日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

言葉におけるセンスと温度差

 

シンガポールリー・クアンユー元首相は<20世紀最大の発明は“エアコン”である>といったそうだ。なによりの暑さというハンデを乗り越え、世界屈指の国民所得を実現した国としては、仕事への能率と意欲を高めるために、空調が絶大な恩恵だったといえる。

<涼しさとは瞬間の感覚で、持続すれば寒さに変わる>といったのは寺田寅彦さん。
真夏に冷房の効きすぎた部屋で寒さを感じたり、暖房の効きすぎた部屋で暑さを感じる真冬。人それぞれの体感温度で悩む人も多いのが現代だ。

<使用頻度の高い言葉ほど手垢に汚れ、切れ味が鈍麻し、意味が曖昧になる>。
井上ひさしさんはそういって、「平和」という言葉を挙げていたそうだ。

漢字の書き間違いで読み手の想像力を刺激することもある。劇作家・宇野信夫さんは、知り合いの大学生から手紙をもらった。<故郷へ遺産争続のために帰りました・・・>。
果たして穏便に片づいたのだろうか。

 

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<先生 お元気ですか/我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました>。
茨木のり子さんの詩『笑う能力』にある、手紙の一節もおもしろい。
さてはて、“柿”の誤字なのか、“気”の脱字なのか。

車、ファクス、ビデオデッキ、ワープロにパソコン、インターネット・・・。
<そんなに情報集めてどうするの/そんなに急いで何をするの/頭はからっぽのまま>。こちらは、『時代おくれ』という詩の一節である。

詩人・茨木さんは、持ちたくないもの、触れたくないものの列挙で、もっともっと時代に遅れたいと記した。<すぐに古びるがらくたは/我が山門に入るを許さず>。

『自分の感受性くらい』では、<ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて>とくる。そして、トドメは<自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ>。

「戦後現代詩の長女」と評された茨木さんが亡くなったのは10年前。79歳であった。

 

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「高速道路理論」というのがある。将棋の羽生善治さんの説である。
羽生さんの若手時代、棋士の間で(今から20年ほど前から)パソコンによる研究が盛んに行われるようになった。

過去の対局の棋譜がデータベース化されており、どの棋士がどんな手を打ったかが、局面に応じてすぐわかる。

定跡や手筋の研究も容易になった。その結果、ある程度の強さまでには、時間がかからずに到達することができる。それは、高速道路を突っ走るようなものなのだという。

しかし、問題はその先にあった。高速の下り口まではたどり着けても、そこで大渋滞に巻き込まれたかのように、先へ進むことができない。そのときに必要となるのが、パソコンでは学べない何か。それが、ひらめき、センスなのである。

 

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小説家・坂口安吾さんは税務署泣かせの人だったようだ。
税金を滞納する安吾さん宅に署員が乗り込んでも、差し押さえる品が何もない。

坂口安吾関係書類」というファイルを携えた税務署の滞納係が出版社を訪れて、<どうしたら取れるだろうか>と、社長に何度も相談したらしい。

<真っ裸で生きよ、堕(お)ちよ>。
終戦の翌年に発表した『堕落論』は、あるがままの生を肯定し、生き惑う(当時の)人々に衝撃を与えた。

今も読み継がれているのは、<いつの世も人は虚飾を身にまとい、自分を見失っては思い悩む存在>だからなのだろうか。

近松門左衛門さんの唱えた芸術論に「虚実皮膜の間(かん)」がある。
<芸というものは虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、虚構と事実の微妙な境界にある>。

<休みたい理由がなくて出社する>とくれば、「そんなヤツ、いないだろ」と“虚”に笑い、<そういえば自分も・・・>と、ほろ苦い“実”に気づく。そんな感じなのかもしれない。

一昨年の“サラリーマン川柳”にあった。
<「マジウケる」ウケてんだったら笑えよな>。
<再雇用 鍛えた部下に鍛えられ>。

たしかに、このような川柳も「虚実皮膜の間」の面白みに通じるようである。