽記載の公訴時効は5年で、5年以下の禁固叉は100万円以下の罰金に問われる可能性があり、公民権停止のケースも・・・。

 

http://www.flickr.com/photos/101406145@N04/26951215045

 

小渕優子・前経済産業相政治資金の不明朗な処理をめぐり、元秘書2人が起訴された。一昨年の事件の顛末も気になって仕方がない。

2人は小渕氏の政治団体の会計を担当時、交際費などを収支報告書に記載せず、別の政治団体に寄付したように装うなどし、帳尻合わせをした疑い。偽って報告された額は3億2千万円ともいわれている。

小渕氏自身は“認識証拠がない”として不起訴になったが、自らの政治団体である以上、政治的責任は免れないはず。民間企業で不正が発覚したら、当然本人が責任を負う。

問題が発覚後、小渕氏は弁護士ら第三者に調査を頼み、説明責任を果たすと約束したが、果たされていない。その後の衆院選で再選したが、疑惑の中で立候補すること自体妥当だったか。

三浦綾子さんは店で何かの拍子に髪を触っても、恐縮して水道に向かったという。
不潔な光景を見ると<この奇癖を大声で御披露に及びたくなる>と記した。

 

省かずスタンド・バイ・ミー

 

アメリカのソウル歌手ベン・E・キングさんは昨年、76歳で亡くなった。
1961年にはソロで、名曲『スタンド・バイ・ミー』の大ヒットを放った。

1986年、少年の友情を描いた同名映画の主題歌となり、リバイバルヒットしたといわれている。実情では、ただの主題歌のつもりでいた監督が、<スタンド・バイ・ミー(僕のそばにいて)♪>と繰り返すフレーズに惚れ込んで、映画のタイトルにしてしまったという。

原作はモダン・ホラーの大家スティーヴン・キングさんの短編小説集『恐怖の四季』の中に収められた『ザ・ボディ(死体)』であった。

<僕のそばにいて>。大切な家族や友人を失ったとき、日本人が言えそうでなかなか言えない言葉なのかもしれない。

 

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<わたしが初めて人間の死体を見たのは、やがて13歳になるという12歳のときだった。長い年月がたったとは思えないときもあるが・・・>。

<わたしはこの12歳のときの仲間たちのような友人は、その後ひとりももてなかった>。スティーブン・キングさんは自伝的小説にこう記した。

冒険の旅に出た少年たちを一瞬、稲光が照らす。<神がわたしの写真をお撮りになった…>と主人公がつぶやいた。『スタンド・バイ・ミー』の一節である。

ベン・E・キングさんは東日本大震災の次の年には、被災地へ歌いに来てくれた。
コンサートではなく、仮設店舗のジャズ喫茶で客と合唱したという。
「亡くなった方はあなたの心の中にいる」と声をかけてもらった人もいる。
また、『Sukiyaki(上を向いて歩こう)』を歌い、みんなにパワーを・・とも。

 

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話変わるが、三浦しをんさんは小説『舟を編む』で国語辞典の編集者を描いた。
主人公が<リアルに謎なんだけど>と言われれば、すかさず“リアルに”の語意や使い方を書き留めるシーンがある。

20年ほど前と思われるその時代では、“本当に”との意味で使う人がまれだったのだろうか。用例採集と呼ばれる地道な作業が、辞書作りの基礎となる。言葉を集めた後の苦労についても、せっせと集めた言葉を、紙幅の都合で省くつらさがにじむことであろう。

ネットでふと目にした“省く”の用例が頭を離れない。
<あしたあいつ、はぶいちゃおうぜ>。こんな使い方になるのだろうか。
“はぶる”や“はぶにする”との言い回しもあるらしい。
“仲間外れ”や“村八分”にするという意味だとか。

スタンド・バイ・ミー』も『上を向いて歩こう』も、ずっと歌い継ぎたい名作である。それらの言葉の、とどのつまりはなんといっても<スタンド・バイ・ミー>である。<そばにいて、そばにいて・・・>と。

ベン・E・キングさんは、心地よい音楽とともに悲しみ深い人の心へと、入り込むことのできた人なのだろう。

 

操れないモノに迷うが人の常

 

日本の芸能界をサラリーマン式とすれば、ハリウッドは自営業式だといわれる。
それぞれのタレントが、自分のキャリアを自分でコントロールして、責任も自分で持つ。

アメリカで人気のテレビドキュメンタリー『アクターズ・スタジオ・インタビュー』では、クリント・イーストウッドロバート・デニーロメリル・ストリープなど数々の大物スターが出演。俳優を超えた“生身の人生の重みを伝えることば”に感銘を受ける。

大リーグで活躍中のイチロー選手にも、それが当てはまる。
体調管理、バッターボックスに立つまでの気持ちの持ち方などすべてで、“自分自身がコントロールできる”ようにと徹底する。

多くの人がやってしまいがちなのが、“コントロールできないもの”に目を向けてしまうこと。
<その日の天候や相手チームの守備位置、スタジアムの芝の種類などは自分ではコントロールすることはできません>との弁である。

 

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イチロー選手が首位打者争いをしていた時、インタビュー記者がライバルのその日の成績を伝えた。その返事は<愚問ですね。彼の打率は僕にはコントロールできませんから>と。

ヤンキース1年目の松井秀喜選手は、出だしでつまずき成績があがらない。
厳しいニューヨークのメディアである。「気にならないか」と松井選手に訊いた者がいる。
<気にならないですよ。だって彼らの書く物は僕にコントロールできないもの>と応えた。

自分にコントロールできることとできないことを分け、コントロールできないことに関心を持たない。これは日常生活にも必要なことであろう。しかし、コントロールできないものに魅了されてしまうこともあるようだ。

 

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ヴァイオリニスト・千住真理子さんがストラディバリウス「デュランティ」を初めて手にした時、その楽器の経歴を全然知らなかった。弾いたとたん、ものすごい音が鳴った。

ずいぶん弾かれてきた楽器で、ものすごく体格のいい人がバリバリ弾いていたから、こんなに大きい音が出る、と勘違いしたそうだ。

千住さんがコントロールできないほどに、勝手に鳴っちゃって、手に負えない。言うことをきいてくれないのだ。これが第一印象であった。

自分の人生がガラガラと音をたてて変わっていくのを感じ、どうすることもできない運命につかまってしまった。千住さんはもうこの楽器から逃げられない。もう放したくない。
何だったらこれを持って逃げたいと思ったくらいだったという。

弾けば弾くほど、イメージしたことのない音がどんどん出てくる。もしかしたらこれは楽器ではなくて、“地球外生物”なのではと思うほどなのだ。

心をすべて見透かされている気がして、誠実に向き合わなければ、何が起きても不思議ではないと感じる衝撃だった。

 

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AI(人工知能)が自分で大発見をする可能性もあるという。
AIが勝手に知識を拡大していくと、その延長上では、機械が機械をつくるかもしれないのだと。まるでSFの世界である。

人間が関与しないAI文明では、電源が抜けないとコントロールする術がなくなる。
電源を切ればいいと思いがちだが、賢い彼らは自前の電源を必ず作るだろう。

半世紀前、マーシャル・マクルーハンはテレビメディア論を唱えた。
電波の誕生は「熟読型」を消滅させた。<推敲を重ねた文を練っても聴覚型には訴えない>のだと。

そして、<自分も口に出して読むような「口腔型」が現代タイプなのである>。
エレクトロニック時代には、それらのメディア自体が人間をを変え、<メディアがわれわれそのものになる>。

テクノロジーをコントロールして批評の武器にしようとする人間より、テクノロジーがはるかに進んでしまうという予言であった。
今のネットやAIに置き換えると、辻褄が合うような気になってくる。

テレビ・メディアもまだまだ健在で、なにが飛び出すかわからぬトランプ氏に話題が集中するのも、テレビという媒体をうまくコントロールしているからなのであろう。

 

からだの記憶力と詩のこころ

 

箏曲家の宮城道雄さんは、今年で没後60年になる。
大阪の公演へ向かう夜行急行列車『銀河』から、列車の外に転落した。
救助時点で意識はあったが、惜しくも搬送先の病院で亡くなられた。

8歳のころに失明した宮城さんは、光を断たれ指先の感覚が研ぎ澄まされたのか。
布地の色はわからなくても、縞の粗さや細かさの見当がついたそうだ。

サトウハチローさんは、父親で作家・佐藤紅緑さんから<神武以来の極道息子>と評されたという。16歳で西条八十さんに師事したが、その大柄な訪問者に対し八十さんは<サトウハチローなる「大」少年来たる>と日記に書いたそうだ。

“極道息子”で“「大」少年”のサトウさんほど、母のことを飽かず繰り返し、心をこめて歌った詩人はいないといわれる。

<ちいさい ちいさい人でした/ほんとに ちいさい母でした/それより ちいさいボクでした>(『ちいさい母のうた』より)。

 

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宮城さんは、晩年まで好奇心旺盛で、気持ちのおもむくまま触れて、撫でることを楽しんだ。欧州旅行の帰国後に、仲の良い作家・内田百閒さんと対談した。

<パリのノートルダムは撫でてみましたか?>。<脚のほうを撫でてみました>。
<どうです、手ざわりは>。<本当は(英国の)女王を撫でてきたかったんです>。
<それはだめ>。楽しげに話す宮城さんのお顔が思わず浮かんでしまう会話である。

母を慕い、心血を童謡に注いだサトウさんの生涯は、“「大」少年”の如しであったようだ。
作詞した童謡に『ちいさい秋みつけた』 、『かわいいかくれんぼ』 、『うれしいひなまつり』などと、思わず口ずさんでしまう名曲ばかり。

謡曲でも『リンゴの唄』、『うちの女房にゃ髭がある』と楽しませてくれる。
フォーク・クルセダーズに提供した『悲しくてやりきれない』も忘れられない。

1957年(昭和32年)、サトウさんは後進に発表の場を与えようと、童謡の同人誌『木曜手帖』を創刊した。そして、作詞家・吉岡治さんをはじめ、多くの才能が巣立った。

 

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琴と尺八の二重奏曲『春の海』は宮城道雄さんの代表作として知られている。
ご本人の演奏によるこの曲も、YouTubeなら簡単に聴くことができる。

朝露に湿った葉の茂り、ごつごつした幹、やわらかい土・・・。
視力に頼り、その視力さえ(記憶するのは)カメラまかせにしてきたことは否めない。

パソコン画面を見つめて暮らす日常を離れ、“からだの記憶力”を回復するには、
今の時期がチャンスのようだ。

穏やかな春の海を手のひらで記憶する。想像するだけでなく、実際に行うことで得られる感動ははるかに大きいはずだ。

同人誌『木曜手帖』は10年前に第600号をもって終刊したようだ。
しかし、インターネット内には『木曜手帖』のサイトがあり、サトウハチローさんの意志が引き継がれていた。

戦後の童謡史を飾った1ページに幕がおりても、感じる記憶力とこころは永遠でありたい。

 

大型連休を多機能に送るか?

 

<小さいものに、機能をたくさん詰め込むことが進歩>のごとく、あらゆる商品が多機能化された。腕時計は、ゼンマイ、自動巻きを体験し、今ではソーラー電波時計が手放せない。ただ、ストップウォッチやタイマー、アラームなどの機能を使う機会はほとんどないが。

ガラケーからスマホに変えた年輩の方も、画面を小器用にいじっている。
電話が携帯できることから、カメラや動画、パソコンの機能など機能満載があたりまえ。

立役者の米アップルは13年ぶりの減収で、主力のアイフォーン(iPhone)の販売台数が頭打ちだとか。腕時計型のアップルウォッチなど、その他製品は売上高を伸ばしたが、アイフォーンの穴を埋められなかったそうだ。

携帯の普及で時計をしない人が増え、その手首を狙う作戦も今後はどうなることか。
時計も懐中から腕に移ったが、携帯も似た“技術的な進化”ではある。

 

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昨秋の統計で、全国の“道の駅”が1079駅なのだという。
全国のJRの駅は約4500で、無人駅を除くと2000程度にとどまるようだ。

1993年(平成5年)に制度がスタートした当初、地域特産品の販売等の高速道路のサービスエリアに似た施設だった。それが、この20数年で地域の創意工夫の場として大きく進化を遂げている。

群馬県川場村(人口3700人)の道の駅には、年間120万人が訪れる。広々とした敷地内に、ビールやミートの工房、陶芸体験教室などがあるとか。
今では、このような人気の道の駅を巡る日帰りの観光バスツアーも盛況という。

お年寄りに宅配サービスを行うなど、多機能な施設に進化している。「MICHINOEKI」として、世界銀行も詳細なガイドラインを、ネット上に掲載している。

 

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1961年、寿屋(現サントリー)がハワイ旅行の懸賞を募集した。
<トリスを飲んでハワイへ行こう>という広告コピーは、宣伝部にいた作家・山口瞳さんである。

1等の賞品は8日間で五つの島を巡る旅なのだが、海外渡航が自由化されていない時代であった。とりあえず、当選者に約40万円分の“ハワイ旅行積立預金証書”が贈られた。渡航が自由化されたのは3年後。当選した64人のうちハワイへ旅立ったのは、たった4人のみだった。

残る人々は現金を選んだ。高度成長へと向かう時代であり、衣食住の生活を整えることに追われ、海外旅行の夢までは気が回りかねたらしい。

この時期の大型連休を“ゴールデンウィーク”と名付けたのは、大映(映画会社)の常務取締役であった松山英夫さん。娯楽の宝箱ともいえる映画館に多くの人が殺到した。

<時計屋の時計 春の夜どれがほんと>。俳人・劇作家の久保田万太郎さんの作だ。
ゼンマイの柱時計だろう。春の宵に針がまちまちな時間をさしているのだ。たまには便利な道具に追われず、マイペースで流れる時間も大切だろう。
私は、多機能と縁のない連休を送れたらよかろう、という心境である。

 

 

今週のお題ゴールデンウィーク2016」

星空から見るこの星への想い

 

寒くも暑くもない穏やかな季節になった。
過ぎし昔をふと思いながらの星空も、なかなか粋なものである。

おおぐま座の一部である北斗七星は、北の空を沈むことなくまわりつづける。
ギリシャ神話では、主神ゼウスの寵愛を受けた妖精に、激怒したお后のヘラが妖精を熊に変え、天空を休みなく走らせているのだという。嫉妬なのである。

北斗七星は水を汲む“ひしゃく”の形でおなじみだが、その形はやがて崩れてゆくそうなのだ。両端の星が西に、中間の五つは東へと動いているため、ひしゃくの形に見えるのは、あと数万年の間だけだという。

たいへんな目にあった妖精も、あと数万年の辛抱らしい。とはいえ、人の寿命に比べたら、気の遠くなる長さであるのはまちがいない。

ときに、天体は人をほろにがい気分に誘(いざな)うが、快い夜を満喫して北斗七星を見上げるのもいいものだ。

 

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<つまらないとて 悪いことすれば 誰が見なくも 天道さま見てる>。
野口雨情さんの『天道さま』という一編である。
ひと昔前を生きた人々の、普通の感覚をうたった詩なのであろう。

現在も、罰が当たるとか、何かに見られている、といった伝統的な感覚は、日本人の心にあるはずだ。

昨春、寺社連続油被害事件が起きて、各地で寺社の国宝や重要文化財などに油が撒かれた。現場の防犯カメラに不審な男が映っていたという。神仏を畏れぬ犯人も、映像に追いつめられることになった。

駅構内、公園、コンビニと、防犯カメラのレンズが街のいたる所でのぞく。
10数年前に、史上最悪を記録した刑法犯罪件数は、半分以下に減った。
防犯カメラが犯罪の抑止や解決に役立つのはけっこうではあるが、お天道様から完全に取って代わるとなれば、なぜかすっきりしない気分である。

 

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<月から見た地球は円(まど)かな 紫の光であった 深いにほひの>。
こちらは、北原白秋さんの『月から見た地球』という詩で、1929年(昭和4年)の詩集に収められている。

ソ連のユーリー・ガガーリンさんは、世界で初めて有人宇宙飛行に成功した。
その30年以上も前の詩なのである。地上に帰還したガガーリンさんは、<地球は青かった>と語った。白秋さんの直観のすごさには驚くのみである。

大海原に出て陸が見えなくなる恐怖に耐えられないと、新しい大陸に到達することはできないという。未知への船出には決意が要る。

コロンブス船隊の猛者たちも、陸影が消えると泣く者が続出した。そのため航海日誌を二つ作成し、進んだ距離を実際より短く記したらしい。偽の方を乗員に示して、すぐに戻れると、なだめすかして海を渡ったとか。真意の程は定かでないが。

 

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21世紀の現在、新天地を切望して海に出る人々がいる。北アフリカやシリアから欧州へ、地中海を渡る移民や難民の遭難が後を絶たない。テロや紛争から逃れ、恐怖に耐えて“板子一枚下は地獄”の密航船に乗り込む人たちだ。

平和な日本(国)と時代に生まれたのは偶然で、もし天の采配ひとつで自分はその誰かだったら・・・。などとの想像力が、今の日本にも必要かもしれない。

日本人の地中海のイメージは、古来の芸術や富を育んだ“明るさ”だろうか。
洋行帰りの永井荷風さんは濃紺の海を<磨き上げた宝石の面>と詩情豊かに表現したそうだ。

竹取物語』によるとこの星は、月世界の罪人が流される流刑地で“穢き所”だという。
残忍なテロ集団が思うままにのさばり、よその領土や領海に野望をむき出しの大国もある。戦火だけでなく飢餓にも貧困にも追われ、その海に沈む人々を何とか救うことはできないものであろうか。

 

モノのインターネットのこと

 

IoT(Internet of Things)とはモノのインターネットの略である。
最近、耳にすることがとても多い。

スマートフォンの普及など、センサーの小型化・低価格化が進み、センサーを搭載できる機器が増えたことがその背景。

世界のIoT市場は、2014年に約80兆円。20年には200兆円にも伸びると予測されている。日本では15年の約6兆円から、20年には約14兆円に達する見通しだという。

“IoT”は家庭の生活を便利にし、工場の生産を効率化する。新たな市場は企業にとっての商機だ。その取り組みが今後の日本経済を左右するといっても過言ではないようだ。

帰宅すると、施錠されていた玄関のドアが、住人であることを認識して開く。
キッチンで<今日の献立>とつぶやけば、冷温庫内の食材を活かしたメニューが画面に表れる。様々な場所のセンサーが、ネットで様々な家電製品とつながる。

 

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IoTは本来、家電製品をネットを通じて操作するだけではなく、AI(人工知能)なども生かし、従来の機能を超えたサービスを提供する仕組みのこと。

車の自動運転もIoTの一つで自動車メーカーは、センサーが周囲の車や障害物を認識して危険を避けるシステムを開発している。車載端末に行き先を伝えれば、ハンドルを握らずに目的地に着くという“完全自動運転”の技術も期待される。

企業の生産現場では、ネットを通じて部品の在庫や、季節に応じた商品需要などの膨大な“ビッグデータ”を駆使し、最適な作業方法をAIが判断する仕組みだ。

富士通では、通信機器を作る子会社の機械をネットでつなぎ、製造状況と部品の減り具合を即座に把握できるようにしたことで、生産効率が20%改善したという。

大手電機メーカーも、産業機械の部品を作る装置をネットでつなぐことで、全体の管理が可能になり、生産ラインを止める時間を縮める効果が生まれた。

 

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物事、すべて良いことだけでは終わらないのが世の常である。
インターネットを介するIoTにも、サイバー攻撃対策が最大の課題となる。

米国のセキュリティー専門家が、自動車に対するハッキング実験行った。
(カーナビなどで使う)通信網から侵入し、エンジンの制御システムを乗っ取り、車を遠隔操作できることが判明した。

その結果、対象となったフィアットクライスラー・オートモービルズは、約140万台の
リコールに追い込まれたという。

日本政府はサイバー攻撃の対処として、IoT機器販売後のセキュリティー確保を製造元に求める方針を固めた。(業界の分野を超えた)IoT機器の情報セキュリティー対策のガイドライン策定に向け、総務省経済産業省が設置する作業部会が原案作りに着手するそうだ。

 

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作業部会は、情報セキュリティーの専門家だけではなく、IoT機器の開発に携わるメーカー担当者、法律家らで構成するという。

IoTへの取り組みは欧米勢が先行しているのが実情である。日本政府がIoT支援を強化する背景には、世界の状況に対する危機感があるようだ。

世界中のモノがネットでつながるIoT時代に、一国での対策には限界があるため、各国との協調が欠かせない。また、IoT社会の実現には、通信や機器の規格などを統一する“標準化”も重要だ。

IoTは、より多くの機械を連携させた方が効果があり、汎用性の高いシステムや規格が望ましい。海外でIoTの独自規格の開発を競ってきた(米半導体大手の)インテルクアルコムが、標準化の推進団体を新設したという。

自社製品を通じた顧客の囲い込みを重視してきた日本勢も、日立製作所などで作るIoTの推進団体が、昨年から国内向けの規格づくりに着手しているとか。

ただ心配なのは、メーカーよりも政府の方である。マイナンバーやオリンピック開催だけでも、ミスやゴタゴタが絶えない。<中身を理解できず、口だけ出す結果>で終わらぬよう切に願いたい。

 

ネットの先にある意外な何か

 

数日前におもしろい記事を見た。
東京大の研究グループが、極薄の有機ELディスプレーを開発したという。
どれくらいの薄さかというと、皮膚に貼れるくらいなのだ。

厚さ3マイクロメートルほどのディスプレーは、人の表皮の1割ほどの薄さで、くしゃくしゃに曲げられ、手の甲などの曲面に貼れてしまう。

有機ELは、発光部の劣化を防ぐのにガラスなどで覆う必要があるため、高分子やガラスに似た材料を重ね、(水分や酸素を通しにくい)2マイクロメートル以下の保護膜を作ることに成功した、という。

センサーとつなぎ、脈拍数などを手の甲に表示することもできたり、作業現場でマニュアルを表示させるなど、幅広い応用が考えられるそうだ。そうなれば、手の甲でインターネットの検索も可能になってきそうだ。

 

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“レスキューロボドッグ”なるものを東北大などの研究チームが、国の補助金を受けて開発したという。それは、災害救助犬にGPS(全地球測位システム)やカメラを取り付け、倒壊家屋内などの状況を携帯端末で確認することができるシステムなのだ。

人間の1億倍とされる嗅覚を持つ救助犬に、ロボット技術を組み合わせて、救助活動のスピードアップを図るのが目的だ。実証実験を重ね、数年以内の実用化を目指す。

東北大らの研究チームは、東日本大震災1か月後から(ハイテク装備救助犬による)災害救助用ロボットの製作を進めていたそうだ。

大震災で余震の続くなか、二次災害の危険で捜索が難航したため、嗅覚や機動力に優れた災害救助犬の能力強化を目指したという。

犬にベストを装着するしくみで、GPSや気圧計、バッテリーなど計約1キロの重さになる。そして、小型カメラを首の下に取り付ける。その状態で、2時間ほど活動できるらしい。

 

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救助現場に入った犬の周囲の状況は随時、インターネットを通じ携帯端末やパソコンに送信され、画像や音声を確認できる。GPSにより、犬が通ったルートを地図に示すことも可能になる。人間の立ち入ることが難しい倒壊家屋や暗闇での活動に期待が持てる。

開発チームは、「日本救助犬協会」との協力で、半壊家屋やがれきの中から人を捜し出す実証実験を重ねている。

生きている人を見つけ、ほえる訓練を受けている救助犬の場合、動かなくなった人にはほえないことがある。それでも、映像で人間が確認することで、救助対象者の見落としが減るとの期待である。

また、訓練士が離れた場所で映像を見ながら、無線で指示を出すことができるような訓練も進めているという。

 

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災害救助犬は、地震や土砂崩れなどの災害で、倒壊家屋や土砂に埋もれた人を、(嗅覚を生かして)発見するよう訓練されている。

警察犬は鼻を地面に付けて手掛かりを捜すが、救助犬は大気中の浮遊臭を嗅ぎわけるため、鼻を上に向けて活動するのが特徴なのだ。

救助犬の育成は全国約40団体で行われ、協会が認定した救助犬は約120匹だという。消防や自治体と出動協定を結び、東日本大震災や、一昨年の広島土砂災害にも派遣されている。

言葉を使わない犬が伝えられない状況を、画像やデータで知ることができるという新システムのメリットは大きいはず。ロボットと救助犬の長所を組み合わせ、災害時の人命救助に貢献できるという“レスキューロボドッグ”に期待は大きい。

 

こころの伴わぬ資格保持者達

 

世界の肥満や体重超過の人は約21億人とのことである。
肥満率の高いメキシコ市では、<スクワットを10回やれば地下鉄やバスが無料>との奇策。いつか読んだ記事だが、今でも続いているのか。

そのカウントは、専用機械の上でひざの屈伸運動をする。その光景を想像すると微笑ましいが、メキシコ市では成人の7割、子どもの4割が肥満だという。

高血圧、糖尿病、高脂血症、それに肥満が重なると、脳卒中心筋梗塞を起こしやすい。それを防ぐには、各自で律するほかはないようだ。

3ヶ月前、身内の緊急入院後に私を呼びつけた男性医師は、私の顔をほとんど見なかった。パソコンの画面とにらめっこだ。それも古いパソコンで、立ち上がりに20分を超えた。その間、沈黙のままだ。

やっと開いたモニタのグラフで、わかりにくい日本語の羅列。<意識はあるのか?>と私の問いで首を振った。数時間後に、身内は亡くなった。
もちろんいい医師もいるはずだ。それでも、こちらから医師を選べる状況ではなかった。

 

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<患者の数だけ治療法があるといってよい>。医師は患者の生まれや育ち、生活の背景まで知る必要があるという。名医でなくていい、せめて誠実な医師に診てもらいたい。

某医科大病院神経精神科の医師は、“精神保健指定医”の資格を不正取得したという問題が起きた。昨年のことである。

精神科医11人が、厚生労働省の定める“精神保健指定医”の資格を不正に取得していた。診察してもいない患者を診察したと偽って申請していたようだ。
そして、先輩医師のリポートの内容を引き写すことが当たり前であったというから驚く。

<He is nice doctor>(彼はニセ医者だ)。英文和訳のジョークである。医師の資格はあっても、指定医としてはニセ医者である。信じて病院を頼った患者と家族を裏切った罪は重い。こういう先生のお世話にはなりたくないものである。

 

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動物写真家・岩合光昭さんの『おきたらごはん』(著・写真)は心がなごむ。
幼い野生動物らの寝顔と食事の場面を収めた写真絵本である。

<しっかり寝て食べて大きくなる。子供にとって一番大切なことを伝えたい>との、岩合さんの気持ちが伝わってくる。

安心して眠れるように子供を危険から守り、そして、ひもじい思いをさせない。
親の本分は人間も変わらない。戦火の下で飢える子どもも世界には数知れない。

被災地では今も、必死に子どもを守る親たちがいる。お金があっても食べ物が手に入りにくい状況だ。自分の食べるものを後回しにしても子どもを先に食べさせる。

 

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熊本県の営業部長として大活躍のくまモンが、部長代理に降格したらしい。
こちらも昨年の話である。ダイエットの失敗がその理由とか。

メタボを指摘されたくまモンは、ダイエット宣言をしたのに、体重も体脂肪率も減らせなかった。2月にファンからチョコを山ほどもらい、食べ過ぎたのも敗因とのこと。

もちろん話題づくりのユーモアであったが、大地震の止まらぬ今の熊本では、それを楽しめる余裕などないはずだ。

昨日の国会答弁で、安倍晋三首相は(熊本地震を受けて)来年4月に予定している消費税率10%への引き上げの先送りを求められた際、<リーマン・ショック級、大震災級の事態にならない限り予定通り引き上げていくという基本的な考え方に変わりはない>と述べたようだ。

被災地では今も大きな揺れに住民のみなさんが苦しんでいる。その最中(さなか)に、よくこういうことが言えるものだとあきれ返る。

<この震災は大震災級ではないのか? 東北大震災より大したことがないのか?>。
首相という資格以前に、人間として欠けているなにかを感じてならないのである。