日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

師匠を選ぶのも芸のうちとか

 

アメリカの人気スポーツはフットボール、野球、バスケットボール等の印象だが、世論調査ではアメフットが約4割の人気を保つという。そして、かつてトップだった野球は1割未満だとか。

人気急上昇なのはサッカーで、国民の半数が楽しみにするまでに成長しているらしい。そのけん引役は女子代表チームで、ワールドカップで4回の優勝、オリンピックでも金メダルを4回獲得。いずれも史上最多だ。

さて、日本のプロ野球を大人気にしたけん引役といえば、やはり長嶋茂雄選手であろう。1959年6月25日に行われたプロ野球初の天覧試合は、、巨人と阪神の戦いであった。

不振が続いた長嶋選手は買い込んだスポーツ紙の見出しに<長嶋サヨナラ本塁打>と書き換え、自らを奮い立たせた。その効果なのか、長嶋さんは村山実投手からサヨナラ本塁打を放ち、巨人を勝利に導いた。

 

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立教大学で同期の長嶋茂雄さん・杉浦忠さん・本屋敷錦吾さんは「立教三羽ガラス」と呼ばれ、東京六大学野球リーグでの長嶋人気はものすごく、常に観客は満員であった。かたや、当時のプロ野球の球場はガラガラだったと聞いたことがある。

卒業後、長嶋さんと杉浦さんはともに南海ホークスへ入団する予定だったが、長嶋さんは直前に巨人へ行くことになった。そして、プロでも長嶋人気が沸騰してスーパースターへとなる。私が幼い頃、長嶋ファンになってから野球のファンになった記憶がある。

どの世界でも、人気者のヒーロー、ヒロインがいるとジャンル自体が活気づく。

1974年、(風刺の利いた新作落語で人気を博していた)落語家・笑福亭松之助さんの元へ、ひとりの高校生が訪ねて弟子入りを志願。

何でワシのとこなんかに来たんや? と尋ねる師匠に、若者は遠慮をせずにはっきりと答えた。「センスよろしいから」と。

師匠は腹を立てるどころか、「おおきに」と弟子入りを認めた。<師匠選びも芸のうち>。落語界の格言だという。その弟子が後の明石家さんまさんである。

 

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若者の達者な話術はテレビ向きだと見抜いた松之助師匠は、お笑いタレントへの転身を勧めもした。今のさんまさんを見るたび、あの師匠の慧眼が思い起こされる。

師弟の関係は芸の道にかぎらない。ある野球少年のあこがれはイチロー選手だった。進学した中学校でも当然に野球部・・・と思いきや、なじみのないバスケットボール部に誘われた。

その顧問の熱い口調に、少年の心が揺らされることになる。君はNBAに行ける! 最高峰のプロバスケットボールで活躍できる大器なのだから・・・と。

とはいえ、初めはお手玉続きで滅入っていた少年だったが、10年足らずで指折りの選手に成長した。少年は日本人初の(NBAドラフトで)1巡目指名を受けた八村塁選手である。

よくぞ原石を磨いてくれたことと、師の見る目にも頭が下がる。師匠選びの巧みなのか、弟子選びの巧みなのかはわからぬが、とても痛快な話である。

 

魅力のある著名人たちの逸話


「食べ物の恨みは怖い」という。それは、人の記憶に強く残るものだからなのか。美しく盛りつけられた日本の弁当は、海外でも注目されている。

かつて、脚本家・向田邦子さんは(小学生だった)戦前の“弁当の時間”について、エッセイに記した。向田さんが書いたドラマにも食の風景は多かった。

向田さんの同級生に、弁当の時間になると「おなかが痛い」、「忘れた」と言って教室を出て行く子がいたそうな。そして、ボールを蹴ったり砂場で遊んでいた。

先生も周りの子も、自分の弁当を分けてあげようとはしない。「薄情のようだが、今にして思えば、やはり正しかったような気がする」と向田さん。

自分に置き換えても、人に同情されて肩身が狭い気持ちになるよりはいいのだと思えたらしい。どこか切なさがつきまとう子供のころの弁当。その思いも含めて、生きることを学ぶのも食育なのか。

 

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歳を重ねてもミーハー気分のままである。とくに、子どもの頃や若き日の時代にいた著名人たちの逸話が大好きだ。

戦後間もなく、松竹大船撮影所の駐車場には色とりどりの乗用車が並んだという。俳優たちが競って乗り始めていたからだ。名監督の小津安二郎さんはそれを見て嘆いた。
「いつから撮影所はやっちゃ場になったんだい」と。

こちらは東映映画の話だ。「最初と最後に(高倉)健さんの歌があって、立ち回りがあれば、途中はどうでもいい」。映画監督・降旗康男さんは、『網走番外地』シリーズを担当するにあたり、映画会社の幹部からそう言われた。

当然のことながら監督は憤慨した。途中がどうでもいいなら映画は成立しない。しかし、映画館で健さんの映画を見て、おえらいさんの言葉は真実だと悟った。

映画の冒頭では大拍手。しかし、途中で客の何人かが居眠り。かと思えば、ラスト近くに健さんの立ち回りの場面で起きだして、<待ってました!>と声をかける。たしかに・・・こんな魅力ある俳優はどこにもいない。

 

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お笑い芸人の世界にある「出落ち」とは、ネット検索によると<演者が登場した瞬間、すでに観客から笑いが起こる状態>という意味らしい。

それは、ほめことばではない。舞台に顔を出した瞬間がクライマックスになってしまえば、その後は痛々しい雰囲気に陥ることだろう。

芸人には悪夢のような展開だが、どこがクライマックスだったかを知るのは、すべてが終わった“あとの祭り”である。

昭和40年代、『天才バカボン』などを描いた赤塚不二夫さんは、スタッフと編集者による合議制でアイデアを出し合い数々の作品を制作した。漫画界に新風を・・・との結束は固かった。

赤塚さんは締め切りを守る人だったが、なぜか入稿は締め切りギリギリになった。遅らせたのは担当の編集者だ。

もし、斬新な内容で編集長に見せたら描き直しを求められるかもしれない。そのためにわざと、直したら間に合わない時間まで原稿を手元に置いておいたという。粋で機転の効く編集者もいた時代だ。

 

語り継がれぬその年の代表曲

 

ネット、スマホの流通で、映像・音楽などの配信も定額料金制が定着している。まさに今は“所有”から“利用”への転換期なのか。CDやDVDという媒体を必要としない点では、レンタルと通じるところもありそうだ。

昔、江戸でも「損料(そんりょう)屋」なるものが庶民に重宝されていたという。布団や鍋などの日用品、衣装も貸して料金を受け取るというレンタル業者だ。

住まいの長屋は6畳程度で家財道具を置くスペースもないし、頻繁に火事も起きるため合理的選択としてモノを持たなかったらしい。

戦争とモノ不足を知らない。高度経済成長期に育ち、「明日は今日より豊かだ」を信条にフォークやロック、漫画など大衆文化も生む。

堺屋太一さんは『団塊の世代』の前書きで書いた。「団塊」とは鉱業の専門用語で、堆積岩中に周囲と成分の異なる物質が丸みを持った塊となっている状態を指す・・・のだと。

 

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前後の世代と異なる経験と性格を持つ団塊世代は、一線を退いても“人生100年時代”を切り開く最前線にいるようだ。また、子どもの団塊ジュニア世代も異質の経験をしている。

大不況期の日本で就職時期を迎え、非正規雇用に甘んじた人も多い。いわゆる「就職氷河期世代」である。

団塊世代やその前後の世代から、日本の音楽シーンも塗り替えられた。カラオケの普及もあり歌いやすい曲ばかりが求められる時代となり、プロ歌手の圧倒的表現力やプロ作家の革新的創作力は軽んじられた。そして戦前からの歌謡曲は衰えていった。

作詞家・阿久悠さんのエッセイに『誰が歌謡曲を殺したか』がある。全盛期を知る阿久さんには歌謡曲は“殺された”ように映っていたらしい。

思えば、その年を代表する曲を思い出せぬ時代になって久しい。「聴き歌」がなくなったことを阿久さんは歌謡曲を殺した犯人の1人と考えていたようだ。

 

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自分で歌って楽しむ「歌い歌」とは違い、「聴き歌」はもっぱら歌を聴き歌い手の技、芸を楽しむ歌のことだという。

戦争はもっと苛烈なものだという思いがあったのか。こういう歌で戦争を語れるか、などと反戦フォーク『戦争を知らない子供たち』がヒットしたとき、その賛否が世に渦巻いた。

戦後生まれの若者が平和をやさしく訴える内容に、旧世代は“甘さ”を感じたようだ。戦後まだ25年の1970年にその曲は生まれた。

過ちを身にしみて知る人々がたくさんいた。また、ギターを奏でる若者たちにしても、戦場の悲惨、空襲の恐怖を聞いて育ったはず。戦争への怒り自体は共有しているなかで、この歌は議論を呼んだのだろう。

それからまた半世紀を経た今の音楽も、専門の作曲家や作詞家に頼らず、自分たちの言葉を自分好みのメロディに乗せて伝えるという割合は多いだろう。ただ、歳をとったせいか現在の流行歌がまったくわからないのがとても情けない。

 

不幸にする一番確実な方法は


<みんなで吸おう 明るい煙草>。昭和20年代中期の映画館には、こんなキャッチフレーズのポスターが貼ってあったらしい。

作家・井上ひさしさんが傑作青春小説『青葉繁れる』のあとがきに、その景観を書き留めていた。仙台市での高校時代には、映画館に足しげく通ったとのことだ。

当時、国の予算の2割が煙草と塩の利益金で賄われ、教育費や公共事業費などを支えていたという。孤児院で過ごした井上さんは教育費に反応し、「大人になったら喫煙する」と映画館で決心した。

暮らしが質素だった時代の思い出は懐かしい。作家・向田邦子さんは子供の頃に、宴席から酔って帰った父によく起こされたという。

手をつけない肴(さかな)や二の膳の折詰を開き、「さあ、お上がり」と父が促す。そして、夢とうつつの境で箸を動かす子どもを楽しげに眺める。私も寿司折を夜中に食べた記憶がある。思えば、家に冷蔵庫もなかった時代である。

 

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<記憶の中で「愛」を探すと、夜更けに叩き起されて、無理に食べさせられた折詰が目に浮かぶ>と向田さんはエッセイに記した。古き良き時代が頭に描かれ、家庭のにおいが行間に漂うようなお話である。

インターネットで葛飾北斎の『十軒店雛市(じっけんだなひないち)』を見ていたら、商家の軒下に小さな巣があった。日本橋近くのにぎわいを描いているが、とても親しみを感じる。巣をかけやすくするためか、落下防止用なのかわからぬが、巣の下に支えるような板が設置してある。

ツバメは天敵からひなを守るため、あえて人家に営巣するという。江戸の昔から、人々はその子育てを応援していたということのようである。

“幸福を招く”とされるツバメの巣へけなげに餌を運ぶ親鳥。そして、元気に育つひなの姿からは、とても尊いものが伝わる。そういうことが幸福のヒントなのだろうか。

 

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私が子どもの頃には、学校や官公庁などの土曜日は半休であった。その土曜日を「半ドン」と言っていた。語源はオランダ語の「zondag(日曜日)」である“ドンタク”だという。それが「半分休み」の「半ドンタク」から「半ドン」へとなった。

週休2日制の普及で、今は“解放感”の金曜日の夜と、“ゆったり気分”の土曜日ということになるのか。

ところが、日曜日となれば夕方どころか朝からもういけない。いわゆる「サザエさん症候群」が広がった。面倒な会議の場面を想像したり、イヤな上司の顔を思い出すことも。休みが長ければ長いほど、休み明けの不安も前倒しでやってくる。

その症状は子どももまったく同じで、3月からずっと休校という所も多い。解禁時にはどんな“憂鬱”が待っているのだろうか。

フランスの思想家ルソーは『エミール』にて、子どもを不幸にする一番確実な方法を説いている。<それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ>と。物に限らず、わが子の笑顔ばかりみているようなら、幸福は子どもから遠ざかっていく。

厚顔無恥で見え透いた嘘ばかりの“どこぞの首相”は、いったいどういう育ちを受けてきたのか。父親はとても立派な政治家だったのに・・・。

 

 

お題「#おうち時間

 

存在感の薄まるTVメディア


横浜市史」にあるという。江戸末期に米国のペリー提督ら一行が、黒船で来航した際に横浜で相撲見物をしたそうな。

1854(嘉永7)年、日米和親条約が締結されたときには、幕府の配慮で力士と面会した。米兵は、米俵を軽々とかつぎあげる力士に興味を抱いた。

そして、即興の親善試合で無敵だった大関の小柳が米兵3人を同時に相手にして圧勝。<アメリカ人一同喝采して感嘆し、力士たちの親善の使命は見事にはたされた>とのこと。

NHK朝の連続テレビ小説で『ひよっこ』など3作品を書いている脚本家の岡田惠和さんによると、朝の忙しい時間に放送されるため、画面を見なくとも、聞いているだけでも理解できるように書くという。

 

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目だけの演技などの場面を避けてセリフ中心のドラマを作るのだ。そのため、“みんながよく喋る”。それが朝ドラのにぎやかさと明るさのエッセンスなのかもしれない。

歴代の作品で3世代同居などの大家族が描かれるのもそのためか、“喋る相手”もたくさん用意されている。

高視聴率の大相撲も夏場所が中止ということで、テレビで観ることもできなくなった。朝ドラはどこまで撮りだめされているのかわからぬが、この春スタートの連続ドラマもどんどん途切れていく。

なかには前宣伝だけで初回スタートさえされていない作品もある。テレビというメディアの歴史でこんなことは初めてなのだろう。

近年では若者のテレビ離れなどといわれることもある。一日中テレビをつけっぱなしにする“必要”派と、パソコンで動画投稿サイトのユーチューブや動画配信サービスのAmazonプライム・ビデオ、Netflixを見られれば十分という受信機を持たない“不要”派に分かれるらしい。

 

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私は自室でパソコン作業をしながら、テレビをつけっぱなしというパターンが多い。リアルタイムでの番組はほとんど見ずに録画をしたドラマを編集してまとめて観る。あとはアマゾンの“Fire TV Stick”をテレビのHDMI端子に挿して、ユーチューブや動画配信サービスを楽しんでいる。

ある意味ではテレビ離れ派なのだろうが、パソコンやタブレットよりテレビの大画面で見るのが好きである。

それでも、テレビ番組は視聴者への到達力が圧倒的に高く、ネットでも話題にされやすいのはたしかだった。テレビ番組をネットでも流す“常時同時配信”も、若者のテレビ離れがあるから成り立つのかもしれない。

かつて、放送表現ギリギリの実験的な番組がテレビの歴史を変えてきた。しかし、今の地上波からはなかなか生まれない。コンテンツが氾濫する時代だからこそ、存在感を高める努力をしないといけないのがテレビ局のはずだ。

コロナで自粛中の今でも、テレビの中ではネット内の動画が繰り返し流されているだけ。情報やニュースの内容でも、ネットのアクセスランキングなどが横行している。まるで、素人の作る番組にひれ伏すが如くに・・・である。情けない。

 

思い起こすと一年前は平成だ

 

大阪を生涯、離れなかったという。作家・司馬遼太郎さんである。そこでは一極集中の東京とちがい、事象を相対化して眺められる。

イデアや集めた素材を発酵させる適度な湿り気も、大阪の街と人にあるらしい。そして、幾重もの歴史の層により作品の史料も手に入りやすい・・・とも。

楽天家たちは・・・前をのみ見つめながらあるく。坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう>。

明治文明の勃興期の群像を描いた『坂の上の雲』で、司馬遼太郎さんが書かれた“あとがき”の名文である。

 

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思えばまだ一年前の4月末は平成の時代であった。新元号を目の前にして人々は浮かれていたかもしれない。

人口増と工業化が経済成長の両輪となり、日本の1人当たりGDPが世界2位になったのが平成12(2000)年だった。

そして、日本列島の人口がピークを越えたのが平成20(2008)年の1億2808万人。江戸時代の終わりからの人口成長期の到達点となった。

30年余りの間、19世紀から上り続けてきた文明の峠を越えたようでもある。また、2度の大震災があり、原発事故も忘れられることはない。

 

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平成末には、1人当たりGDPは世界26位に下がり、生産年齢人口は6割を下回ったとのこと。文明の引き潮にビクビクしながらも「良い時代だった」と世論調査では7割以上の人が答えたらしい。

2019年4月27日から10日間も暦の上で休みがつらなった。それは1948年に祝日法が施行されて以来、最長だったそうな。

「外出自粛をやめて元の生活に戻ると、その15日後に感染者数が増加に転じる可能性がある」との試算も出ている。

あれから一年後であるこのGWの風景を、いったい誰が想像できたであろうか。あの「平成」が遠い昔のように感じ始めている。

 

見えぬものに囲まれて暮らす

 

民放の開局に合わせて、駅前や商店街などに受像機が据えられたのが1953年だという。街頭テレビである。東京・新橋駅前に(プロレス中継で)力道山の雄姿を観るため2万人が集まったそうな。その黎明期にテレビは高根の花であった。

今はスマホでどこでも動画がかんたんに見られる時代。さかんに宣伝されている“5G”だと、通信速度が現行の4Gから約100倍で、2時間の映画が3秒程度で取り込めるとか。

もはや通信環境が仕事の成否及び暮らしの快不快を分ける世の中になっている。平成の時代、10年周期で通信方式の技術が革新を重ねてきたといわれた。声だけでやりとりした1Gは遠い昔になり、次は5Gを制する者が“次の10年を制す”ことになるという。

ちなみに、10の9乗を表すG(ギガ)は情報量の単位となるギガバイトのことで、ギリシャ語の「巨人」に由来するらしい。そして、10の12乗のT(テラ)は「怪物」になるとか。

 

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ややこしいのだが、5Gの“G”は「世代(Generation)」の頭文字で、高速大容量の「第5世代(5G)移動通信システム」の略だという。それは、自動運転や高精細映像を通じた遠隔医療などにも使われるし、どこでも動画鑑賞ができてしまう。

1946年に電子計算機は軍事目的で開発された。その開発目的は弾道計算であり、終戦後は水爆の研究にも使われた。

思えば、インターネットも軍事目的の産物であり、拠点を攻撃されて情報が遮断されることのないようにと“ホストコンピュータを持たないネット”が誕生した。

インターネット以前のパソコン通信では、パソコンとホスト局のサーバとの間による通信回線によりデータ通信を行うものだった。その全盛期は1980年代後半から1990年代で、インターネットが一般ユーザーに開放されることで一気に衰退していった。

 

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パソコン通信の初体験は感動モノであった。日本電気株式会社が運営していた「PC-VAN」や日商岩井富士通による「NIFTY-Serve」。各地域や個人で立ち上げた“草の根ネット”も楽しくてワクワクした。それは、今のインターネットよりもアマチュア無線みたいな感覚だったのかもしれない。

パソコン通信は「クローズドネットワーク」で、特定のサーバ(ホスト)とその参加者(会員)の間だけをつなぐ閉じたネットワークだった。今のSNSとは真逆で、拡散しない情報がとてもおもしろくて貴重だった。

今や大気中には電波を始めあらゆる物質?や情報が飛び交い、見えぬものに囲まれて生きる時代になった。伝書鳩の帰巣率の低下も、1990年代後半から携帯電話の電磁波影響説が出ている。

インターネットは、単位ごとに作られた1つ1つのネットワークが、外のネットワークともつながるようにした仕組みでとてもオープンなネットである。ただ、ホストコンピュータを持たぬため使用機器に及ぼすウイルスの感染も速いし収集もつかない。

動物やヒトを介して拡散するあのウイルスとよく似ている気がしてならない。

 

システムの部品に徹すること

 

かつて、セールスの講習を何度も受けた。落とし所(クロージング)、セールストーク、押しと引きのタイミング等・・・いくつものノウハウを聞いたが、飛び込み営業は実戦あるのみ。

英語でいうと「フット・イン・ザ・ドア」らしい。ドアに足をはさめれば、セールスは半ば成功とか。その昔は(引きのない)押し売りが横行していたらしい。

心理学者によると、玄関に招いた側は入れた自分と商品を買う気のない自分の矛盾を感じて不快になるとか。自分の一貫性を保つには、品がどうあれ買うのが一番容易な解決策だとの心理が働くらしい。

怪しい訪問販売をドアホンで閉め出せる今でも、詐欺師がつけこむのはこの心理だとのこと。肉親のピンチを信じ込まされた高齢者が後を絶たないのも、心のドアに足を踏み込まれたからなのか。

 

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振り込ませ詐欺の手口もますます巧妙になり、私だって“騙されないぞ”との自信がない。詐欺師も詐欺などやめてまともな職につけば、セールスでかなりの成績が得られそうなのに。

<3年間だけは黙って働け!>。1980年、サントリーのシリーズ広告で作家・山口瞳さんが書いていた。その年の新入社員へのメッセージであった。

「世の中には一宿一飯の恩義というものがある。やり直しがきくという若さの権利を行使するのは、義理を返してからにしてもらいたい」とも。

終身雇用制が当たり前で、昭和の良き時代であった。今の時代に果たして理解されるかどうか。会社に“一宿一飯”の恩義を感じる必要もないし、無理して体や心を壊すこともない。そう考える方が妥当かもしれない。

 

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村田沙耶香さんの小説『コンビニ人間』の一節にあった。<私は人間である以上にコンビニ店員なんです>と。コンビニでのバイト歴が18年、36歳の独身女性である主人公の言葉である。

今のコンビニの仕事は複雑でものすごく大変だと思っている。なのに、こんなに言えてしまうのが素敵なのである。コンビニというシステムの“部品”に徹することで、彼女は世界とつながろうとしているのだ。

2018年10月に100万部を突破したこの作品は、各国で翻訳もされている。多くの読者をひきつけるところは、主人公の心の叫びなのだろうか。

生きづらさ、同調圧力を感じるのは、なまじ(人間に)個性が備わっているから。それなら厄介な自我を消去し、<システムに調和して生きたほうが楽だ>・・・と。

 

最後最後を連発したあの春は

 

戦国武将や歌人も温泉を好んだそうな。武田信玄湯村温泉に、藤原定家有馬温泉徳川家康も熱海温泉へと湯治に訪れた記録があるという。

この3月も忙しく、やっととれた連休で熱海に一泊して温泉を楽しんできた。このご時世でさぞかし閑散かと思いきや、平日も多くの若者や家族連れで混み合っていて驚いた。

花の下では、仲間たちでむしろを敷き、連歌俳諧を連ね、歌をうたったり詩を吟じて宴を楽しんだとのこと。江戸時代前期の上野の花見の様子だという。当時の上野では歌っても三味線は禁止されて、日暮れに花見客は追い出されたらしい。

喜びを分かち合いたい春らんまんの季節であるが、今年の春は桜の下での宴も許されない状況である。そういえば、一年前の4月には新たな元号が「令和」に決まり、いつもの春よりウキウキ感が高まっていた気がする。

 

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<平成を最後最後とこき使い>。あの時、こんな時事川柳を新聞で見た。「平成最後の」という言い方も、あの4月限りで姿を消すことになる。それを思えば、去りゆく時代への愛惜が増すのも人情か。

一年前の調査では、日本人の7割が平成は良い時代だったと考えていたという。去りゆく平成から良い思い出ばかりを拾い集めているようなところもあったのか。

<いつのことだか思いだしてごらん あんなことこんなことあったでしょ>。『おもいでのアルバム』という歌である。時の移ろいと思い出の歌にも、いやな思い出は一切出てこない。

<ノスタルジーとは過去のいいとこ取り>と書いたのは、脚本家・山田太一さんである。とはいえ、ふとした時によみがえる苦い記憶もあるかもしれない。<思い出というものは音もなく心をかじっていく>と言ったのはロシアの詩人・プーシキン

 

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昨朝、一仕事を終えて自転車でドラッグストアの前を通り過ぎたら、大行列ができていてビックリした。テレビで見たり話では聞いていたが、開店の何時間も前から文字通りの長蛇の列であった。目的はマスクだったのだろうか。

1973年のオイルショックで思い浮かべるのは、やはりトイレットペーパー騒ぎか。モノ不足の情報が駆けめぐり、トイレットペーパー争奪戦が起きた。“紙がない!”との騒動は助長して印刷用紙不足も招いた。

当時、分厚さを競っていた漫画雑誌のページ数も減らされて、短く仕上げるために漫画家たちは非常に苦労したという。

令和初の4月のこの景色を、一年前に想像できた人はどれだけいるのだろうか。

 

型のある人こそが破る表現術

 

<常識って? 凡人が仲良く生きるためのルールのことさ>。アップルのスティーブ・ジョブズさんは生前に語った。十八代目中村勘三郎さんいわく<型がある人が破るから、『型破り』。型がないのに破れば『かたなし』>とも。

<地球の裏側にはベースボールに似たゲームがあった>。昭和の終わりに、ヤクルトでプレーしたホーナー選手がファンをしらけさせた言葉だ。ベースボールと野球とは似て非なるものなり。平成に入って、イチロー選手がオリックスに入団したときもそんな時代だった。

オープン戦では流し打ちしかしない。「君は引っ張る方法を知らないのか?」と、いら立った監督が尋ねた。<いつだってできます。簡単です>。次の試合ではライト方向に鋭いライナーを3本放ち周囲の雑音を封じた。

多くの一振りが、脳裏に浮かぶ。<中前打ならいつでも打ちます>。決して大口でも冗談でもなかった。

 

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バットの一振りで表現してきた人でもある。大リーグ移籍では(日米で)“あの体格で通用するわけがない”とも言われた。アメリカでは小柄でやせっぽちの日本人野手が成功するとは、誰も信じていなかったのだ。

もう一年...いや、まだ一年なのか。メジャー19年目のシーズンは45歳であった。衰えぬレーザービームを見せてくれたが24打席連続ノーヒット。日本での試合を花道に引退した。こんな選手はもう、一生見ることができないだろう。長嶋茂雄選手もそうだった。あの長嶋流を継ぐ選手は未だに現れていない。

<小さなことを積み重ねることが、とんでもないところに行く唯一の道だということ>。イチロー語録のひとつである。日本を世界一に導いたあの意地の適時打。メジャーのシーズン最多安打や3000安打。伝説的なピート・ローズ氏の通算安打記録を抜いたころの打席。

 

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<今の僕は日本の野球なしには作れなかったと思ってます>と、かつて語った。子どもの頃から地元のバッティングセンターなどで磨いた技術が、驚異的な打撃術に昇華した。

走・攻・守のクロスプレーが織りなす野球の醍醐味も目が離せなかった。日本では7年連続の首位打者アメリカに渡り10年連続200安打を達成。2004年にはシーズン最多の262安打を放った。外野から内野への矢のごとき返球の「レーザービーム」。足の速さや身の軽やかさも光り、本場のスタンドも大いにわかせた。

それでも、イチローさんが野球を楽しんだのは、1994年に日本プロ野球初の200安打を達成した頃までだったとか。

<どの雲にも銀の裏地が付いている>。イチローさんの引退時、新聞のコラムに載った英語のことわざである。

暗雲に見えても、反対側は太陽で輝いている。雲を貫き、光の中で舞った人。美しい線を描く打球以上に、選手生活のかくれた場所にある裏地だろう・・・と。