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日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

ビリー・ワイルダー作品がおもしろすぎて目を離せない

映画・テレビ 創作・作家

 

数々の名作を残した映画監督で脚本家のビリー・ワイルダーは、晩年のアカデミー賞授賞式で50年以上も昔の一言に感謝した。

ナチスの迫害から逃れようと、欧州から米国へ移住する際、メキシコの米領事館でビザを申請した。送還されれば命を失う危険のため、不安な思いの中、職員から仕事を尋ねられた。「脚本を書いている」と答えると、「いいのを書けよ」。あっさりと入国は認められた。

トランプを配る主人公が「愛している」と打ち明けるのに、彼を想い始めたヒロインは「黙って配って」と、答えをあえてはぐらかす場面。ワイルダーの名作『アパートの鍵貸します』のラストシーンである。交わしたこの言葉の心憎さは、本編を観ればうなずけるであろう。

ビリーは本当に「いいの」を書いたのである。

 

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ビリー・ワイルダー(1906年~2002年)は50年以上映画に関わり、60本もの作品に携わった。ユダヤ系の両親を持ち、(現在の)ポーランド南部に生まれた。

1933年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス台頭で、ビリーはフランスへ亡命した。その2年後、脚本で稼いだ資金でウィーンに残してきた母親に会いに行き、ナチスの受難を避けようとアメリカ移住を説得したが、(ワイルダーの父親亡きあと)再婚していた母は断わり、これが(母親との)永遠の別れとなる。

後に、母親と母親の再婚相手、そして祖母は、アウシュヴィッツユダヤ強制収容所送りとなり、そこで死亡したといわれる。

第二次世界大戦後、ドイツに来たビリーは母を捜すが見つからず、目撃者の話から、殺されたのであろう、ということしかわからなかった。

 

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ビリー・ワイルダーのテンポのいいコメディ作品から、悲しい実体験があったことをまったく知らなかったが、作品の中にある“芯”のようなものは、いったい何なのだろうとずっと思っていた。

1944年、ビリーは『深夜の告白』を監督する。自身初の大ヒット作品でフィルム・ノワールの古典的名作とされる。サスペンス映画の先駆けとなり、興業的にヒットした。そして、ビリーはアカデミー監督賞と脚本賞にノミネートされる。

ただ、この作品では、(共同脚本の)相棒であったブラケットと袂(たもと)を分かち、作家のレイモンド・チャンドラーが共同脚本を担当した。ビリーの作品には、単なるコメディだけでなく、“ハードボイルド”な部分を強く感じるのも、チャンドラーとの出会いがあったため、と考えるのは早計であろうか。

 

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ビリーの自信作『地獄の英雄』は失敗したが、1953年に捕虜収容所映画の傑作『第十七捕虜収容所』が生まれた。そして、1954年にはオードリー・ヘップバーンが出演した『麗しのサブリナ』というロマンティック・コメディを制作。

1955年はマリリン・モンローの『七年目の浮気』を撮った。地下鉄の通風孔のシーンが有名で、次々と映画史に残る傑作を世に送り出すことになる。

ちなみに私は、これを書いている数時間前に『七年目の浮気』のDVDを観た。60年ちかくも前の映画なのに、古さを感じない。うまく言えないが、<時代が変わろうとも“人の気持ち”は変わらない>ように思えてしまう。

 

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1957年になると、『翼よ! あれが巴里の灯だ』を監督する。チャールズ・リンドバーグの自伝を映画化したものであるが、リンドバーグは実際にビリーの親友だった。

ブラケットとのコンビを解消後、さまざまな脚本家と組むビリーであるが、長続きしなかった。同年の『昼下りの情事』で初めて組んだのが、Ⅰ・A・L・ダイアモンドであった。

才能の素晴らしさに絶賛したビリーは、以降の作品でもダイアモンドとコンビを組んで、第二のビリー・ワイルダー黄金時代を築く。

そして、1959年に<ワイルダー映画の顔>となるジャック・レモンを初めて起用した『お熱いのがお好き』。1960年には『アパートの鍵貸します』と、コメディ映画史に残る作品を続けざまに監督した。

アパートの鍵貸します』ではアカデミー作品賞、アカデミー監督賞、アカデミー脚本賞を受賞。1本の映画でひとりの人物が3つのオスカーを受賞したのは、この時が唯一であるそうだ。

また、『お熱いのがお好き』は、2000年にアメリカ映画協会の<笑える映画ベスト100>の第1位に選ばれた。(2000年の時点でも、なんと41年前の作品が1位だったのである)。

私が観ていないビリー・ワイルダーの作品はまだまだある。
ゆっくりと楽しみながら鑑賞をしていくつもりである。

 

参考:Wikipedia

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