日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

なまいきに親しみ込めた時代

 

木の上に小屋を作ったのは映画『スタンド・バイ・ミー』の少年たち。『トム・ソーヤーの冒険』が洞窟の中。“秘密基地”は世界の共通語かもしれない。

こちらもある意味で当時の若者の“秘密基地”だった。あの新宿西口地下広場のフォークゲリラにも似た風景でステージの周りは騒然。ジーンズと長髪、ギターの若者たちの聖地だ。

1969年~1971年の毎年8月に岐阜県中津川市で開かれたフォークジャンボリーは、大規模な野外コンサートだった。

最後の年には、吉田拓郎さんが『人間なんて』を2時間にわたり延々と熱唱。当時、粗削りな歌もあったがそれがまた盛り上がる。世間へのプロテストや胸の中のモヤモヤが曲にこめられていた。

ボブ・ディランビートルズに影響を受けたアーティストも多かったが、後に陽水さん、みゆきさん、ユーミン達が登場すると、“フォーク”の括りからシンガー・ソング・ライターと呼ばれるようになる。

 

 

<年の熟さない者が、年うえのものの口つきや動作やなんかのまねをして、しかしまだ何となく幼くて、いくらかちぐはぐな・・・>。“なまいき”とはそういう感じを表す言葉のようだ、と言ったのはノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎博士らしい。

まだ20歳代で自分の思うままに作る名曲を世に送り、自分でも歌うがアイドルやベテラン歌手にも楽曲を提供。当時流行だった歌謡曲の作曲家、作詞家先生たちの仕事も減り始めることになる。先生たちには、若者たちの才能が“なまいき”に感じたのではないだろうか。

あの20歳代だったアーティストたちの楽曲は、今聴いて歌っても(若者が)なんでここまで深みのある楽曲を書いたのか不思議でならない。偉大な“なまいき”としか言いようがないのである。

 

 

フォークジャンボリーが行われた時代、角界の若手力士といえば初代貴ノ花と輪島である。人気もさることながら、憎めない“なまいき”さが魅力だった。貴ノ花は親方として息子ふたりを横綱に育て上げたが、輪島は現役時代からの私生活での豪遊ぶりが仇となり、親方の仕事は短命に終わった。それでも、なぜか憎めない。

輪島はその後、プロレスラーとしてデビュー。しかし、大相撲の力士が他の格闘技に転じてもあまり成功しないらしい。打撃技や関節技への防御が下手なことと、相撲では相手に身体的ダメージを与えるのを目的とする攻撃的な技は用いられないためだ。輪島は“体が倒れると負け”という相撲のせいで、相手を倒しても寝技に持ち込めない。

1980年、テレビのこのCMが大好きだった。髷(まげ)をやめたばかりの貴ノ花と輪島が橋の上でばったり出くわす。貴ノ花はきれいに整えた輪島のパーマをしげしげと眺め、「それ、鬢(びん)付け油?」と尋ねる。輪島いわく「ノー、アウスレーゼ」。← 資生堂の微香性化粧品名である。

 

ふつうに暮らせる世間とは?

 

次の連休に、また大きな台風が来る予報である。雨量(1時間あたり)が20~30ミリでは“どしゃ降り”、30~50ミリだと“バケツをひっくり返したように降る”との表現。雨量がどれくらいだと人はどう感じるかを、気象庁が説明している。

ちなみに50~80ミリになると“滝のように降る”で、80ミリ以上は“息苦しくなるような圧迫感で恐怖を感ずる”とのこと。それ以上の大雨は想定外だったらしいが、この9月初旬の台風15号の強風に対し、19号は豪雨もプラスされるらしい。

レジリエンス」という英単語は“弾力性”、“復元力”などの意味だ。弾力のあるものに圧力を加え、形を変えても元通りに戻る性質のこと。人間の力では防げない大災害で、一時的に打撃を受けても再び立ち上がることを人々はしている。それがレジリエンスなのだろう。とはいえ、大きな災害が続くと、被災地はなかなか立ち直れないのが現実。

 

 

<君は僕のことを夢想家と言うかもしれない。でも、僕は独りぼっちじゃない>。『イマジン』(ジョン・レノン)の歌詞の一節にある。ジョンはメンバーの中で一番カリスマ性が強かった。ビートルズ時代を経て、ソロ活動に転じてから発表した名曲。争うことなく、平和に暮らしていける世界をイマジン(想像)してごらん・・・と。

<何でも気が向くまましたいの、一日中>。映画『ローマの休日』のスペイン階段でオードリー・ヘプバーンは語る。街の美容室で髪を大胆なショートにして、階段に腰掛けてジェラートを食べている。

新聞記者役のグレゴリー・ペックは後をつけて、再会を装って声をかける。宮殿を抜け出した王女を特ダネにしようとの魂胆だ。食べかけのジェラートのコーンを彼女は画面の外へ、ポイッと・・・。

今、この名シーンをまねしたら、最大約4万7千円(400ユーロ)の罰金だという。2012年から、スペイン階段での飲食が禁止。それでも、寝そべったりしてゴミを散らかす観光客が後を絶たず、警察による取り締まりが強化された。

 

 

日本でも外国人観光客の急増で、住民とのトラブルが目立つようになっている。国では韓国との関係悪化で外国人観光客の減少が懸念される・・・と。しかし、日本の観光者や現地に暮らす人たちには、よかったのではないか。

暮らしといえば、たった3人の採用枠に全国から1800人を超える応募が殺到したという。兵庫県宝塚市が行った正規の事務職員募集だ。“就職氷河期世代”といわれる30代半ばから40代半ばの人が対象である。

本来、働き盛りと呼ばれる40歳前後だが、その年代だけ給与がダウンするという「アラフォー・クライシス」が問題になっている。また、親の退職と子供の非正規雇用を示す“7040問題”もあり厳しい状況だという。

宝塚市の事務職員募集で倍率が約600倍。この数字にも現実を強く感じる。果たして合格者3人以外の人たちは、どんな職業に就くのだろうか。

 

乗り越えた力の源泉はなに?

 

随筆家・小説家の幸田文さんがかつて、家に来た畳職人の話を書き留めている。畳を扱う仕事は力だけでするものではなく、“こつ”や“なれ”で扱うから年をとってもけっこうやっていける・・・のだと。それでも彼は、老いる前に仕事を切り上げるつもりでいる。

<若い者に、自分の安らかな余生を示して安心を与え、いい技術を受けついでもらわなくてはいけない>と。以前、親方からこう諭されたからだ。今の時代とはちがい、粋な見栄である。先人のお話はとてもためになる。

イギリスの細菌学者・フレミングは、青カビの周りだけ細菌の生育が止まっているのを見逃さなかった。1928年の夏、旅行から研究室に戻ってみると、ブドウ球菌の培養に使ったシャーレに青カビが生えていた。

どうやら、フレミングは後片付けが苦手だったらしい。普通ならすぐ洗ってしまうところだった。そして、カビがつくる物質を突き止めて、ペニシリンと名付けた。

 

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レミングによって、“奇跡の薬”と呼ばれる抗生物質は偶然から生まれた。フレミングは1945年にノーベル医学・生理学賞を受賞。<偶然は、準備のできていない人を助けない>。フランスの細菌学者・パスツールの名言である。

<今日もまた空(むな)しかりしと橋の上にきて立ちどまり落つる日を見る>。物理学者・湯川秀樹博士にとって、研究生活は焦燥と隣り合わせだったという。

“創造への飛躍”がなかなかやってこない現状で、乗り越えた力の源泉は何か。博士は「未知の世界へのあこがれ」だったと思いを込めている。

偶然は、作品の制作秘話などにも(同様に)関与する。大ヒット曲『贈る言葉』は卒業式の定番として歌われる曲だが、本来は失恋から立ち直るために歌ったという。武田鉄矢さんは、事実がないと歌が作れないそうで、失恋から出来た別れの歌だった。

 

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未練たらたらの武田さんは、ずっとウジウジ泣いていたらしい。そしてお相手から「放してって」と言われ、挙句の果てには「大きい声を出すよ」・・・とまで。

<人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから>。そこから名曲が生まれた。この歌詞の部分は、太宰治さんの言葉を借りたとのこと。太宰さんいわく、「優」という文字の成り立ちで、<人は憂いが心に多いほど、人に優しくできる。だからその人は優れているんだ>と書いた。

武田さんの体験で、女性に振られて泣いていると、落ち着くために必死で本を読むという。曲のタイトルについても<1960年代に芥川賞を受賞した柴田翔さんの作品に『贈る言葉』がある>。「あっ、これだ!いつか使おうと思った」という。

実際に、タイトルを作るためにも本屋を歩きながら言葉を探した、というからすごい。80年代の作品にそれが反映している。まさに、“準備”ができていたからこそ、偶然を引き寄せられた・・・と、いうことだろう。

 

ニュースの形を欲しがる人も

 

日本は“世界一のBGM消費国”だという。音楽ライター・田中雄二さんに、バックグラウンド・ミュージックの歴史をまとめた著作がある。

もし、コンビニやスーパー等の店内が静寂に包まれていたら、お客さんは必要なものだけ買って、さっさといなくなってしまうかもしれない。

耳慣れた洋楽の懐メロや名曲をアレンジした演奏により、リラックスした気分を与え、その場の人へ買い物意欲を促す効果が期待されている。

とはいえ、多種の商品を扱う店舗では客の買い物意欲のターゲットを見失うと、大きな損失にもつながる。

約643万トンの食品と言われても、なかなか想像できない。平成28年度に発生した日本の“食品ロス”だという。たしか、節分で売れ残った“恵方巻き”の大量廃棄が問題になっていた。

 

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最近は、人手不足の営業時間短縮も含め、食品ロスの問題に大手コンビニがようやく腰を上げたという。消費期限が近づいた食品の実質的な値引き販売を始めるとか。

ポイントで還元する仕組みなどで、消費者は安く買え、加盟店も廃棄コストの負担が軽くなる。また、“恵方巻き”や“クリスマスケーキ”なども予約のみに切り替えて、売上は減っても廃棄の大幅削減で今までの損失分を大きく改善しているという。

その動きは食品業界に広がりそうだ。しかし、驚くのは<コンビニなど小売業はロス全体の約1割にすぎない>ということである。

最重要箇所は各家庭と、食品メーカーや外食店なのだ。現代はテレビやネットで、ニュースはほぼリアルタイムで伝わる。その中で、食品ロスの問題としてコンビニやスーパーの名前が多く出るため、我々は肝心なところを見失うことにもなりかねない。

 

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この春に新元号が発表され、「令和」になったことは誰もが知っていたはずだが、それでも新時代の到来を実感したかったのだろうか。

人が多く集まる主要都市で配る新聞社の号外が、(配り始めると)奪い合いになり、転倒する人も出たという。これほどの混乱はなかったようだ。

新米の新聞記者のことを、昔は“トロッコ”と呼ばれていた。記者を“汽車”に見立ててて、レールの上をトロッコも走るが汽車にはほど遠いことからつけられたのだ。

明治の日清や日露戦争で、速報の役割を担ったのが号外だったという。インターネットなどない時代、戦況を伝える号外競争が繰り広げられた。

現代でも号外発行となると、新聞記者はルーツである瓦版の血が騒ぐという。読者のニュースへの驚き、喜び、感動に直接触れられるからだ。“トロッコ”の記者たちにとっても、最高の研修になるかもしれない。アナログな新聞も捨てたものではない。

ただ気になることもある。奪い合いで貴重な号外を手に入れた読者の中には、記事に目もくれずネットオークションに出品して一儲けを企んだ方もかなりいたらしい。心が温まりかけていたところ、テレビの報道で知って急冷したのを覚えている。

 

過去2年で生成された90%

 

酔ったときの会話で、私もよく使う「すべる」という言葉。元々は芸人らの業界用語で、笑いをとろうとしたギャグがまるでうけず、気まずい空気が流れることだという。20年ほど前の若者たちが使い始めたらしいが、今の若者に使ったらすべってしまうかもしれない。

その点、この人のお話はおもしろく、(私にとって)すべることがない。武田鉄矢さんである。若い頃、容姿に悩んだ武田さんは飛び込んだ書店で『劣等感を吹っ飛ばせ』という書籍を見つけて手にとった。そして、開いた見出しのひとつを見て驚いたという。

短足コンプレックスをバネに、どっこい生きてきた武田鉄矢>という見出しに、“劣等感を克服して堂々と生きる人”として紹介されていた。しからば・・・と、居直ることで湿っぽい感情が消えたようである。

武田さんのしゃべりには、漢字的な要素を感じることもよくあり、それが説得力になる。

 

 

昭和以前の文章には、<略毎日>などと表記されるものがあった。インターネットで調べても「略」という字は“りゃく”だけではなく、“ほぼ”とも読むそうである。同じ「ほぼ」では、“粗”も同様に使われるとか。つまり、略毎日は<ほぼ毎日>ということらしい。

「すべる」という言葉と同時期だったのか、「ほぼほぼ」という“ほぼ”の強調形もかつての若者たちに使われていた。断言を避けたいときに使う言葉だったと思う。

漢字の数は、10万を超えるともいわれる。辻や峠みたいに日本生まれなのに、漢字と呼ばれる文字もある。誰が作ったのかわかっている字は少ないが、そのほとんどが長い歴史のなかで形を整えてきたという。

<無視・称賛・非難>と表現していたのは、阪神時代の野村克也監督で、部下の操縦法なのだという。

 

 

 ・ダメな部下は放っておき、自然と成長するのを待つ。
 ・そこそこの部下は長所をほめて育てる。
 ・できる部下はあえて弱点を指摘し、奮起させる。

“ハラスメント”が氾濫する今の時代、相応の漢字が思い浮かばない。部下の指導でも<称賛・称賛・称賛>が妥当なのだろうか。

さて、世界中にあるデータの90%は、過去2年で生成されたと言われるほどまで、データが近年急増している。2025年には現在の10倍に当たる163ZB(ゼタバイト)ものデータ量に達するとの調査もあるそうな。ゼタバイトという単位さえ、まったく想像もできないが。

データが急増する中で、今後はAIでいかに価値を引き出せるかが重要になってくるといわれる。AIの活躍には興味も尽きないが、願わくば漢字に強いAIが出てきてくれると有り難い。(ふむ)

 

編集者・作家・詩人の説得力は

 

昭和の時代に置き忘れてきたのだろうか。“骨のある人物”という言葉を近年はとくに聞かれないような気がする。

<自分の読みたい雑誌を作れ>が最初の指示だったという。新潮社の“怪物”といわれた伝説的編集者の斎藤十一(じゅういち)さんである。その斎藤伝説では、「貴作拝見 没(ボツ)」という、五味康祐さんへの手紙がある。

坂口安吾さん、佐藤春夫さんなど大作家の原稿も平気で没にしたという。反面、山崎豊子さん、吉村昭さん、瀬戸内寂聴さんという、戦後文壇を代表する多くの才能を世に送り出した。

さて、あの推理作家・松本清張さんは凶器として変なものが使われたという。1972年の短編小説『礼遇の資格』にて、フランスパンである。

<フランスパンが脳天を一撃しただけでアメリカ青年は眼(め)をまわし、つづく二撃、三撃によって床に伸びた>のだと。犯人は剣道二段で、古いパンだった、という設定だ。

 

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清張さんの説得力とでもいうか、当時は納得させられていたがパンで人を気絶させるのはなかなか難しい気もする。思えばあのとき、私はフランスパンを食べたことがなかった。

作家、演出家の久世光彦(てるひこ)さんの『町の音』というエッセイの中で、好きな町の音を一つだけあげろと言われたら、<私は躊躇なく、この音と答える>とあった。

「夕食の支度をする音」である。鍋の蓋をとり落とす音、茶碗の触れ合う音、そして水を使う音らしい。たしかに、夕食の支度をする音の中には、幼き日の想い出が擦り込まれている。湯気に煙った窓があり、そこで夕食の支度をしている音が聞こえる。

 

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今の時期は、秋の夕暮れ時に家の中で耳にした、かつての家族の声や息づかいも感じられそうである。

白やぎさんと黒やぎさんで、届いた手紙を読まずに食べ、手紙が無限に行き来する童謡が『やぎさん ゆうびん』である。

作詞した詩人の まど・みちおさんは著書で、<食いしんぼうの歌だと思ってくださるとうれしい>と書いている。生きることは食べること。そして、すべての生き物が無限に食いしんぼうなのだ・・・とも。

<なのに人間は、自分が食いしんぼうなのは心得ていても、隣の人やほかの生き物もそうだということは忘れてしまう。覚えておったら、世の中はずいぶんよくなると思う>。こうして、詩人は物事の本質を見抜くのである。

 

 

今週のお題「青春の1ページ」

 

熱心な共感力で我が身を試す

 

<何十年かたった後に、時代を思い出す最初の扉が歌であればいい>。作詞家・阿久悠さんの(自らの)作品に対する、思いであった。世の中にとっての歌は? との問いかけにて、それが答えのひとつだったようだ。

相手の側に立って考えられる能力のことを“共感力”という。漫才のネタ作りにも共感力が必要だといわれる。そして、客の誰もが共感し、心から笑えるものもあれば、炎上する刺激的なものもある。

<棋は対話なり>って言葉があるんですよ、と言ったのは将棋の羽生善治さん。駒を動かしながら心の中で相手と会話を交わすのだ。「ここまで取らせてください」、「わかりました。そこまではいいでしょう」、「では、これもいいですか」、「それはちょっとよくばりでしょう。こちらも戦いますよ」・・・という具合にである。

押したり引いたりと、こうした対話を重ねながら、自分の有利な展開へと最終的に導いていくものらしい。

 

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研究熱心の医学者だったという。ドイツの医師ベルナー・フォルスマンさんは、自分の身で試してみる。ある時、自分の腕の静脈にゴムの細い管を入れ、片方の手で管を心臓へと押し入れていった。

そして、そのまま地下のレントゲン室へと歩いて行き、X線写真で管の先端が心臓に達しているのを確認。

この写真が証拠となり、後年にフォルスマンさんは心臓カテーテル法のパイオニアのひとりとしてノーベル医学生理学賞を受賞することになる。

いかにもケチで意地の悪そうなお婆さんを、電車の中で見つけたのは樹木希林さん。ふつうなら観察するだけだが、希林さんはあとを尾けた。電車とバスを乗り継ぎ、たどりついたのは千葉の高齢者施設。

希林さんは中に入り、お婆さんや入所者の人たちとおしゃべりをし手を握ったりした。指の先だけちょん切ったレースの手袋、珍妙ですその長い割烹着。『寺内貫太郎一家』の“キン婆さん”の衣装は、この体験から生まれたそうな。

 

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樹木希林さんのエピソードは多い。あの向田邦子さんの遅筆に腹を立て、「筋だけ書いてよ後はこっちでなんとかする」と大げんかになった、と。

役者としての絶対的な自信はあったはず。脚本に書かれている以上のことを、その歩き方や背中で語っていた。そして、アップを求めなかった。

<監督、わかっていると思うけど、みんな背中で芝居できる役者が集まっているんだから、顔のアップ撮ったりしなくていいからね>と、是枝裕和監督に伝えた。

希林さんは作品全体のトーンやバランスも自分で考えて演じる。アップなんて邪魔なのだろう。そして、恥じらい方、ねたみ方、転び方など、人間というものに目を凝らして毎日を過ごしてきた俳優だ。

1964年のテレビドラマ『七人の孫』では、21歳の希林さんが森繁久彌さんと丁々発止のアドリブ合戦を演じた。希林さんいわく、<森繁さんが本なんか無視して、どんどんその場でつくっていく面白さに洗礼を受けた>とのことである。

 

立体的ではなく平面的な記憶

 

10歳代の頃、江戸川乱歩さんの小説をよく読んだ。登場人物としての若者の年齢としては、25歳との設定が多かったような気がする。当時の私はなんで? と思った。10代の若者の頭には25歳が大人だったからである。

歳を重ねるごとに、テレビや実際に目撃した数々の記憶が、立体的ではなく平面的になる。年代としては、かなり離れている出来事もすべて近くに感じる。

1963年5月24日、デストロイヤーと力道山のWWA世界選手権のテレビ視聴率は64.0%で歴代の第4位だという。

デストロイヤーの得意技「足4の字固め」が決まるも、力道山が体を反転させて裏返しになると攻守が逆転する。ほとんどこの繰り返しの場面なのに、ものすごい迫力であった。

試合はどちらもギブアップせず、レフェリーが試合をストップ。絡み合った両者の足が外れずたいへんであった。それにしても、プロレス人気は高かった。

 

 

<技術者の正装だから>。 1981年、皇居での勲一等瑞宝章親授式に、真っ白なツナギ(作業服)で出席しようとしたのはホンダの創業者、本田宗一郎さん。魅力のある人である。結局は燕尾服にしたが、根っからの現場人間だ。

2019年3月6日、作業着で保釈された日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告は、映画のようなカムフラージュであったがすぐに見破られた。東京拘置所の玄関前に横付けされた大型ワゴン車ではなく、脚立を積んだ軽ワゴン車に乗り込んだ。

落語家のどなたかのネタだという。作業着の言葉を分解すると<サギ ヨウギ>。本田宗一郎さんと同じ自動車メーカーのトップだったこの人の作業服は、意味が違うようだ。

さて、バブル時代の前後だったか、テレビから文字通り24時間流れていた。<♪ビジネスマーン! ジャパニーズ・ビジネスマン>。勇ましいメロディーによる栄養ドリンクのCMであった。

 

 

日本中が浮足立っていた。天井知らずの景気で街は眠らず、企業戦士に昼も夜もない。コンビニだけでなく、外食産業などの24時間営業も国民の生活パターンを変えた。

<衝撃的な商品は必ず売れる。それ自身がルートを開いていくからだ>。日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)さんの名言である。

チキンラーメンが発売されたのは1958年。スープを麺に染み込ませ油で揚げる。そして、お湯をかけ蓋をして3分待てばラーメンができる。画期的な発明といえる。

大量生産、大量消費、そして広告の時代の幕開けでもあった。<どんな優れた思いつきでも、時代が求めていなければ、人の役に立つことはできない>と、安藤さん。

ラーメンからミサイルまで”をキャッチフレーズにした大手商社が取り扱いたいとも言ったが、安藤さんは断った。「食足世平(食足りて世は平らか)」がモットーであり、“食が一番大事で、人類に貢献している”との信念がある。ミサイルと並べてもらいたくないのだ。

 

秋の夜も悪くないと想う時期

 

<迎えの拍手はきのうまでの人気、降りる時の拍手は今の人気>。五代目 古今亭今輔さんの名言だという。人の一生に置き換えても当てはまりそうである。

芸道と同じく、人生にも良いことと悪いことがある。また、人には食分(じきぶん)と命分(みょうぶん)があるという。人が一生に食べる物の総量を食分といい、命分が寿命の長さらしい。

ある者があの世へ行くと<こいつはまだ命分があるから帰せ>と閻魔大王は言う。冥界の役人が<命分はあるが、食分が尽きている>と応じた。

それらはあらかじめ決まっているから、より多く求めても無駄。大王いわく<しからば蓮の葉を食べさせよ>と命じ、その者は生き返り 蓮の葉で余命をつないだ。

今の世は、(世代別調査によると)20歳代以上の人で、1日の摂取カロリーの最も多いのは男女とも60歳代だったという。その食分と命分の割合はどうなっているのだろうか。

 

 

20年ほど前の調査では、60歳代が(男女とも)20~50歳代のどの年代より少なかった。それが今では、若い人よりも食欲の旺盛な60歳代になっている。60歳代より若い世代は、健康志向によりカロリーを気にする人が増えたことも減少要因のひとつなのだろう。

摂取カロリーの減少と平均寿命の延びは、“食分=命分”との関連もあるのだろうか。なにはともあれ、<衣食をむさぼるなかれ>の教訓が生きるようだ。

<寄鍋や むかしむかしの 人思ふ>。山口青邨さんの一句である。夏の暑さでおさまっていた食欲が、秋の涼しさとともに蘇る。

昔はどこにも商店街があり、豆腐店精肉店が軒を並べ、少し隔てて青果店があったりもする。そこを歩き水槽の豆腐や肉を見て、白菜やネギを見れば“寄せ鍋”を連想したり楽しめる。スーパーで食品コーナーを移動するのとは、やはり趣がちがった。

 

 

涼しくなると秋の夜もわるくないと、それぞれの食材が頭のなかの鍋で煮える。我が家では卓上のIHヒーターの出番が増える時期である。これがとても使いやすくて、カセットのガスコンロは捨てた。

昭和も終わりの1987年7月23日午後、首都圏が大停電に見舞われた。折からの猛暑で電力需要が急増、複数の変電所がダウンして影響が280万戸に及んだ。

最大3時間余で復旧したが、バブル真っ最中の日本は信号機が消え、エレベーターが止まり、病院もパニック。銀行のATMも使えない。

それは、今回の台風被害の光景にも重なる。9日に上陸した台風15号による大規模停電で、千葉県を中心に深刻な影響が広がっている。

世の中の電力依存がどんどん進み、生活で必要な家電やシステム等あらゆるものが電気で動く。本を読んだり写真を撮るのも電気。スマホも電気がないと使えない。

現在は30年以上前より、事態がはるかに深刻なはずだ。それが何日も続いている。電気が使えないことの被害は計り知れない。被災地の速やかな復興を願うばかりである。

 

あこがれは人生の先輩なのか

 

ワープロやパソコンが一般化する前、ひらがなタイプライターを使ったことがある。今のパソコンキーボードと配列は同じく、アルファベットとひらがなを併用したものだ。打ち込みが新鮮で、ひとり悦に入った。

そのうちワープロが流行り、日本語入力は「ローマ字」と「かな」の2方式が中心になった。富士通が開発したかな入力方式「親指シフト」も人気を博したらしいが、今はローマ字入力が多い。

現在は、スマートフォンの普及でキーボードを打てない若者もいるという。新入社員の変化に戸惑う企業の人事担当者は、左右の人さし指でキーを探し、ポツリポツリと打つ人が増えている、という。

スマホだけでリポートを書く学生もいるが、学生のパソコン所有率は下がり続け、今や4割程度だとか。

 

 

キーボードを打ち込む音が社内の活気を呼ぶような気にもなるが、今の職場ではやはりパソコンが主流なのだろうか。

社員にやる気のない会社はトイレが汚いとの話をどこかで訊いたことがある。銀行マンは取引先の会社を訪ねるときは、3つの点に注意するとか。それは、「トイレ・予定表・廊下」だ。

社員の振る舞いは、業績を映す鏡なのだという。商品や伝票は廊下に山と積まれ、予定表には雑なスケジュールしか書かれていないとか。そしてトイレの清潔度などを測るらしい。

<健全なる猜疑心>。いかなる取引も疑ってかかるのが銀行業界の基本である。

猜疑心といえば、ある落語家を連想する。三遊亭円朝さんである。日本語による近代的な小説のさきがけとされる『浮雲』を書いた二葉亭四迷さんは円朝さんの落語を参考にした。

江戸時代の終わり、世に出た円朝さんの『牡丹灯籠』は明治のはじめに速記から活字化された。今の日本人にもわかりやすい語り口には感嘆する。

 

 

『牡丹灯籠』をはじめ、円朝さんの新作落語は数多い。旺盛な創作力の背景には、猜疑心の絡みもあるらしい。

若くして真打ちになった円朝さんの人気を、師匠の二代目・円生さんが妬んだ。そして、たびたび弟子の演目を先取りした。今で言う“パクり”である。

そこで円朝さんは、師匠が自分の物にできないような、オリジナルの噺を披露していく。結果として、円生さんは円朝さんの才能を開花させるのであるが、“不世出の名人”と呼ばれる円朝さんだからこそ成し遂げた芸である。

昔の人の話はとても興味深い。昔かたぎは筋金入りといえば俳優・笠智衆さんであった。
<明治生まれの男は泣かない>。あの小津安二郎監督に、『晩春』の脚本にあった慟哭シーンの変更を願い出た。

この話も有名だ。映画の『寅さん』シリーズで、柴又帝釈天の住職を演じたとき、松竹が用意する車に乗らなかったという。

<僕は電車が好きなんです>と言い放ち、東京の柴又から鎌倉市大船の自宅まで東京湾を半周して帰っていた。

住職の笠さんは写真を撮られるとき、真面目な顔つきで「バター」と言う。よく似た黄色い箱が定番のチーズとバターだ。そのネタは寅さんも使っていた。