日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

人の意識と思い込みについて

 

刑事コロンボ』の主役として知られる米国の名優ピーター・フォークさんが、亡くなる前にアルツハイマー症候群が進行し、自身がコロンボを演じたことも忘れてしまっていたという。

人間の意識や思い込みについて、考えることがよくある。思い込みについては、年齢に関係なくついてまわるものだ。

サザンオールスターズがデビューした時、私は彼らをコミックバンドだと思い込んでいた。デビューの『勝手にシンドバッド』という曲名からして、当時のヒット曲名を2つパクり、組合せたものだった。ステージではラテンタッチな演奏の中、桑田佳祐さんがジョギングパンツとランニングで駆け回っていた。

いとしのエリー』というバラードをヒットさせたが、それは冗談かシャレだろうと思った。今も私の頭の中で、サザンはコミックバンドであり続けている。

昨年大晦日、紅白の最後のシーンなど、まさしくその真骨頂を見た気分であった。

 

 

地理での高さは標高と呼ばれる。平均海水面の高さを基準とした標高は海抜で、任意の2地点をとった場合、両地点の標高の差を比高というらしい。

東京スカイツリーは、全高(尖塔高)634mである。東京の観光名所として長年君臨していた東京タワーの高さは、すっかりおなじみの333m。スカイツリーは東京タワーより301mも高くなっている。

日光東照宮周辺の標高は634mで、スカイツリーとほぼ同じ高さとのこと。一昨年の秋に行き、その看板を見ておどろいた。そこから、いろは坂を抜けて華厳の滝中禅寺湖へ向かった。中禅寺湖の水面標高は、その2倍である1269mなのだという。あの大きな湖がそんな高いところに浮かんでいることを知り、2度目のビックリであった。

山の上にあると思えば納得もできるが、スカイツリーの前に立ち、ツリー2本を積み上げた高さに、大きな湖が存在することは(頭で)結びつきにくい。

 

 

数年前にカルロス・クライバーさん指揮のコンサートを衛星放送で見た。その指揮のすばらしさで、瞬時に魅了されてしまった。

その表現力は、手話を越えた体話みたいである。すてきな笑顔とからだの動きで、演奏者たちを楽しく導く。そして、演奏を指示しながら自らも観客として楽しんでいるようにも感じた。指揮者は第1番目の観客なのかもしれない。

カルロス・クライバーさんの世界は格別であった。テレビ画面に映るその姿で、演奏者も観客も、そして(時空を超えて)視聴する者も一体化して戯れられる。

アンコールの定番『ラデツキー行進曲』では、観客に向かって拍手で参加させる。

そのテンポや強弱、指揮のうまさで、拍手が楽器へとなり名演奏をしているような気分にさせられる。まるで、催眠術にかかったように・・・だ。

<仏作って魂入れず>。立派な仏像を作っても、肝心な魂が入っていなければどうしようもない、という言葉である。魂を入れることに長けた人間もこの世に存在したらしい。

 

マーチャンダイジングの発想

 

ミステリー作家の内田康夫さんは、広告制作会社の経営者だったという。ピアノ、絵画、将棋やマージャン、囲碁と多趣味でもあった。ミステリー小説を43歳で初めて書いた。それが最後の趣味となる予定だったらしい。

江戸川乱歩賞に応募するも落選。しからば・・と、自費出版してみたところ編集者の目にとまった。

<小説は、まず読まれることが必要です>。読後感を悪くしないよう、意味のない暴力やポルノを描かなかった。作家になっても、仕事に対する考え方は変わらなかった。それは、“ふさわしい商品”を市場に提供するマーチャンダイジングの発想であった。

消費者の要求や欲求に合う商品を、適切なタイミングで提供するための企業活動といえば、大量生産・大量販売の20世紀に急成長を遂げ、世界市場を席巻したかつての日本家電メーカーが思い浮かぶ。

 

 

創業者の松下幸之助さんが大阪市で設立した製作所は、ソケットなどのヒット商品を生み、戦前に株式会社として松下電器産業に改称した。そのパナソニック(現在)は、昨年に創業100年を迎えた。

戦後も家電業界のトップを走り、テレビや洗濯機を普及させた。家電メーカーが世界に飛躍した背景には激しい競争もあった。

シャープは国産テレビ第1号を開発し、ソニーはテープレコーダーやビデオなどのパイオニア的な新商品を開発した。

かつては、松下ならぬ“真似した電器”とも言われ、今では“パナそっくり”と。

パナソニックは他社が先行発売して人気になった後に、自社製品を投入してシェアを奪った。その背景には、系列販売網と量産化の技術があったことはいうまでもない。

 

 

新商品に長けたソニーはモルモットと揶揄されたことがある。ソニーの創業者のひとりである井深大さんは、<モルモットで結構。我々は業界のモルモット、つまり先駆者としての役割を今後も担っていく>と応じた。

松下幸之助さんは、事業部制導入などで“経営の神様”といわれた。その土台にあった経営理念とは<水道水のように製品を安く大量に供給しようという「水道哲学」>である。

1990年代以降、円高や人件費の安いアジア企業の台頭で家電業界は劣勢に陥った。パナソニックも、巨額投資したプラズマテレビ液晶テレビとの競争に敗れ、巨額の赤字に沈んだ。

“モノづくり”はハードウェアの機能を競う時代から、AIとIoTを活用した“コトづくり”を競う時代へと移行中のようだ。しかし、商品の質が変わろうとも、マーチャンダイジングの発想は大事である。

もし今、この時代に松下幸之助さん、井深大さんをはじめとした各日本家電メーカーの創業者たちがお元気で生きておられたら、どのような状況に変わっていたことであろうか。

 

伝説の魔球は無意識的な記憶

 

ふだん気にしないような味覚、嗅覚、聴覚から、埋もれていた過去が、奇跡のように立ち上がることがある。フランスの小説家マルセル・プルーストは、『失われた時を求めて』にてそれを「無意志的な記憶」と名づけた。

サザエさん”では、磯野家にトースターがきたのは1955年で、マスオさんはそれを「パン焼き器」と呼んだ。波平さんが60年代には、カラーテレビの値下がりを待とうと思う場面もあった・・・らしい。

リアルタイムではないが、初めて触れる家電に対する記憶はわが身も同様だ。

現役時代は代名詞でもある“高速スライダー”を武器に数々の伝説を残してきた右腕。記録より記憶に残るのは伊藤智仁投手である。それも、無意志的な記憶として・・。

史上最強の変化球として語り継がれている“魔球"の原点は社会人時代にあった。スライダーは持ち球にしていたが、当時はカーブの方が自信があり、決め球にはほど遠いかったらしい。

 

 

当時の社会人野球は金属バットの全盛期であった。バットの芯を外しても、スタンドインする場面を何度も経験していた伊藤智仁投手は大きく曲がる、(バットに当てさせない)変化球の取得を考えていた。

後にプロ入りする野茂英雄投手はフォーク、潮崎哲也投手はシンカーを武器に活躍した。金属バットに当てさせないのが一番の近道として、武器を持つ必然性があったのだ。

変化が大きくてもキレがない、キレがあっても変化がない。伊藤投手は試行錯誤を繰り返し、悩んでいた時期に先輩投手からヒントとなる握りを教わった。そして、投げ方と握りをアレンジして、すぐにゲームで使ってみた。

同じ配球で投げても、バッターの反応が違うのがわかった。「明らかに違うよ」と捕手からも言ってもらった。

生まれ変わったスライダーという武器は面白いように、相手打者のバットを何度も空を切らせた。自分のスライダーは<誰がやっても投げられない>。プロデビュー前に抱いた確信である。

 

 

一番変わったのは曲がり幅で、そのイメージは速く・大きくであった。腕を振る感じとしては、ストレートが8割なら変化球は10割と(ストレートより)大きかった。ヤクルトで、ルーキーイヤーの春季キャンプのとき、活躍する先輩投手と比べて、やっていけると感じた。

1993年4月20日に先発で初登板。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、7回を10奪三振2失点で勝利投手となる。

その年は前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。7月4日の登板を最後に戦線離脱しシーズン終了まで復帰はならなくとも新人王を受賞。

2ヶ月半、全投球数1733の登板過多でのひじ痛・肩痛であった。

当時の監督・野村克也さんは、<稲尾和久伊藤智仁。こういうのを天才って言うんだよ。プロ野球史上最高の投手>と評した。

現役通算37勝27敗25セーブ、防御率2.31。

テレビの野球中継で、たった一度だけ伝説の魔球を見たことがある。伊藤智仁投手が放つ一球一球で、中継アナと解説者がどよめいて言葉にならなかった。

 

ことばの表現はわかりやすく

 

<世の中は三日見ぬ間に桜かな>(大島蓼太)。江戸中期の一句である。3日ほど見ていなかったその間、桜の花が咲いていた・・との情景。そろそろ、この時期である。

転勤、引っ越し、卒業の時期でもある。門出を祝い贈る品物やお金、言葉などに使われる“はなむけ”の“はな”は“花”ではなく、向けるのは“馬の鼻”だという。昔、旅人は乗った馬の鼻先を、これから進んでいく方角に向けて安全に旅ができるように祈ったとのこと。

<世の中は三日見ぬ間の桜かな>。こちらは、すぐ花の散る桜に世の変化の激しさを喩えた警句だ。

谷川俊太郎さんの言葉にある。<成人とは人に成ること>。政府が成人年齢を20歳から18歳に引き下げても、今の世に起きている多くの事件では、いくら歳を重ねようとも人となることはむずかしいようだ。

何事にもわかりやすい表現は大事だ。

 

 

<本来は大統領や首相が受けるべき平手打ちや蹴りを、彼らに代わって受けさせるために巧妙につくられた政治的な仕組み>。『悪魔の辞典』の著者である米国の作家アンブローズ・ビアスは、「行政府とは、何のために存在するか」について、こう説明した。

また、英国の作家バーナード・ショーは、“うそつきが受ける罰”について<人に信じてもらえなくなることではない。他人を誰も信じられなくなることである>と言った。

1945年(昭和20年)8月、終戦前の霞が関の官庁街で、建物の庭先から煙が上がった。資料や文書を焼却せよとの指示が政府から出たからだ。何日もその作業が続き、あの戦争で誰がどんな指示を出し、どう決まったのかという多くの真実が葬られた。

しかし、そのことが日本にとり、重大な失敗になっていく。他国から戦争中の行いを非難されたとき、「そんな記録はない」と反論しても「焼き捨てたんだろう」と言われればそれで終わり。政治・軍事の当事者たちには、歴史に対する責任感がなかったようだ。

 

 

“文書主義”といえば、わずらわしい役所の書類仕事が思い浮かぶ。8世紀の日本では大宝律令で、唐をまねた文書主義が導入。中央と地方の連絡などに膨大な文書が作成された。

昨年、財務省の森友文書「書き換え/改ざん」問題で、麻生財務相は改ざんにかかわったのは理財局の一部という。役人の勝手な小細工が悪いのだと。その役人を租税徴収のトップに厚遇し、率いる行政の病理にうわべを取り繕い、国民の信頼を失墜させた責任は眼中にない。これが上述の“政治的な仕組み”なのか。

安倍首相はこの財務相に真相解明を委ねた。本来、受ける立場の平手打ちや蹴りなど、どこ吹く風の如くに。

物事にはやり始めがある。“出はな(出ばな)”は“出鼻”とも書く。顔から突つき出た端(はな)の部分が“鼻”である。馬の鼻先を向けて、安全に旅ができそうな舵切りには長けているが、蹴った後ろ脚にどれだけの人が埃をかぶればいいのだろうか。

 

私の部屋がカラオケボックス

 

若い頃から飲み歩きが好きだった。ただ、ひとりで飲むことはまれである。酒の席で話し相手がいないと間が持たないからだ。

最近は用事で外出した際、昼間に時間があくとお気に入りの場所でワインをひとり楽しむ。行きつけのイタリアンレストランの名は“サイゼリア”。

以前、俳優・津田寛治さんがテレビで言っていた。<サイゼリアのワインをひとりで飲むのが好き。ベロベロになっても会計で1000円超えたことがない>と。まったく同感である。安くておいしいあのワインに合うおつまみも揃っている。

数年前に“家飲み感覚の居酒屋”が現れ話題になった。600円でアルコールドリンク等が持ち込み放題。グラスや氷は無料サービス。なくなると、外の酒屋さんへ買い出しにいける。

腰をすえて飲むと、おつまみの料金以上に酒代が料金の大半を占めることがある。“家飲み感覚の居酒屋”は、おつまみ料金だけで売り上げを賄うらしい。

 

 

ちょうどその頃、仕事が早めに終わり夕方前に焼鳥屋へ入った。その店は久しぶりだったが、19時前までアルコールドリンクの半額サービスで、すべての種類の焼鳥が99円のサービス料金だ。いい気持ちで精算してもらうと、一番高かった品はお通しの300円であった。

呑兵衛にはありがたいものの、居酒屋戦線はたいへんなことになっていることを知った。最近、友人と行くカラオケスナックも、こんなに安くていいの? と思うありがたさである。

カラオケとのつき合いも40年以上。初期は8トラといわれた8トラック・カートリッジテープの機器で、店のコーナーに設けられたステージにて、歌詞本のページをめくり歌ったものである。

まだカラオケボックスも存在せず、歌いたいときには女性のいる割高なお店に行くしかなかった。歌詞カードだけの頃には歌い出しに気を遣い緊張したものだが、レーザーディスクでモニターが付くと、かんたんになった。

 

 

バブル期のよき時代は、各テーブルのお客さん同士で、真剣に歌合戦が始まったりもした。それぞれに持ち歌があり、見ず知らずのお客さんたちがリクエストし合うこともある。

カラオケボックスもよく利用したが、今はひとりカラオケも目立つ。管楽器を持ち込んでカラオケと共演している方も見た。

ひとりカラオケの経験はないが興味はある。カラオケの自分史を楽しめそうだし、友人たちと歌うためのレッスンもできる。ただ、(恥ずかしいというか)その勇気がなくて未体験のままである。

その矢先に「ひとりカラオケ」のセットがあることを知り、ネットでポイント購入をしてみた。「DAM」のネット配信も登録して始めると、わが部屋がカラオケボックスに変身。

余っているスピーカーセットでいい音を堪能できたり、ヘッドフォンと防音マイクにすれば夜遅くてもOKだ。時間のあるときは思う存分遊んでいる。そして、歌のうまい友人との対戦がどんどん楽しみになってきた。

 

静かなるビートルの音楽活動

 

今、ジョージ・ハリスンベスト・アルバム『レット・イット・ロール ソングス』を聴いている。“ビートルズ”というおごりもなく、新人歌手のようなやさしい歌声。丁寧な楽曲作りである。

こころの中にスーッと入ってきてくれる。そうそう、これがビートルズなんだよ。そのエッセンスをあらためて感じる

ビートルズを初めて体感したのは1966年の来日のとき。テレビのブラウン管に映る4人のメンバーの姿を見た。彼らの楽曲よりも、そのビジュアルに接するのが先だった。

当時の人気音楽番組『ザ・ヒットパレード』でスリーファンキーズなどが、和訳で歌っているのをテレビで視聴はしていたが、(ビートルズの名前を漠然と知っていた程度で)当の本人が彼らであったのを知った瞬間であった。

 

 

ブラウン管経由の彼らを見ると、それぞれの個性が際立つため、名前と顔がすぐに暗記できた。4人のメンバーで真っ先に目についたのはジョージ・ハリスンであった。一番目立たなく感じたのは、ジョン・レノンであった。

ビートルズに興味を持ち始めると、ポール&ジョンの才能が際立ち、お気に入りのジョージはグループ内で控えめで、目立たない存在に感じた。その後もビートルズの動向は気になるものの、あまりにも大騒ぎされるため、かえってのめり込むようなことはなかった。

ビートルズの解散が散々噂された後期に、ジョージはインドに興味を持ち(インド楽器の)シタールを取り入れ、楽曲に使ったりした。

他のメンバーもインドにおもむくが、ジョージのようには馴染めず戻っていく。宗教のからみもあったようだが、ジョージが精神的に入り込んでいるような気はしなかった

 

 

解散後のメンバーたちのソロ活動として、ポピュラー性の強いポール・マッカートニーはその方向でがんばっていたが、ビートルズ時代の才能の切れは感じられない。ジョンはカリスマ性がどんどん強くなり、ファンを熱くさせる部分が強くなっていく。

ビートルズが解散して最も活発に音楽活動を展開したのはジョージ・ハリスンだったともいわれる。それまで、遠慮がちだったジョージも自らの個性を表現しようとし始めた。

ジョージが亡くなり、この秋で18年。センセーショナルなジョンの最期とちがい、ひっそりと亡くなったような印象がある。線の細さが気になりつつ、他のメンバーに負けずにがんばってほしい、と無意識の中でジョージを応援していた。

ソロアルバムを聴けば、アルバムの中にジョージが生きている。生のジョージにやっと出会えたという思いにもなる。彼らしく澄んだアコースティックな部分がたまらなく好きだ。

ジョージ・ハリスンは欧米で、“静かなビートル (Quiet Beatle)”とも呼ばれていたらしい。

 

野心が大事と言っていた役者

 

ずっと好きな俳優である。原田芳雄さん。映画やドラマでたくさん楽しませてもらい、異色といわれる役者さんとの交流関係も多彩でおもしろかった。

面倒見の良さは有名で、無名の新人も原田さんから教わることが多かった。デビューした松田優作さんも、原田さんの影響を受けているとすぐに感じた。ふたりは“高倉健さんを喰う”がテーマみたいな話もしていた。

『君よ憤怒の河を渡れ』で原田さん。『ブラックレイン』では松田さん。高倉健さんと共演して、強烈なインパクトを残している。『ブラックレイン』の完成後に松田さんは若くして亡くなったが、葬儀で松田優作さんの棺桶を先頭で持つ原田芳雄さんの姿が忘れられない。

“原田居酒屋”と名付け、ご自宅を役者仲間たちに開放して、お酒を飲みながら語り合える場として提供していたという。原田さんが仕事でいないときも、仲間のだれかが飲みに来ている・・・とも。

 

 

昔のテレビドラマ『さよなら・今日は』(1973年10~74年3月)で、原田さんの恋のお相手は浅丘ルリ子さん。緒形拳さんと三角関係のような感じだった。そのドラマのラストシーンが印象的なのだ。

砂浜で原田さんと緒形さんは再会するが、言葉を交わさずに煙草の火をつけ合う。男同士のカッコよさで、妙にあこがれてしまったシーンである。

桃井かおりさんと映画の中で歌った『プカプカ』もよかった。その後、桃井さんは人気ドラマ『俺たちの旅』の中でも中村雅俊さんのギターで『プカプカ』をデュエットしていた。

思えば『プカプカ』を初めて聴いたのも、原田さんの歌だった。そして、忘れられないのが原田さんの歌う『横浜ホンキートンク・ブルース』である。今もよくユーチューブで視聴している。

この曲は、1970年代終わり、俳優・藤竜也さんがトム・ウェイツの曲にインスピレーションを受けて歌詞を綴った。それを、原田芳雄さん、松田優作さんなどが歌ったのだ。

 

 

藤竜也さんは一時期、エディ潘さんやデイブ平尾さん、柳ジョージさんなどと、チャイナタウンあたりでよく飲んでいて、「ちょっとしたレストランで仲間とライブやるから」とエディ潘さんに連れて行かれた。

そのカウンターで藤さんはライブを聴きながら酒を飲んでいたが、「お、これいいじゃん」と思う曲があったという。それが『横浜ホンキートンク・ブルース』だった。

曲はいいけど歌詞があまり面白くなかった。藤さんは酔いながら、コースターの裏か何かに“こんなのどう?”みたいな感じで書いて、エディ潘さんに渡したのだという。曲のタイトルは最初からあった。

原田さんと藤さんは歳も近く、20代の頃によく仕事していたそうだ。あるとき、「バンドホテルでライブやってるから」と原田さんから藤さんへ誘いの電話がかかり、最上階にあったナイトクラブ“シェルルーム”で藤さんはこの曲を聴いた。

<野望ではなく野心が大事>。私が若い頃に聞いた原田芳雄さんの言葉である。

 

気になる映画で思わぬ拾い物

 

小説や映画の作品を一度読んだり視聴すると、わかった気持ちになるが、見落としているところは多い。それも、けっこう大事な部分を・・・だ。

<やがて、自分が写真に撮っていたのは物ではなく光だったことに、彼は気づいた。被写体は単に光を反射する媒体にすぎない。いい光さえあれば、撮るべきものはかならず見つかる>。小説『マディソン郡の橋』でお気に入りのフレーズである。

映画でクリント・イーストウッドさんが演ずるカメラマンの紹介文で、彼が自分の天職と気づくきっかけとなる瞬間でもある。映画も大好きで数回観ている。

映画『アバター』を映画館で公開中に観たときは、壮大な画面と物語の展開のすばらしさ。そして、なによりも新時代の3D画面に触れて感動した。

その後、別の3D映画を鑑賞したが、わざわざ3Dにする必要性を感じられない。脳への錯覚を促して目や脳への影響はどうなのか? と心配になってきた。

 

 

テレビが地デジ化されてすぐの頃、『アバター』をデジタルハイビジョンの大画面で観たいという気持ちが湧いてきた。3D抜きのDVDでの視聴であったが、サラウンド音声だけはできる範囲で再現させた。

2Dでもその映像美は十分堪能できた。3D画面に邪魔?されることがない分、物語そのものにグイグイと引き込まれる。その安定感で、(2回目であるにしても)映画館で観たときに気がつかなかったシーンやストーリーの流れも、あらためて理解ができた。

あんなにおもしろいヒット作の『アバター』が公開時のアカデミー作品賞を逃し、キャメロン監督の元妻の作品が受賞した。その理由はおそらく、『アバター』でアメリカ軍(地球軍?)がさんざんコケにされたのに対し、受賞作『ハート・ロッカー』は終わりの見えない泥沼戦争で、爆弾処理の“たいへんさ”がテーマ・・・という、その差が大きかったのか。

 

 

新幹線ひかりに爆弾が仕掛けられ、走り出して加速してから時速80キロに減速すれば爆発するということである。この作品も、ハイビジョンのDVDで観直した。

ノンストップ・アクションで、、時速50マイル(約80キロ)以下になると、バスが爆発するというアメリカ映画に『スピード』という大ヒット作品がある。内容としてはとても類似点が多いが、『スピード』の公開が1994年に対して、『新幹線大爆破』の公開は1975年なのであった。

新幹線大爆破』の主演は犯人役の高倉健さん。リアル性への伏線として、犯人は北海道の夕張発の貨物列車にも同様の爆弾を仕掛けて、時速15キロ以下に減速して爆発をさせてみせた。

減速ができず延々と走り続ける。そのシーンだけで、観客を飽きさせることなく緊迫感がどんどん増していく。走るシーンだけでこれほどまでの効果をあげられることや、作品を盛り上げる“枷(かせ)”がふんだんに使われているのが特徴である。

 

ワンチャンの裏に弛まぬ努力

 

“若者言葉”は昔からあるが、最近はSNS発の言葉が多く登場しているという。入力が面倒とのことで、“いみふ”、“りょ”、“ワンチャン”・・・等の極端な省略が目立つ。そして、登場のサイクルも早くなっているそうな。

“ワンチャン”を検索してみると、ワンチャンス(ONE CHANCE)の略で、<可能性は高くないけど成功するかもしれない>という期待を込めた気持ちを表現する用語らしい。

日本人国際スターの草分けであった早川雪洲さんは、明治の終わりに渡米したが、第2次大戦中にパリで消息不明となった。私生活での混乱などで表舞台から離れていたのだ。

 

 

早川さんがハリウッドに復帰するきっかけを作ったのが、『カサブランカ』で大スターとなったハンフリー・ボガートさんであった。

東京を舞台にした映画『東京ジョー』で、少年時代からあこがれていた雪洲さんとの共演を望んだ。戦後まもなくに発見されていなければ、大作『戦場にかける橋』での名演も見られなかったはずである。

この人も渡米をして成功した人だ。プロ野球・巨人や米大リーグ・ヤンキースなどで活躍した松井秀喜さん。

<努力できることが才能である>。松井さんが座右の銘とした言葉だという。父親が石川県の画家の言葉に感動し、小学3年の松井さんに墨で書いて手渡した。

これを机の前に貼り、野球に打ち込んだ。当時の巨人監督の長嶋茂雄さんは、連日のマン・ツー・マン特訓で、松井さんの素振りにアドバイスをした。

「私の前で何千、何万、何十万とスイングしたのでしょうが、松井君は一振りたりとも手を抜きませんでした」とのことだ。

 

 

ハリウッドで引っ張りだこだったメークアーティスト・辻一弘さんは、2012年に映画の仕事から離れた。

“君が引き受けてくれなければ出ない”。現代美術家として活動していた辻さんにメールを送ってきたのは、『ウィンストン・チャーチル』でチャーチル英元首相を演じることになった名優・ゲイリー・オールドマンさんであった。

迷いながらも辻さんは引き受けた。そして、アカデミー賞に輝いたのである。雪洲さんが届かなかったオスカー像を手にして、辻さんは主演男優賞のオールドマンさんと喜びを分かち合った。

雪洲さんには『武者修行世界をゆく』と題した自伝がある。そこでは<海外で仕事がしたかったら、自分で方法を見つけて飛び出せ>と語られている。

 

叙情的な記録映画とテーマ曲

 

<青年よ、大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス)>。語り継がれるこの言葉を残し、北海道の農学校を去ったクラーク博士。その晩年は苦労の連続だったらしい。

アメリカに帰国後、大学を作ろうとして失敗。次は鉱山に手を出し借金を膨らませ、貧窮の中で亡くなったという。それでも、青年を勇気付ける言葉は不滅だ。

世界では、(青年まで育つことなく)生まれたばかりの赤ちゃんが、毎日7000人以上亡くなっている。一昨年のデータで、生後28日未満で死亡した乳児の割合が最も高かったのはパキスタン。そして、貧困と紛争に苦しむアフリカ諸国が続く。

最も低いのは日本である。終戦直後の日本も乳児死亡率は高かった。その改善に大きな役割を果たしたのが母子健康手帳。市町村が妊娠した母親に手渡し、出産後も母子の健康をフォローする。

今、日本で誕生した母子健康手帳は海外にも紹介され、40カ国以上で使われている。

 

 

大正12年(1923年)のこと。東京駅前に旧丸ビルが完成して、三菱地所(オーナー)はビルの使い方をくわしく解説した冊子をつくったという。近代的なオフィスビルへ初めて入居するテナントの人たちに、注意してほしいことが多かったからだ。

“靴の泥や紙屑などで、館内を不潔にせぬこと”、“窓に植木鉢を置いたり、ハンカチや、手拭などを干さぬこと”、“勝手に、火鉢や石油ストーブなど、持込まぬこと”・・・云々。

2度目の東京五輪が開催される2020年は、(東京の前身)江戸に徳川家康が入った1590年から430年になる。江戸は戸数も少なかったが、幕府の経営により1世紀ほどで100万の人口を擁する大都会に成長したのである。

ほぼ同時代のロンドンの人口は46万人で、19世紀初めのパリも55万人であった。

 

 

行政の重要な部分であり巨大な消費都市の江戸は、埋め立てや上下水道の整備を含めた(家康の)都市計画と土木工事により、メトロポリス東京となる基盤を造ったようだ。

昨年の訪日客数は3119万人で、6年連続の最高を更新した。2020年には4000万人という目標を政府は掲げる。初めて1000万人の訪日客数を突破した13年から5年間で約3倍に増えた。

アジアの国や地域などからの訪日客が現状の大半を占めている。政府は欧米などからの誘客を強化するというが・・・。

1968年の仏グルノーブル冬季五輪にすばらしい記録映画がある。『白い恋人たち』だ。フランシス・レイさんが作曲したあの叙情的なとテーマ曲と美しい映像は、後々までグルノーブルを強く印象づけることになる。

1965年に公開された、市川崑監督の記録映画『東京オリンピック』も感動的であった。さて、来夏の記録映画はどうなるのだろうか。異常な猛暑の中、熱中症で倒れる人々が続出し、街中でゴミが溢れ道路は大渋滞。よけいなお世話だろうが、どうも叙情的なシーンが思い浮かばない。