日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

京都・昭和・ひばりさん・健さん

 

テレビの2時間サスペンスで、京都が一番多く舞台になるという。
人気の観光地であり、古都の優雅なしっとり感と事件との落差が、視聴者を引きつけるからだ。

私だと、京都といえば東映のチャンバラ映画だ。
橋蔵さん、錦之助さんらのお顔も浮かぶが、美空ひばりさん主演のイメージが強い。ひばりさんが出演した映画は165本にもなる。

映画会社は東映以外に、松竹、新東宝東宝に出演しているが、やはり東映の時代劇スターという印象である。歌番組の特集では、映画『東京キッド』の1シーンがよく使われる。松竹作品で、1950年(昭和25年)に封切られた。

母を亡くした靴磨きの少女をひばりさんが演じ、<右のポッケにゃ夢がある/左のポッケにゃチュウインガム/空を見たけりゃビルの屋根/もぐりたくなりゃマンホール・・・>。
同名の主題歌はひばりさんの代表曲になった。

 

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阿久悠さんは著書『愛すべき名歌たち』に、天才少女歌手といった生やさしい存在ではなかった、と書いた。<敗戦の焦土が誕生させた突然変異の生命体で、しかも人を救う使命を帯びていた>のだと。

終戦から71年。左のポッケは豊富な品々で膨らんでいるが、右のポッケにある夢は?

江戸の面影は関東大震災とともに消え、戦前の面影は東京オリンピックを境に消えたといわれる。一つひとつの食べ物に感謝するこころ、父母に対する折り目正しさも、今は遠い戦前の残り香かもしれない。

東映といえば、この方も忘れられない。
高倉健さんである。

“主演・高倉健”と銘打たれた小説がある。芥川賞作家・丸山健二さんの『鉛のバラ』だ。

2003年、丸山さんは「自分の小説の主人公になってもらえないか。そのために写真を撮りたい」と依頼した。健さんは二つ返事で了解し、一人自ら車を運転し、長野県・安曇野にある丸山さんの家に乗り付けた。

 

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二人の出会いは、映画少年だった丸山さんが1983年の高倉健写真集に『それが高倉健という男ではないのか』と題した文を寄せたことだった。

<映画を愛していたからではなく、役者稼業に惚れこんでいたせいでもなく、ただそれが仕事であり、それで飯を食ってきたというだけの理由にすぎない>。

好きで俳優になったのではなく、貿易関係の仕事を目指し、明大・商学部を選んだが、就職難で芸能プロのマネジャー見習いの面接に行ったところ、東映の専務から「俳優にならないか」と言われ、食うためにニューフェイスになった。

<いやいや仕事をしているのではない。好きとか嫌いとかを尺度にして仕事をするのではなく、やるかやらないかを問題にする。やると決め、引き受けたからには持てる力を惜しげもなく注ぎこみ、奮闘する。それが高倉健ではないのか>。

健さんは、才能のあるなしや、好き嫌いではなく、仕事という習慣を通し、己を鍛え上げた人。一介の役者は“高倉健という仕事”に徹することで、記録と記憶に残る俳優になった。