日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

真の一流が大衆に寄り添う時

 

昨日テレビに、指揮者・小澤征爾さんが出演されていて、懐かしい方のお名前を挙げられていた。山本直純さんである。

日本の作曲家で指揮者・山本直純さん(1932年12月16日~2002年6月18日)の、愛嬌たっぷりのヒゲ面が私の頭の中に浮かんできた。人々に愛されたメディアの寵児は、権威的なクラシックの世界を飛びだした。道化に隠したその才能には今も脱帽である。

真の一流ほど垣根をつくらないものらしい。クラシックはもちろん、ブルースやジャズなど、あらゆる音楽のことばをものにし、音符のおはじきで自由自在に遊ぶことができたといわれる。

山本さんは、だれよりも時流に敏感で、テレビやラジオで音楽が気軽に流れ始めた頃には、映画やCMの音楽を量産して、バラエティー番組でも売れっ子になった。私にはお笑い芸人のようにも感じられた。

 

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山本直純さんも小澤征爾さんらと同じように、指揮者として世界での活躍を夢見たこともあったという。大学指揮科在学中に眼を患い、視力の低下から(次々に)新しいスコアを読み込み暗譜してコンサートに乗せることに不安を覚えるようになったといわれる。

そのため、大学在学中からテレビや映画の分野へ積極的に進出し、ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行うようになる。そして、テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注いだ。

赤木圭一郎さんの代表作映画である『霧笛が俺を呼んでいる』の音楽も若き日の山本さんが担当されていたのである。

その神髄を存分に示したのは、映画『男はつらいよ』の主題歌だろう。最初の“ぱーん”という高音で、スクリーンの江戸川の風景へと一気にさらってゆく。
鮮やかなオーケストラの前奏は、ほろ酔いの寅さんを思わせるような足どりのメロディーで、実際の映像以上に、映像を感じさせるのだ。

 

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同世代の盟友である小澤征爾さん、岩城宏之さん、林光さんたちは、そんな山本さんをじれったい思いで眺めていたようだ。

<何十の不協和音から、一つの音を聞き分け、オーケストラの中のどんな小さい間違いの音も指摘することができた。あれほど良い耳を持つ音楽家は、世界中にいない>。
山本さんへの追悼文に、岩城さんはこう記した。

山本さんが楽曲に命を吹き込むタクトの瞬発力は、名匠カルロス・クライバーさんを思わせる…とも。

小澤さんにとって、3歳年上の山本さんは最初の恩師である。
<大きいことはいいことだ>と満面の笑みで両手を振るCMを、<あの大振りで多くの人々を束ねるのがどれほど大変な能力か、気付く人は少なかった>と述懐する。

 

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山本さんは、クラシックと大衆が深く結ばれる未来を夢見たという。滑稽なキャラクターが思惑以上にクローズアップされても、最後までメディアに生きたのだ。

小澤征爾さんは後に、<自分は日本に留まって音楽の底辺を広げる。お前は世界を目指せ>と山本さんから告げられたことを語った。

異なる多くの音色がひとつにとけあい、世界へと響くオーケストラに希望を見る姿は、日本音楽界の青春時代の象徴でもあった。芸術の本当の果実を大衆に届けようと、奔走し続けた山本さんの覚悟を、小澤さんは思い出す。

シンガーソングライター・さだまさしさんは、山本直純さんのことを<師匠であり、兄貴であり、最高の友>と慕う。

寒い冬の夜に京都・先斗町の店でふたりで飲んでいたら、<日本中のオヤジを泣かせる歌が聴きたい>と山本さんがいう。しかも25分の曲にしろ、と。
シューベルトの『冬の旅』をイメージしていたのでしょう>。さださんの後日談である。結局12分半の曲になったのを、直純さんがアレンジしてくれた。

出来上がった『親父(おやじ)の一番長い日』も、直純さんが書かせてくれた曲である。
全国のオーケストラと演奏すると、間奏のあまりの美しさに涙が出るという。優しさ、あたたかさ、直純さんのすべてに包まれているようで…と。