日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

何気ない見出しでわかること

 

知ったつもりで読むと、思い込みとの相違を感じることがある。
『“メリットわからない”4割…電力自由化』。本日の新聞記事にあった。

4月に始まった、「家庭向けの電力小売りの自由化」についてのアンケート結果が、取引監視等委員会により公表された。

電力の契約先を変更しない理由として、「メリットがよくわからない」、「なんとなく不安」との(漠然とした)理由が約4割に上り、内容が十分浸透していないことがわかった。たしかに、私もその4割以内に入るはずだ。

ところが、変更した人に満足度を聞いたところ、約9割もが「望んだレベル以上」としている。いったいどういうことなのか。残念ながら、記事にその先はなかったが、どうしても知りたい情報になっている。

電力つながりで、もうひとつ。一昨日の記事である。
『「はやぶさ」の技術で節電 家電の消費電力を監視、自動制御』というものだ。

約60億キロ・メートルの宇宙長旅の末、2010年に地球へ帰還した探査機「はやぶさ」。
貴重な電力を極限まで有効に使う、宇宙探査機ならではの技術を、家庭や企業の省エネ対策に利用する取り組みが始まっている。

 

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二つの装置を制御するのが、はやぶさ生まれのプログラムである。
まず、家庭などブレーカーのある配電盤で消費電力を監視し、節電の信号を発信する監視装置。もう一つは、電化製品をつなぐコンセントに内蔵する「スマートブレーカー」と呼ばれる節電装置だ。

コンセントや配電盤に装着できる大きさで、壁に新しい穴を開ける必要はない。
電子レンジなど消費電力の大きい電化製品が使われて家全体の消費電力が急上昇すると、監視装置が働き、信号を無線で送る。

信号を受けたスマートブレーカーは家庭内での優先度に応じて、電化製品の節電を実行し、自動的に冷房の設定温度を上げたり、照明を暗くしたりする。

企業向けでは、オフィスにて多くのノートパソコンは常にコンセントにつながれ、フル充電の状態になることがよくある。

オフィスの制御装置で消費量が一定値を超えたら、バッテリー残量の多いパソコンから順に主電源から切り離され、電力消費量が下がると再び接続する。それも、数千円程度の装置を配電盤や電化製品に外付けできる手軽さなのだという。

 

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『百貨店 爆買い鈍化で低迷 大手3社減収・営業減益』などの記事も見かける。
外国人の爆買い鈍化だけでなく、国内消費の質も大きく変わってきているのだろうか。

高齢者向けに工夫した家電が、より使いやすく進化しているそうだ。
シニアが求める快適さや健康志向に応えようと、操作性や機能にこだわった商品も増えている。体への負担を減らそうと、持ち運んで使う掃除機などは高性能のまま、軽く小さくなった。

シニア家電は、団塊世代が定年退職の時期を迎えた2010年前後から増え、子どもが独立した夫婦だけの世帯を想定され、小型炊飯器など2人分でもおいしく炊けるのが売り。

60代の家電の購買動向調査で、価格が高くても質を求める人の割合は44%で、価格重視37%、必要最低限18%を上回っている。

また、値頃感のあるシニア家電も人気で、開発段階から見直すなどして、機能を簡素化したものも多い。コスト削減につながるうえ、操作がシンプルになり、高齢者にとってはむしろ使いやすくなっているそうだ。

高齢者は家電を長く使っていて、目利きでもある。シニアが支持する製品は操作が快適で、若い世代にとっても使いやすい。売れ筋のヒントも刻々と変わりそうである。

 

神無月は神在月でもあるのか

 

読書の秋なのに、紙の本を読む機会がめっきり減っている。
今もあるのかどうかわからない。買ったばかりの本を開くと、余分な紙を折り畳んだ不体裁なページに出くわすことがあった。製本の際の切り損ねである。

この裁断ミスのページを“福紙”または“恵比須紙”というらしい。
商品の欠陥部分を指すにしては、とても縁起のいい名前である。

それは、陰暦10月の異名“神無月”に関係があるそうな。
神無月には諸国の神々が出雲大社に集まるが、恵比須さまは赴かず、地元に残る。
旅立たずに残る神。立ち残る神ということで、裁ち残る紙のシャレから生まれた名前とか。

出雲大社に全国の神が集まり一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなるというのは、中世以降の後付けなのだという説もある。
出雲地方などでは逆に、旧暦10月に“神在月”を用いるようだ。

 

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1年前の神無月には、おもしろい言葉が新聞紙面に掲載されていた。
“木の葉法”である。なにやら忍術みたいなものを連想してしまった。

「賢い人は葉をどこに隠す? 森のなかに隠す」。
森がなくても手はある。
「1枚の枯れ葉を隠したいと思う者は枯れ木の森をこしらえるだろう」。

英国の作家・チェスタートンの小説『折れた剣』の一節だという。
その“木の葉法”なるものを、政治資金規正法のことに喩えたようだ。

昨年、「日本歯科医師連盟」の元幹部3人が、政治資金規正法違反(虚偽記入、寄付などの)容疑で逮捕された。

法律で決められた上限を超える金額を国会議員の後援会に献金するため、関連団体を利用して“迂回献金”した容疑である。

支援する国会議員に対し、法定の上限を超える寄付をしながら、収支報告書でうその記載をしたというのだ。

上限を超えていないように見せかけるため、一部を別の国会議員の後援会にいったん寄付した形にする、いわゆる“迂回”の手口を使ったらしい。ある意味、これも忍法なのだろうか。

 

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2004年に自民党・某派へのヤミ献金疑惑が発覚し、政治資金規正法が改正された。
日歯連自身の過去の事件が上限枠を設けるきっかけだった。

自分の手で「政治とカネ」をめぐる不信のタネをまき、生じた法の網をまたかいくぐろうとする。

日歯連は議員1人を誕生させるまでに、4億円もの資金を動かしていたとか。
2013年の参院選前、議員の各地での遊説会場費などに約2億円、会員たちの集会までの旅費に約7800万円などを使ったとされる。

企業・団体献金をなくし、国民の税金を政治資金にあて、クリーンな政治にする。
その前提で生まれたのが政党交付金のはずだった。

そのしくみを改めようという政治の動きはにぶく、寄付の上限枠についても、法改正の当初から“抜け穴だらけ”と指摘されてきた。

“木の葉侍”、“木の葉仙人”と、木の葉には、「威力のない、つまらないもの」という意味合いもあるようだ。政治資金規正法にも“木の葉法”の名がお似合いなのか。

 

男前は女で 女々しくは男なり

 

『喜劇 男は愛嬌』(松竹)という映画のタイトルが印象深い。
46年も前の映画である。森崎東監督デビュー作『喜劇 女は度胸』の続編らしい。映画の本編を観たか記憶は怪しいが、タイトルはしっかり憶えている。

“女々しい”という言葉は男のためにあるという。
となれば、“男っぽい”、“男前”は女性のための言葉なのか。

先の都知事選で小池候補に寄り添った若狭衆院議員が、石原慎太郎さんのお粗末発言を受け、涙を流しながら聴衆へ訴えたシーンが浮かぶ。
男らしさを感じる小池さんと対象的に、男女のキャラが逆転したような気がした。

アベノミクス、三本の矢、1億総活躍社会?
違和感を否めない。明確な言葉が出てこない時は便利だろうが、言葉だけで飾るその女々しさが後味悪い。

「◯◯ホールディングス、今期予想を下方修正、スーパーや百貨店で減損損失」などの現実を見るたび、デフレ脱却など口先だけだったのかと・・・。

 

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この方の作品は、骨太で男より男っぽい。
山崎豊子さんは長編小説『大地の子』を書き終えたとき、虚脱状態だったという。
いつもなら「完結!万歳!出獄だ!」と、とびはねるのだが、そのときは違った。

そうならなかったのは、「限界を超える仕事に挑んだのではないかと、最後まで不安だった」からだという。「取材の壁が厚いとよくいうが中国の壁は厚いでは足りず、厚くて、高くて、険しいものだった」と。現代中国を描く難しさだったそうだ。

「商人(あきんど)いうもんはどない大きな肚を持ってても、算盤珠弾く時だけは細こう汚のう弾くもんだす」。女主人公・多加が言う。直木賞受賞作『花のれん』の一節にある。

白い巨塔』、『華麗なる一族』など後年の代表作を読んでいるだけに、主人公の口を借りて創作の秘密が語られるように感じてならない。

 

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戦後日本の“暗部”を丸ごと作品に取り込む大きな「肚」と、物語の面白さを細かく弾いた「算盤」。そのどちらが欠けても山崎文学の魅力を言い表せない。

緻密な取材を重ね、誰の真似ではなく、誰にも真似できない孤高の暖簾を、しっかり守り抜いた作家である。

白い巨塔』も衝撃的だった。

それまで、(一般の人たちが)医師会の内幕は、あれほどまでとは知らなかったはず。
それ以後の医師会のドラマや作品は、『白い巨塔』が下敷きになった。
思えば、あの時代の作家やマスコミは、腐敗を鋭く追及した社会派が多かった。

山崎さんは大阪弁で、「長編に6、7年かかるが、失敗したら6、7年がパーや」と言った。長編に取りかかると短編も書かないし、対談も講演もしない。

前作を超えるものを自分に課し、そのための取材とイマジネーション。
取材した事実と往復する事で、イマジネーションを超える事実に行き着いたという。
亡くなられて3年が過ぎた。最後まで自分を貫き通したあの才能が惜しくてならない。

 

若しもの将来 起こりうること

 

<何となく何物かに押されつつ、ずるずると>。これは驚くべき事態だ、と。
敗戦直後、政治学者・丸山真男さんは、論文を執筆した。

どのようにして、戦前の日本が先の戦争に突入していったのか。
ナチスの指導者は開戦への決断をはっきり意識していたに違いない。

しかし、日本では、我こそが戦争を起こしたという意識を持つ指導者がいない。
日本では、主体的な責任意識が成立するのが難しい、と丸山さんは苦渋の診断をする。

「ずるずると」と形容すべき事態が今も繰り返されている。
豊洲への市場移転問題しかり、膨らむ東京オリンピックパラリンピック経費しかり。
我こそがと名乗り出る者不在で、責任の所在は曖昧なまま、何物かに押されつつ、ずるずると。

 

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“もし”、“もしも”に漢字をあてれば「若し」、「若しも」である。
将来起こりうることを想定したり、仮定したりするときに用いられる。

「若」は巫女が舞いながら、神のお告げを求める様子を表した象形文字だという。
“かつての若者”目線からのひがみでは、神さまのお告げにもせよ、多彩な可能性の“もし”に恵まれた若い人はやっぱりうらやましい。

“うるさい”が「うるさっ!」。“暑い”が「暑っ!」。
若い人の会話に限らず、最近はよく耳にする。

形容詞の語幹で感動や詠嘆を表す言い方なのらしい。
『花笠音頭』の「めでた」も語幹を独立させて用いた類似の例であるとのこと。
それを思えば、それほど風変わりな用法ではないのかもしれぬが。

 

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「速っ!」と驚き、「凄(すご)っ!」とうなるほかはない。
プロ野球界の若きスター、日本ハム大谷翔平投手のことである。

4年ぶりにパ・リーグを制した日本ハムを投打両面で強力に引っ張った。
本年も伝家の宝刀「二刀流」を存分に拝ませていただいた。

最大11.5ゲーム差を引っ繰り返した逆転優勝の原動力となり、優勝を決めた試合でも1安打完封で仕留めた立役者である。

22歳。投手と打者を両立させる、常識破りの「二刀流」に挑んできた。
元々はメジャー志望だった。もし、日ハムの強引な誘いがなかったら今頃は?

しかし、メジャーにいたら二刀流は見られなかったかもしれない。
いずれにしても、“将来起こりうる若しも”が楽しみなところである。

かたや、この選手の“将来起こりうる・・”はいかがなものか。
斎藤佑樹投手。大谷投手のチームメイトである。

<存在感消しつつビールかけ参加>とのネット記事が小さく出ていた。
今年はここまで3度の先発を含む、わずか11試合の登板にとどまり、0勝1敗、防御率4.56。今は一軍登録も抹消。昨季は1勝3敗であった。

二刀流・大谷選手がビールかけの中心だったのに対し、ひっそりとビールかけに参加した斎藤投手。“将来起こりうる若しも”はだれにも均等にやってくる。
過去の栄光よりも、将来の栄光に挑んでみてはいかがだろうか。

 

よくある噴飯モノのできごと

 

その昔、小学校で先生から「ひとの嫌がることを進んでしなさい」と児童が教わった。
日本語はむずかしい。ある男の子は、女の子の嫌がることをしながら歩いたという。

数年前の文化庁国語に関する世論調査」では、“噴飯モノ”を「腹立たしくて仕方ないこと」と誤解していた人が、本来の意味とされる「おかしくてたまらないこと」を倍以上も上回った。

“食べている飯を笑って噴き出す”との語源はわかっていても、そのままのつもりで使ったら誤解を受けてしまうこともありそうだ。

テレビ番組『笑点』の大喜利を見ながら、「ああ、おかしくてたまらない。じつに噴飯モノだ」と言っても、周りから怪訝な顔をされるのがオチだろう。

ましてや、先輩や上司にお世辞のつもりで、「そのユーモアのセンスは噴飯モノですね」などと言えば、どのような目にあうかわからない。

 

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夏目漱石さんは真の噴飯モノがお好きなようで、大の落語ファンだったとか。
小説『三四郎』では、登場人物のセリフを使い三代目柳家小さんを絶賛している。

「小さんは天才である・・・彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合わせである」。
その生身の芸に触れられる幸せをうれしそうに語っている。

また、司馬遼太郎さんにも桂米朝さんの芸に触れた一文がある。
「私は人生の晩年になって米朝さんという巨人を得た。この幸福をどう表現していいかわからない」。

古今亭志ん朝さんが脂の乗りきった高座をつとめていたころには、
志ん朝と同時代に生きられるぼくらは、まことに幸せではないか」と作家・小林信彦さんが書いた。

この方たちもまた、真の噴飯モノを追いかけていられたようである。

 

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思えば、憧れる人たちと同時代に生きられるということは、とても運が強いことなのであろう。若人と老人の年齢差があったとしても、同時代に生きられる幸福感はとても大きい。

南米には、年の取り方について「老いる者と、若さを重ねる者がいる」という表現があるそうだ。真の噴飯モノを追いかけていることだけでも、若さを重ねる人生に結びつくかもしれない。

めしべとおしべだけでは受粉できない。虫や風が仲立ちをするからこそ子孫がつながる。
ヒトも同じで、父と母、友、自然・・・に仲立ちをしてもらっている。この世に生まれ出た命には、欠如を満たしてくれる他者がいる。

栄華を誇った巨獣でさえ、自然という他者との絆が切れた時に滅び去った

余談であるが、いつまでも続く政治家たちの不正や不透明な仕事。そして相も変わらず、お得意の弁明が繰り返される。新聞やテレビのニュースに触れるたび、噴飯ならぬ憤懣やるかたない思いにさせられる。

『三四郎』の書生いわく、「今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ」と。「自分の人生とは、生きてきたその時々の目撃ではないだろうか」と語っていたのは、秋元康さんである。

 

スマホ発信によるビッグデータ

 

目が覚めたら有名人になっていた。
38年前に刊行された筒井康隆さんの小説『おれに関する噂』である。

ある会社員の情報が世の中へ筒抜けになってしまう。
女子社員をお茶に誘ったことが翌日には、日本中で話題になるといった具合に。

自分の情報が知らないところでやりとりされる。読者の不安をかき立てるには格好のモチーフで、洋の東西を問わず小説の題材として尽きない。

現在、世の情報はスマホ中心になり、人々がどんなモノを買いどんな場所へ行ったか。
膨大な情報(ビッグデータ)を企業が利用しやすくなった。

信販売大手「ジャパネットたかた」は、約8500種類の取扱商品を約600種類に絞り込み、通販サイトをリニューアルし、全商品に45秒の紹介動画をつけるなど商品説明を詳しくした。

販売商品を少なくすることで、顧客サービスの充実を図り、サイトリニューアルは気軽にスマートフォンなどで閲覧できるように、との計らいだ。

 

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インターネット上の膨大な情報を瞬時に集約・分析し、事件や事故、災害などの発生を知らせるシステムも注目されている。基のデータは、ツイッターやインスタグラムなどソーシャルメディアからの情報である。

ビッグデータをふるいにかけ、異変を察知する。
スマホソーシャルメディアの普及で、ユーザーが見聞きしたことをその場で投稿し、別の人が拡散する。一個人が意識せず記者の役割を担う時代なのである。

多数のパトカーや消防車に遭遇したり、(事件・事故の)目撃で、人が発する単語や短文を登録し、リアルタイムで検索する。そこに位置情報が加味できれば、場所の特定の助けになる。この作業をコンピュータに任せることで高速処理が可能にする。

 

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政府でも、地域間の人やモノ、お金の動きを可視化し、インターネット上で無料にて閲覧できる「地域経済分析システム」を公開している。

携帯電話の位置情報を基にした“ビッグデータ”の活用で、訪日外国人の出入国や滞在地域が地図やグラフで参照ができる。

訪日外国人の移動ルートを把握することで、地方自治体が観光政策に役立てることなどが期待されている。

そのシステムでは、特定の都道府県を訪れた外国人が、その前後にどの都道府県を訪れたか、日本地図上で確認し、ランキング形式で閲覧できる。

地図やグラフは、国内の携帯電話会社が所有の、訪日外国人約100万人のスマートフォンローミングデータを基に推計したものだという。データは定期的に更新される。

地方自治体は、観光PRを行う地域の特定や、観光戦略に活用できるほか、旅行業者の観光ルート作りの参考にもなる。

外国人だけではない。我々もすでに(それぞれのスマホなどから)、自分の情報が知らないところでやりとりされていることはまちがいなさそうだ。

保護すべき情報の範囲やプライバシーを守る方法など、議論すべき課題はまだまだ多いはずだが、個人情報だけが勝手に取り込まれているのである。

 

 

異端者だから成し遂げられる

 

作詞家の創意や意図に、前から興味が強い。自然に生まれたようなフレーズにも、隠されている秘密があるように思うからだ。

童謡の『ゆりかごのうた』(詞・北原白秋さん)に“黄色”を感じるという説がある。

<ゆりかごのうたを カナリヤが歌うよ・・・>。 
それからビワの実が揺れ、木ねずみがかごの綱を揺らしたりする。
カナリヤ、ビワは黄色、リスをわざわざ木ねずみとうたうのは、“木”に“黄”をかけたのではないかと。

米国ではベンチャー企業の創業者の約半数が、追放の憂き目にあっているという。
アップルの創業者スティーブ・ジョブズさんも、10年余り会社を去った期間がある。
事業を成功させても、持続的な成長は難しい。自ら築いた企業を追われる心境は、その身にならねばわからない。

どのような状況下でも、ジョブズさんの創意や意図はただひとつ。
<ときめく商品の追求>だったように感ずる。

 

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スコットランド出身の俳優・ショーン・コネリーさんは熱烈な独立運動家だという。
映画『007シリーズ』で初代ジェームズ・ボンドを演じた際、スコットランドなまりの矯正をいやがった。

「私は自分のアクセントが好きなんだ。俗に言う『英語』なんてものを話すのはごめんだ」と、インタビューで語っている。

<英国上流階級育ちの諜報部員>という原作小説のイメージは一変したが、映画は大成功をおさめた。

だいぶ前だが、映画『シン・ゴジラ』を観た。大ヒット作品だ。

『非常時の危機対応 ゴジラにどう立ち向かう』との見出しで、(一昨日の)読売新聞の一面にも大きく掲載された。

大人向けの政治映画であり、東日本大震災福島原発事故、そして日米安全保障条約が絡んだ物語だ、とも記されていた。

この5年半を経験した日本人につきつけられた“非常時にどう立ち向かうか?”の問いに、観客は待ったなしの感覚を持たされるのだと。

 

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いざ、コトが起きると何も決められない政治。被害は拡大する一方である。
その際の人材集結がまた示唆的だという。

政治家、官僚システムから疎外され除外された異端者である変わり者たちが、各界から呼び出される。

彼らは自分のオタク的興味でコトにあたる。あたかもゲームを楽しむかのようにだ。
そこに国家は意識されず、肩書と上下関係は無用。

<人材は育てられるものではない。その社会がどれだけ異端者を抱え込むゆとりを持っているかどうか、そのノリシロの大きさこそが必要>なのだと。

<異端者のブロジェクトチームだからこそ、緊急事態を抑えられた>。
そこに製作者の創意や意図が読み取れる。

<一言で語ることのできる映画作品はヒットする>というジンクスがある。そこに鑑賞後の爽快感が加味されれば、その余韻はいつまでも続くことであろう。

  

消える日本語が映す今の時代

 

1901年(明治34年)の冬に柳田国男さんが信濃路を旅した際、車屋が「とても寒い」と語るのを聞き、飛び上がるほど驚いたという。

“とても…できない”のような否定形を伴わない“とても”に、柳田さんは初めて出会ったという。でも今は「とても寒い」がふつうに使われている。言葉は生き物であり、時代とともに姿が変わる。

“青田買い”は、“青田刈り”として多く使われるらしい。
黄金色に実らぬ前の青田を買うのはいいが、刈り取ってしまっては収穫にならない。

世間の考えからずれている意味で“世間ずれ”を用いる人が増えたようだが、本来は“世慣れたずる賢さ”を評していわれる言葉だという。

劇作家・山崎正和さんいわく、言葉は変わりゆくものだからこそ誰かが<保守的に抵抗しなければいけない>。世代ごとに言葉が変わるようでは困る、とのこと。

 

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国文学者・折口信夫さんは清潔であることに細心の注意を払ったらしい。
つまようじをマッチの火で先をあぶり、消毒して使った。

泉鏡花さんは他家を訪問して座敷であいさつする時、手のひらが畳につくのを嫌った。
手首を内に折り曲げ、手の甲をあてたという逸話が残っているそうだ。
思えば、「つめの垢を煎じて」いう慣用句も、清潔とは言いがたい。

昔、文芸雑誌が「消える日本語」と題して特集していた。
そこには、“ごめんなさい”、“ありがとう”、“粋と野暮”、“武士の情け”などが紹介されていた。

今では“恩”や“孝行”の言葉が消えつつあるとも訊いた。
歌詞に“わが師の恩”とある『仰げば尊し』は、もう卒業式で歌われていないのだろうか。
家庭では“孝行”の代わりに、“虐待”が盛んに聞かれる時代でもある。

 

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かつて、三遊亭円生さんは「しばち(火鉢)」、「しとちがい(人違い)」で、桂米朝さんは「ひつこい(しつこい)」「ひちや(質屋)」となったとか。
江戸っ子は“ヒがシ”に、関西人は“シがヒ”になってしまう。

「布団を~」は“ヒく”か“シく”か? となれば、敷布団という言葉で喩えれば、“敷く”が正解だろう。「フライパンに油を~」は、“ヒく”の“引く”になりそうだ。“敷く”は、上に何かを載せるために広げること、“引く”は、表面に塗るように広げること、との違いらしい。

“とりつく島”を“とりつく暇”だと思っている人も増えているようだ。

昨日の新聞記事にあった。女流作家さんが22歳の女の子と恋愛の話をしていた時、「へぇ、2人はプラトニックな関係なんだねぇ」と言ったら、「プラトニックって何ですか?」と聞き返されてしまった、と。

“プラトニック”という言葉もなくなりつつあるのだろうか。

それならば、“胸キュン”でも“ワクワク”でもかまわないので<何にでも敏感だった当時に戻るような気持ちになれる>“ときめき”だけは、失わず持ち続けていきたいものだ。
おたがいに・・・。

 

あとを絶たぬサバ読む者たち

 

たとえば、数学が好きなら金融業界へ。国語が好きなら作家、編集者、書店員に。
村上龍さんの『新13歳のハローワーク』がおもしろい。

好きな教科を入り口に、自分の向いている職業を探す趣向である。
道徳の授業が好きな13歳向けには、弁護士、裁判官、検察官などと。
社会の役に立ちたい。議論し、意見を言うのが好きであるのなら、政治家もありか。

また、好き嫌いのないのが、子どものしつけという説もある。
多様な栄養素を満遍なく摂取しないと、からだによくない。

脳も同じで、色々なことをバランスよく経験すると、若々しさが保たれる。脳は「雑食」を好むのだと、脳科学者・茂木健一郎さんは言う。

右利きでも、なるべく左手を使うことで、左右の脳が釣り合いよく使われることになる。
脳を疲れさせないためには大切なことらしい。単調な使い方だと脳は弱くなってしまうため、偏食はいけないとのこと。

 

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日本人はなぜ現金が好きなのか。それをテーマにしたテレビ番組があった。
結婚披露宴に出て、(プレゼントではなく)現金でお祝いを渡すことに外国人は驚くらしい。

周りにも“現金主義”を貫く人がいる。
今もカード類をなるべく持たず、支払いにカードを使えない飲食店も多い。
電子マネーやカード払いが大好きな私も、路地裏の小さな居酒屋では仕方なく、現金で支払っている。

無駄遣いを警戒する人や、単純に面倒くさい人。また、買い物の履歴を誰かに把握されるを嫌がる人もいる。日本では現金を持ち歩いても、安心感があるのかもしれない。

<青きは鯖の肌にして、黒きは人の心なり・・・>。浪花節の一節らしい。

「サバを読む」とは、数をごまかすということに使われているが、鯖は傷みやすいため、昔の魚市場では目にもとまらぬ速さで数え上げて売ったことに由来するという。

移転予定の魚市場でサバを読んだ者たちも、公費のサバを読み裏金を蓄えた人々も、黒きは人の心なり、だろうか。

 

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時期的には早いが、本年の“流行語大賞”に「セコい」がノミネートされても違和感がない。

富山市議会の政務活動費問題では、不正取得を認めた議員が芋づる式に辞意を表明。
東京・築地市場の移転先・豊洲市場の建物下には、土壌汚染対策の盛り土がなかった問題が発覚。食の安全のみならず、莫大な予算がどのように流れているのか気にかかる。

“世界のミゾグチ”こと溝口健二監督は没後60年である。
田中絹代さんは、映画『山椒大夫』で溝口監督から減食を命じられたという。
やせ衰えた感じを出したいためだ。

せりふの吹き込みだけを残し、出番を撮り終えてひと安心と、ないしょで昼食にステーキを食べたそうだ。

田中さんの語るせりふを聞いて、監督は首を振った。
「肉を食べましたね。声につやがある。ダメです」。

演技においても、気むずかしい完全主義者として知られた溝口監督。
「心理を反射させてください」と注文するのみで、具体的な演技指導はしない。

「ダメ」を延々と繰り返す演出は俳優たちの恐怖の的であった。
黒沢明さんや小津安二郎さんとともに、日本映画の黄金時代を築いた巨匠は、人を見抜く“眼力”も並外れている。

今の民間人も、(ザル法で税金が湯水のごとく扱われぬよう)眼力を鍛える必要に迫られそうだ。

 

半世紀前のSF映画が現実化

 

外出先のコンビニでビールを買うことがよくある。
その都度、タッチパネルで年齢確認を求められるが、いまだに慣れない。
生まれて半世紀以上になる人間を見て、未成年とまちがえることもあるまいに。

どなたかのコラムでは、<想像以上に若く見られているのかもしれない>と、前向きに解釈するようにしている、とあった。

日常使う年齢を、“数え年”から切り替える法律が施行されたの、1950年(昭和25年)のことだという。長い日本史の中では“満年齢”の歴史もそう古くはない。

数え年は、生まれた時点で1歳。正月を迎えると一つ年を取るしくみである。もし、大みそかに生まれたら翌日にはもう2歳だ。満年齢への変更で「2歳若返る」ことになる。

明治期から年齢は満で計算するという法律はあったが、日常生活では数え年が主流。
海外の統計と足並みをそろえる目的もあり法制化されたようだ。
今は、血管年齢、骨年齢など健康にまつわる年齢測定も盛んだ。

 

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健康年齢の意識拡大とともに、医療機器の進歩も著しい。
こういう話になると、50年前に流行ったSF映画『ミクロの決死圏』が頭に浮かぶ。

<医師が細菌並みに小さくなり、患者の体内に入り病気を治す>という単純明快なストーリーである。そんな空想が半世紀も前に実写化したことがすごい。

冷戦下の米国の秘密軍事施設で、1時間だけ何でも小さくする装置が完成する。
この時間を延ばす技術を持つ科学者が命を狙われ、頭に重傷を負った。
そして、脳外科医ら5人が小型化した潜水艇「プロテウス」で血管に潜入して治療を試みる・・・。

ミクロ化した原子力潜水艇と医師らが、患者の動脈から心臓、肺を経て脳に入る。
クロサイズの人間に襲いかかる免疫細胞との戦いや、時間内に治療して脱出する展開は、なかなか見ごたえがあった。

 

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腸に入り込んだかのように見える超小型カメラは実現しているという。
口からのむカプセル内視鏡で、長さ約3センチ、見た目も潜水艇っぽいらしい。
自走はしないが、腸の動きで肛門まで到達する。

体に入れる際の苦痛がなく、CTで映らない潰瘍を見つけたこともあるそうだ。
今のところ治療はできないが、患部を焼いて治療するレーザー銃を載せるべく研究は進んでいる。

「ナノ医療イノベーションセンター」のセンター長・片岡 一則さん(工学博士)は、若い頃に『ミクロの決死圏』を見て、医療工学者をめざしたという。

ナノ医療イノベーションセンターでは、大学や製薬企業、医療機器メーカーなどが集まり、ナノ・メートル(100万分の1ミリ)単位の医療技術で病気を治す研究を行っている。
極小技術を使う検査薬や治療薬は“ナノマシン”と呼ばれる。

片岡さんいわく「映画の世界を現実にするんです」。
<様々なナノマシンが診断し治療する『体内病院』を実現させたい>と。
SFからまた未来技術が生まれようとしている。

その技術で、“実年齢”よりも“見た目年齢”の若返り化も進むような気がしてくる。