日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

十年前に起きた或る事件とは

 

殿様の名前が書かれた紙を誤って足で踏み、叱られた。
少年期の福沢諭吉さんである。

「殿様で悪いのなら、神様はどうか」と今度は、神社の御札(おふだ)を踏んでみた。
何ともない。

御札もたまったものではないが、その満ち溢れる探求心に免じて、神様も大目に見てくれたのだろう。罰(ばち)はあたらなかった。
しかし、今から10年前のこの時期には、諭吉さんも顔をしかめるであろう事件が頻繁に起きた。

 

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2004年12月から2005年1月にかけて初詣客で賑わう全国の神社仏閣で1万円札の偽札(にせさつ)が大量に使われた。
<あるのが探求心ならぬ薄汚れた欲得だけ>では、心の広い神仏も許してはくれないであろう。

境内のおみくじ売り場や露店などから釣り銭をだまし取る手口で、東京の明治神宮浅草寺岩手県平泉町中尊寺など、19の都府県で約500枚が見つかった。

いずれもデザインが変わる前(当時)の旧札で、カラーコピー機を用いて偽造したと見られる。東京から鹿児島など、遠く離れた寺社で同じ記号・番号の偽札が見つかっており、組織的な犯行の可能性も高い。浅草寺の露店で偽札を使った男がひとり逮捕された。

 

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偽札とは、偽造された紙幣のことであり、一般に使用を目的として通貨を複製・偽造し、肉眼・機械その他の方法での判別を困難にしたものをいう。贋札(がんさつ)とも呼ばれている。

<2005年1月6日までに奈良県警察本部はそれを使用した同県内在住の45歳の男性容疑者を偽造通貨行使の疑いで逮捕するとともに、容疑者自宅にあった1万円札と同サイズの用紙や裁断機、パソコンとそれ対応の複合機などを押収した>とも記録にある。

この容疑者のパソコンには“記番号「ZY853618T」”のデータがあり、この記番号の偽札は、近畿2府4県からと愛知県、三重県などからも見つかっている。
警察庁のまとめで、2004年暮れから2005年にかけて発見された偽1万円札の記番号は10種類以上あり、そのうち8種類が都道府県をまたいで使われていることが分かった。

その後も、2005年3月9日に大阪府堺市のファーストフード店のドライブスルーで偽5千円札を商品代金として使用した疑いで、和泉市在住の43歳の男性と34歳の女性の会社員が逮捕された。
偽5千円札の偽造による摘発はこの事例が初めてで、2容疑者の自宅からは(両面コピー4枚と片面コピー11枚の)15枚の偽五千円札、並びにカラーコピー機を押収した。

 

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この偽札事件の顛末(てんまつ)はその後どうなったのか私の記憶にはない。組織的な犯行だとしても“根こそぎ逮捕”には至らなかったのかもしれぬ。
それよりもこの事件の連鎖で、かつて読んだ本がいつも脳裏に浮かぶ。
パトリシア・ハイスミスさんの小説『贋作』である。

この作家には『太陽がいっぱい』というすばらしい作品がある。アラン・ドロンさん主演の映画を(本より先に)観て知ったのであるが。映画に関しても、私の大好きな映画のトップ3に入るほどの惚れ込みようだ。あの音楽も好きで好きでたまらない。いったい何度この映画を観たことだろう。

そして、パトリシア・ハイスミスさんの原作と出会い、夢中で読んだ。この本もとにかくおもしろい。読みながらアラン・ドロンさんの悲しげな表情が浮かび、映画の中の風景、大好きなあの曲も、私の頭の中で浮かび続けるのである。

そして、『太陽がいっぱい』の中のトム・リプリーはこの作品のみならず、(やはりハイスミスさんの手による)小説『贋作』の中にも生きていてくれた。この作品もおもしろくて貪り読んだ。

 

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トム・リプリーという人物像には、ハイスミスさん自身の好みが投影されているように思える。悪事をはたらくも罪悪感などは感じない。優雅な暮らしを満喫しようとするが淋しげな表情がついてまわる。満足に終わりがないのである。このリプリーハイスミスさんにとり、癒される偶像だったのかもしれない。

『贋作』では、何年も前に亡くなっている天才画家の死を隠し、別の画家に贋作を描かせて儲けているリプリー一味が描かれる。しかし、鑑賞家から贋作を見抜かれ、リプリーが狡知な手を駆使して逃れようとする。

天才画家に扮装したリプリーが髭をつけて記者会見にのぞむシーンもあった。
そのリプリーに反して、贋作を描く画家は良心の呵責に悩む。芸術家ではなく職人として罪を犯しながら、その制作に耐えられず、精神に異常をきたし破滅へと向かう。

この話から、佐村河内守さんと新垣隆さんの関係が重なってくる。
あまりにも性格のちがうふたり。佐村河内氏はリプリーになろうとしてなりきれなかったが、新垣さんの純粋な気持ちには、贋作を強いられた画家の気持ちがピタリと当てはまる。
ましてや、新垣さんに関しては<贋作ならぬ“真作”の作家>なのであるから、なおさら複雑な思いであったはずだ。

まさに、「事実は小説よりも奇なり」である。

 

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