日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

星空から見るこの星への想い

 

寒くも暑くもない穏やかな季節になった。
過ぎし昔をふと思いながらの星空も、なかなか粋なものである。

おおぐま座の一部である北斗七星は、北の空を沈むことなくまわりつづける。
ギリシャ神話では、主神ゼウスの寵愛を受けた妖精に、激怒したお后のヘラが妖精を熊に変え、天空を休みなく走らせているのだという。嫉妬なのである。

北斗七星は水を汲む“ひしゃく”の形でおなじみだが、その形はやがて崩れてゆくそうなのだ。両端の星が西に、中間の五つは東へと動いているため、ひしゃくの形に見えるのは、あと数万年の間だけだという。

たいへんな目にあった妖精も、あと数万年の辛抱らしい。とはいえ、人の寿命に比べたら、気の遠くなる長さであるのはまちがいない。

ときに、天体は人をほろにがい気分に誘(いざな)うが、快い夜を満喫して北斗七星を見上げるのもいいものだ。

 

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<つまらないとて 悪いことすれば 誰が見なくも 天道さま見てる>。
野口雨情さんの『天道さま』という一編である。
ひと昔前を生きた人々の、普通の感覚をうたった詩なのであろう。

現在も、罰が当たるとか、何かに見られている、といった伝統的な感覚は、日本人の心にあるはずだ。

昨春、寺社連続油被害事件が起きて、各地で寺社の国宝や重要文化財などに油が撒かれた。現場の防犯カメラに不審な男が映っていたという。神仏を畏れぬ犯人も、映像に追いつめられることになった。

駅構内、公園、コンビニと、防犯カメラのレンズが街のいたる所でのぞく。
10数年前に、史上最悪を記録した刑法犯罪件数は、半分以下に減った。
防犯カメラが犯罪の抑止や解決に役立つのはけっこうではあるが、お天道様から完全に取って代わるとなれば、なぜかすっきりしない気分である。

 

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<月から見た地球は円(まど)かな 紫の光であった 深いにほひの>。
こちらは、北原白秋さんの『月から見た地球』という詩で、1929年(昭和4年)の詩集に収められている。

ソ連のユーリー・ガガーリンさんは、世界で初めて有人宇宙飛行に成功した。
その30年以上も前の詩なのである。地上に帰還したガガーリンさんは、<地球は青かった>と語った。白秋さんの直観のすごさには驚くのみである。

大海原に出て陸が見えなくなる恐怖に耐えられないと、新しい大陸に到達することはできないという。未知への船出には決意が要る。

コロンブス船隊の猛者たちも、陸影が消えると泣く者が続出した。そのため航海日誌を二つ作成し、進んだ距離を実際より短く記したらしい。偽の方を乗員に示して、すぐに戻れると、なだめすかして海を渡ったとか。真意の程は定かでないが。

 

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21世紀の現在、新天地を切望して海に出る人々がいる。北アフリカやシリアから欧州へ、地中海を渡る移民や難民の遭難が後を絶たない。テロや紛争から逃れ、恐怖に耐えて“板子一枚下は地獄”の密航船に乗り込む人たちだ。

平和な日本(国)と時代に生まれたのは偶然で、もし天の采配ひとつで自分はその誰かだったら・・・。などとの想像力が、今の日本にも必要かもしれない。

日本人の地中海のイメージは、古来の芸術や富を育んだ“明るさ”だろうか。
洋行帰りの永井荷風さんは濃紺の海を<磨き上げた宝石の面>と詩情豊かに表現したそうだ。

竹取物語』によるとこの星は、月世界の罪人が流される流刑地で“穢き所”だという。
残忍なテロ集団が思うままにのさばり、よその領土や領海に野望をむき出しの大国もある。戦火だけでなく飢餓にも貧困にも追われ、その海に沈む人々を何とか救うことはできないものであろうか。